EIKOの気まぐれ闘病日記 -108ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  「0・1パーセント」の道 ②


 実は前日の夜、事件の中心者だったNが関西本部を訪れ、自分がでっち上げの調書に協力したこと、それが原因で池田が逮捕されてしまったことを、関西の幹部に伝えたのである。逮捕そのものが不当だったことを知った弁護士が激怒したのは、無理もなかった。

 検察が捏造した「点」と「線」の全貌が、見えかけたのである。

 12日の夕方、池田は検事に、もう一度弁護士と面会したいと頼んだ。その時、検事は池田に「弁護士は飛行機に乗って逃げていった」(第70回公判調書)から会えない、と言った。しかし弁護士は飛行機に乗っておらず、大阪にいた。検事は池田を騙したのだ。「でっち上げの逮捕」が、肝心の調書をとる前にはばれてしまうことを恐れたからだ。


 さらに検事は「何でもいいから云う通りに認めればいいんじゃないか」(同)と迫り、「(学会本部や戸田のつくった大蔵商事の)手入れや(戸田)逮捕は直ちに実行する」(第77回公判で提出した意見書)と脅した。


 卑劣という言葉にふさわしい検察の対応だった。結局、12日から出獄までの間、池田は弁護士と一度も会うことはなかった。この時の葛藤を、池田は次のように語っている。

 「拘置所内では、牧口先生、戸田先生の暗黒の時代とは違っているし、このくらいのことで愚痴をこぼしては情けないと思っていた。

 わずか14日間。決して楽しくはないけれど、たいしたことではなかった。

 ただ精神的に苦痛であったのは、戸田先生を捕まえようとしていたり、学会本部手入れしようとしていることを聞いた時です。

 戸田先生が年配で体力的に厳しいことは、だれよりも私が、よくわかっていた。もし、牢に入れられるようなことがあれば、先生の命にかかわったでしょう。

 戸田先生に手を出させては絶対にならないし、広宣流布の牙城に権力が土足で踏み込んでくることは食い止めたいと思っていた」(「青春対話」)


 

   「0・1パーセント」の道 ①


 お前が罪を認めなければ、お前の師匠の戸田城聖を逮捕する──この恫喝が、池田を苦しめた最大の理由だったことはすでに述べた。

 検察は弁護士にも同じことを再三伝え、池田を説得するよう求めた。7月10日、弁護士は池田に、検事の言うとおりに供述したほうがいいと説いて帰った。

 

 ところがその2日後の7月12日──「東京大会」(蔵前国技館)の日である。池田のもとに血相を変えた弁護士がやって来た。面会時間はわずか10分。興奮した弁護士は時折、故郷の山形弁になり、検察への怒りをまくし立てて帰った。


 「検事の言うとおりにしろ」から「検察と断固戦う」へ、態度が180度変わったことはわかった。しかし具体的に何が起こったのかは、わからなかった。


 原爆症を乗り越えて ④


 7月9日、横山と山田は夜行列車に乗って大阪に向かった。

 ところが大阪に着いた二人は、女子部の大会が中止になっていたことを知る。「大阪事件」の混乱の渦中、連絡が行き違いになってしまったのだ。

 がっかりする二人に先輩は尋ねた。

「今、学会は大変な時なんや。お金ないかもしれんけど、しばらく大阪にいたらどうやろ」。二人は大阪で幾つかの会合に参加した。


 「7月17日ごろに大きな大会がるという話も、そこで初めて知りました」(横山)。「延岡まで通ってくれた大阪の先輩が、いつも『池田先生というすごい人がいる』と言っていました」と振り返る山田。「信心して日も浅く、先生に会ったこともない私は、『その池田さんという人はこの先輩の恋人なのかな』と思っていたんです」と笑う。「でも、いざ大阪に来てみると、どの会合でも、誰もが池田先生の話をしていて、びっくりしました」。


 ──「これは権力の横暴や」「獄中はえらい暑いらしいで」「池田先生は、食事に手をつけてはらへんらしい」「検察はこのあいだ、手錠をかけたまま外を歩かせて、先生をさらし者にしたんや」──。


 今、何か起きているのか。この事件にはどんな意味があるのか。徐々にわかり始めた。

「自分たちには何もできない。悔しくて泣きながら、御本尊に向かいました」(山田)。


  原爆症を乗り越えて ③


 下半身の麻痺と原爆症に苦しめられた。

「身体がだるく、息もくるしいんです。血が止まらず、髪が抜け落ち、看護の略帽をかぶって隠しました」。

 2年後、突然の高熱に襲われ、全身に紫の斑点が浮んだ。銭湯に行くと他の客がそそくさとでて行く。妹から「お姉ちゃんと一緒に銭湯に行きたくない」と言われた。

 

 信心に巡りあい、折伏に歩くようになると、近所の人から「ついにあの子もおかしくなった」と囁かれた。

「でも少しも気になりませんでした。学会の先輩から『いかに生きたかで人生の価値は決まる』と教わりました。死のことばかり考えていましたが、この信心で変わって前向きに生きられるようになったのだと思います」。


 斑点はやがて消えた。少しずつ健康を回復していった。

「ある日、妹が私の背中を見て不思議そうに言ってくれました。『姉ちゃん、背中のただれ(ケロイド)が消えちょる』って」。横山がこれまでに弘教した数は150世帯を越える。


 横山は山田らとともに「山口闘争」にも参加した。

「大阪で女子部の大会があると聞いた時には、母が米一俵を売って、往復の汽車賃を工面してくれました」。

 7月9日、横山と山田は夜行列車に乗って大阪へ向かった。

 原爆症を乗り越えて ②


 戦争中、女学校を卒業した横山は看護婦を目指した。広島赤十字病院で学び始めたのは45年(同20年)4月。16歳だった。

 6月に1週間ほど帰省した。夜中、空襲警報で飛び起きた。6月29日の「延岡空襲」である。防空壕が満員で、川沿いの草むらに必死で身を隠した。

「自宅が丸焼けで制服も燃えてしまい、モンペを着て広島に戻りました」。

 8月6日の朝は広島赤十字病院にいた。二階建ての宿舎。一階の窓から真っ青な空を見上げていた。午前8時15分、目がつぶれるような閃光に包まれた。ほぼ同時に爆風で吹き飛ばされ、気づいた時には崩れた宿舎の下敷きになっていた。どこからか、女性の声で従軍看護婦の歌が聞こえ、不意に途切れた。歌いながら息絶えたようだった。


 アメリカ軍が広島に投下した原子爆弾は、広島市内を焼き尽くした。年末までに約14万人が亡くなったといわれている。長年にわたって放射能に苦しめられた人は数知れない。横山がいた広島赤十字病院から爆心地までの距離は、わずか1500メートルだった。

 今もまぶたを閉じれば、そこで目に飛び込んできた阿鼻叫喚の光景が、浮んでくるという。

「熱線で黒く焼けただれた人。うずくまってうごめいている人。3歳くらいの裸の女の子・・・・・あの子は『お母ちゃん』と泣き叫んでいました」。医薬品はすぐ底をついた。病院の庭には死体が山のように積まれた。

「3週間ほど経って、杖で歩けるようになり、延岡の母の実家に戻りました」。