ぺタ、コメントくださる皆さん、連載を読
んでくださる皆さん、いつもありがとうご
ざいます<m(__)m>
今日で、民衆こそ王者ー池田大作とそ
の時代青年の譜(8) 「大阪事件(2)の
連載が終了しました。次回からは、民衆
こそ王者ー池田大作とその時代青年の
譜(9) 「大阪事件」(3)を連載しますの
でどうぞよろしくお願いします <m(__)m>
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義経の”声”に託して ③
神戸市外国語大学名誉教授の家正治は語る。
「三代会長の闘争は、創価学会の歴史にとって節目となるのは当然のこと、日本の人権闘争の事跡においても、燦然と輝くものでしょう。特に、昭和32年7月に起こった大阪事件を、(池田)名誉会長は関西の会員と共に勝ち越えられました。これは、創価学会自体を新たな次元に高め、さらに高いレベルでの民衆運動を展開するエポック(新しい段階)となったのではないでしょうか。
その後の名誉会長の全世界的な平和のための数々の闘争の原点には、大阪での体験があったのだと思います」(2012年7月20日付「聖教新聞」)
出獄した池田は、来阪する戸田を迎えるため、伊丹空港に向かった。関西のみにとどまらず、世界各地のSGI(創価学会インターナショナル)メンバーに今も語り継がれる「大阪大会」の開催時刻が迫っていた。
池田とともに法廷闘争に臨むことになった山田徹一は、この7月17日、捏造を重ねる検察への不満を池田に訴えている。
池田は微笑んでこう応じた。
「いいんだよ。戦いは、これからなんだよ」
義経の”声”に託して ②
詩の大意は次のとおりである。
──吹雪は、笠のひさしを押しつぶさんばかりに降っている。風は、着物の袂を容赦なく巻き上げる。
「平治の乱」で敗れた父、源義朝のことも知らず、母の懐の中で乳を求める、哀れな牛若の泣き声よ。
しかし、この声こそ、のちに「一ノ谷の合戦」で源氏軍を率いて叱咤し、険しい崖を駆け下り、平家軍を一気に攻め破ったあの若武者、義経の声にほかならない──。
吹雪の中で泣き叫ぶ牛若に、池田は自らの境遇を重ね、必ず勝つ、という思いを託したのかもしれない。
「若き諸君のために語っておきたい」──池田はこう述べている。
「そのころ、世間は創価学会を『貧乏人と病人の集まり』とバカにしていた。それが昭和31年の参議院選挙で、いきなり3人の国会議員を出した。それで驚き、権力者が学会を脅威に感じたのでしょう」「(立正安国論に基づく)信念から立ち上がった政界浄化の行動に対して、国家権力が学会の政治進出を抑えようとしたのが大阪事件だったと言って間違いない」(「青春対話」)
義経の”声”に託して ①
7月17日。正午過ぎに大阪拘置所から出獄した池田は、その瞬間から再び何千、何万という「民衆の海」へ飛び込んでいくことになる。それは29年の人生で体験したことのない、誰にもわからない、重い荷物を背負っての出発でもあった。
その心境を、わずかにうかがい知ることのできる、一篇の詩がある。
──大阪府警に出頭する7月3日、羽田空港で池田は戸田から、完成したばかりの戸田の小説『人間革命』を手渡された。
後年、池田はその『人間革命』の見返しに、「七月十七日(出獄の日)」「八月二十四日(池田の入信記念日)」の日付とともに、ある詩を書き写した。
同じ内容の詩が、出獄から2ヶ月半後の池田の日記にも記されている(1957年9月30日)。
雪ハ笠檐(りゅうえん)二灑(そそ)ギ 風ハ袂ヲ捲(ま)く
呱々(ここ) 乳ヲ索(もと)ムルハ 若為(いか)ナル情ゾ
他年鉄拐(てっかい)峯頭(ほうとう)ノ嶮(けん)
三軍ヲ叱咤スルハ 是レ此ノ声
日記は「好きな人物──源 義経──を詠じた詩。戦記物を、読むこと、しばしば」と続く。
これは梁川星巌(せいがん)(江戸時代後期の文人)の詩で、「常盤雪行」と呼ばれる。「常盤」は源義経(=牛若)の母、常盤御前のことである。
ある時、尾道を旅した星巌は、幼い牛若を抱いた常盤御前が、雪の中を急ぐ一枚の絵を目にした。この絵に星巌は心を動かされ、詩を書いたという。
日本では、検察に起訴されると「有罪率は99,9パーセント」と言われる。きわめて高い有罪率であり、他国に例を見ない。不当な基礎を防ぐために、あらかじめ吟味を重ねて起訴するからだ、ともいわれる。
いったん起訴されてしまえば、無罪を勝ち取るのは奇跡に近い。どれほど理不尽な取り調べでつくられた調書であろうと、裁判での逆転は、ほぼ不可能なのである。
しかし池田にとって、体力の衰弱が進んでいた戸田城聖の投獄を防ぎ、創価学会を死守する道は、その「0,1パーセント」の可能性──裁判しか残されていなかった。
池田は7月13日から、孤独と闘いながら供述調書づくりに協力し始めた。多くの「点」が集められ、ありもしない「線」が次々に引かれ、大規模な組織的犯行という「面」が仕立て上げられた。
「正義」の名の下に進められた取り調べは、もはや底なしの詭弁に陥っていた。7月14日、検察はさらに「裁判の時にはすぐにひっくり返ってしまうから、もっと完成した調書を作りたいからいろいろと話して貰いたい」(第70回公判調書)と池田に迫った。池田の「自白」は、4通の供述調書にまとめられた。
また検察は、関西総支部幹事の鳥養国夫、岡山支部長山田徹一の二人にも無理強いし、池田の指示を受けて戸別訪問した、という「虚偽の調書」をでっち上げた。
のちに大阪地方裁判所は、これらの調書について「強要による自白」「任意になされたものでない」と判断し、すべて却下することになる。