EIKOの気まぐれ闘病日記 -109ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  原爆症を乗り越えて ①


 池田が手錠姿で路上を歩かされた頃、九州の宮崎から大阪行きの準備をしていた女子部員たちがいた。横山嘉寿美(延岡市、圏婦人部主事)と山田千鶴(宮崎市、支部婦人部長)。二人は偶然が重なり、池田の出獄を間近で見ることになる。

「あの日から信心に真剣に向き合うようになりました」と山田は語る。

「戦争が終わった時は満州にいました。父の利松は憲兵で、シベリアかどこかに連行されて二度と帰ってきませんでした」。延岡に引き揚げ、母と二人で小さな青果店を営み、1955年(昭和30年)入会した。


 宮崎の延岡市は、大阪の学会員が精力的に弘教を進めた地域だった。

 横山嘉寿美の母スエは、ひどいリウマチで寝込んでいた。

「昭和30年、大阪から来た行商のおばあさんに折伏されました」。母はやがて快方に向かい、稲刈りもできるようになった。その姿を見て横山も信心を始めた。深刻な悩みを抱えていた。

 手錠をかけられた両手を高々と上げ ③


 かつて「朝日新聞」に「『市中引き回し』改めよ/大阪地裁周辺で慣習化」という見出しが載ったことがある(1989年12月21日付)。

 大阪地裁や地検の周辺で、事件の容疑者が「手錠、腰縄をつけたまま人目にさらされ、歩かされている姿が長年にわたって見られる」実態を批判する記事である。衆人環視の中を歩かせるこの行為は「刑の先取りだ」「まるで江戸時代の『地中引き回しの刑』だ」という抗議を受けて、現在はなくなっている。


 池田は7月9日の午後、大阪地検から別館まで歩かされた。

「調室から池田に手錠をかけて別館のO検事室まで往復させた。大勢の人目の中を手錠をかけて連行させ、而(しか)も何の用もなく只ひきづり廻されたとしか思えないいやがらせであり重大なる侮辱であって一種の人権侵害である」(第77回公判の弁護側意見陳述)。

 この日、検察は池田に「(検察の)云う通りに、(話を)全部合わさなければ戸田会長を逮捕するようになってる、本部の手入れも考えている」(第70回公判調書)と告げている。


 周囲には池田の姿を見守る学会員たちの姿があった。山下は回想する。

「私は郵便局の前の連絡通路から飛んで出ました。池田先生は、その婦人部員さんに見えるように、手錠をかけられた両手をかけられた両手を高々と振り上げはったんです。信心を始めてまだ4ヶ月でしたけど、ほんまに胸打たれました」。池田に声をかけることもできず、山下は泣いた。



 手錠をかけられた両手を高々と上げ ②


 闘病が8年目にさしかかった1956年(昭和31年)の夏。山下は家に帰る道すがら、京阪電車の萱島駅前を歩いていた。民家の軒先に見慣れない大きな提灯を見つけた。

「私は好奇心旺盛やからね。ちょっとのぞいてみたんですわ。それが創価学会の座談会やった」と笑う。

 考古学仲間から日蓮の思想を聞きかじっていた山下は、その場にいた学会員と散々やり合って席を蹴った。しかし、気になった。半年ほど座談会に通い、「信仰が妻の支えになるのなら」と入会を決心した。


 1ヶ月後、寝たきりだった登代子は部屋の掃除ができるようになった。さらに数ヶ月後──季節は再び夏を迎えていた。萱島駅の改札口を出ると、「おかえり、今ですか」という耳慣れた声がした。振り返った山下「飛び上がるほど驚いた」という。長年まともに歩けなかった登代子が、なんと自転車に乗って迎えに来てくれていたのだ。


 池田が連日、大阪地検で取り調べを受けていたのは、ちょうどその頃である。山下は職場近くの路上で「なんであんな理不尽なことが許されたのか。あれだけは絶対に許されへん」と今も声を震わせる光景を目にした。

 手錠をかけられた両手を高々と上げ ①


池田は任意出頭した大阪府警で不当逮捕され、その日のうちに東警察署へ移送された。8日には大阪拘置所に移監され、釈放される17日まで、連日の取り調べを受けた。

 池田の獄中での苦闘を、間近で見つめた学会員がいる。91歳の山下通夫(守口市、副圏長)。「大阪事件」当時、大阪高等裁判所内の郵便局に勤めていた。大阪地裁と同じ建物であり、大阪拘置所とも通路でつながっている。

「暑い日が続きました。同志は祈るような思いで拘置所の厚い高塀に向かい、池田先生が元気であってほしいと願っていました」


 山下は中学を卒業し、大阪中央郵便局に就職した。夜は大阪外国語学校で中国語を学んだ。中国の古い陶器に惹かれたのだ。

 太平洋戦争では5年間、南京と重慶を結ぶ郵便配達夫として働いた。『三国志』も原典で読破した。史跡巡りが好きで、後年、大阪府の文化財愛護推進委員なども努めている。


 信心を始めるきっかけは、妻の登代子の病だった。神経痛、胸膜炎などを患い、結核性の腰椎カリウスで入院した。退院後もギブスをはめて動けない。給料の半分が治療費に消えた。登代子の身の回りの世話をしながら、好きなタバコもやめて黙々と働き続けた。