EIKOの気まぐれ闘病日記 -90ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 皆さん、従兄のためにお題目を送ってくださりありがとうございました。


今日無事に従兄の葬儀に参列をしてきました。


 私の父は三男二女の五人兄姉弟の四男なのですが、昨年


父の兄が85歳で亡くなりました。今日亡くなったのは、父の


兄の次男でまだ54歳の若さで食道がんで亡くなりました。


 長男の従兄がいうにはおかしいと思って病院に行った時に


は、すでに手遅れだったそうです。


 父の長女の叔母の従兄妹とは東京と千葉に住んでいて、信


心もしていたので交流があったのですが、残りの父の兄姉弟


はほとんど佐賀に住んでいるので、あまり交流がなくて、40年


ぶりに再会した従姉や従弟や、初めて会う鳩子もいて、佐賀の


親戚の近況も聞くことができました。54歳の若さで亡くなった従


兄ですが、従兄には二人の息子がいて、長男は就職が決まり、


次男も来年大学卒業すると聞いてなんだか安心しました。


 今回は私の従兄のために沢山のあたたかいコメントをいただきました。


本当にありがとうございました。 <m(__)m>


 

 

 出廷の直前にも台風の被災地へ ③


 九月二十日から三日連続で出廷するため、池田は十九日に来阪した。いよいよ検事への証人尋問である。大正区に住んでいた井上チヨカ。台風で被災した一人だった。関西本部に救援のお礼に来ていた。池田は「皆さんお元気ですか。会長が若いから心配をかけるね」と挨拶し、居合わせた人々に次々と声をかけた。

 「私達夫婦には新品の御書(=日蓮の遺文集)を開かれ『井上夫妻』と揮毫(きごう)をしていただいた。その文字の横に、大きな点が書かれてあるのに気がついた。『先生、これは何でしょうか』『これはおばあちゃんだよ』(井上の手記)

 「おばあちゃん」とは、喘息を克服し、五年前に永眠した井上の義母のことだった。

「先生は、その母のことを覚えてくださっていたのだ。慌ただしい救援活動の真っただ中のこと。心が熱く溶けていくような瞬間だった」と井上は書き残している。

 「私はまだ一歳だったのですが、後年、大和田小の近くに住む印刷会社の社長さんに、こんな話を聞きました」と平山桂子(西淀川区、総区総合婦人部長)は語る。 ──あの台風で大和田小の一階も浸水した。物資も届かず、もうあかんかと思っていた。見たことのある創価学会の幹部の人が食べ物を持ってきて、「学会員はいますか!学会員はいますか!」と叫んでいた。「ああ、学会員しか助けてもらえんのか」と、がっくりした。でもな、違うたんや。手をあげた学会員さんらに、その幹部の人は「あんたらが皆さんに配るんやで」と頼んだんや。信じられへんかった。みんなイヤな顔一つせず、わしらに食べ物を配ってくれた。その姿が仏様に見えたわ。あの時の感謝の思いは一生消えへんで──。

 出廷の直前にも台風の被災地へ ②


 翌朝、人々は台風の爪跡に息をのんだ。大和田は特に被害が大きく、泥水の底に沈んだ。大和田小には朝一番で学会員の議員がやってきて毛布を配った。壮年部や男子部の有志も泥水をかき分け、寒さに震えながらボートや筏で行き来し、食料などを運んだ。

 

 池田は関西総支部長の白木義一郎らと連携をとり続けた。三日経っても水が引かない。大和田小の避難者たちは疲労困憊(こんばい)の極みにあった。白木は自らボートを漕いで被災地を回った。大阪市と交渉し、浸水していない陸地から大和田小の二階のひさしまで臨時の橋をつくるよう、こぎつけた。

「徹夜の突貫工事で、翌日完成した。ほんまに早かった。あれで小学校の外に出られたし、救援物資も届けられるようになった」(野崎要、副支部長)。急ごしらえの橋は、誰呼ぶとなく「白木橋」と名づけられた。


  出廷の直前にも台風の被災地へ ①


 超大型の第二室戸台風が列島を襲ったのは九月十六日だった。死者、行方不明者二〇〇人超、負傷者五〇〇〇人弱。住家の全・半壊や破損は五〇万戸に迫った。特に西大阪は甚大な被害を受け、床上・床下浸水が十一万六〇〇〇戸、被災者の総数は二十六万に及んだ。

 西島川が決壊した西淀川区は「人が家もろとも流されていくようなありさま」だったと婦人部員の吉本スエコが語り残している。大和田小学校の前で文具店を営んでいた田之頭勝巳(地区幹事)。

「ご飯とやかんを持って大和田小へ避難しました。私が畳を上げて出ていく時には水は胸まで来ていた」。大和田小には人々が殺到し、五〇〇〇人の避難者であふれた。


 第一報を受けた池田は現地と連携をとり続けた。台風の最初の上陸地である四国には電報を打った。西淀川には聖教新聞の関西支局記者だった西中清(京都市、総県主事)らが駆けつけた。井原弘(当時、ブロック長)は「雨風がまだ強いその夜(=九月十六日)、池田先生のおつかいとして、関西本部より二名の男子部員が乾パンを持参されました。どの団体も、どの党も来ていない時です。同志はどんなに力がついたことか」と語り残している。


 拠点は姫島の栗原実宅に決まった。運送業の足立茂蔵(総区主事)は中之島までトラックを飛ばし、遊覧用ボートを運び込んだ。あり合わせの木材で筏を組んだ男子部員もいた。婦人部は総出で握り飯をつくった。

「各家庭で米一升、とか分担を決めました。大きな会合の時にはたくさん握っていたから、自然に体が動きました」(流田睦子、総区婦人部主事)。