EIKOの気まぐれ闘病日記 -106ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 「魔競(きそ)はずは正法と知るべからす」 ①


 「先生が囚われたあの15日間は、ほんま苦衷(くちゅう)の毎日でした。釈放が決まる直前まで『もしも先生が釈放されなかったら、俺たちの手で取り返すんや』と皆、本気で思っていましたよ」。1993年(大正12年)生まれの青木吉市郎(大阪市旭区、総区主事)。大阪大会の前夜、必死になって連絡に走った一人である。

「電話のある家なんか少なかったからね、皆、飛ぶように歩いて回りました」。

 

 太平洋戦争では海軍の船員だった。敗戦後、27歳で神経痛とリウマチなどで苦しみ、寝たきりになった。

「狭い三畳一間でした。妻はキャラメルのおまけのおもちゃを箱に詰める内職をしてくれました。そんな時、白藤さんというおばあちゃんに折伏されたんです。昭和28年の暮れでした」。


 宗教といえば念仏、と思っていた青木は「座談会の明るい雰囲気、元気のよさにびっくりした」と振り返る。信心を始めたが、外に出られない。白藤の夫が会合のたびに「今日はな、こういう話があったで」と伝えに来てくれた。


 やがて身体も回復し、1956年(昭和31年)の「大阪の戦い」は最前線で活躍した。

「偏見をもった新聞が、一斉に『暴力宗教』やと騒いだでしょう。池田先生はあの時『(難が起こって)うれしいな』と言われたんです。『魔競はずは正法と知るべからず』(=日蓮が説いた一節)の勢いを全身にみなぎらせておられた。あの一言は忘れられません」

「信心のおかげで蘇生しました。もうすぐ90歳になりますが、まだまだ元気で、人のために動かせてもろうてます」と力強く笑った。

 いつもありがとうございます。m(__)m


 このところブログの更新や、ペタのお返しができなくて


すみません。実は、私にとって一番大切な薬を切らして


しまい、身体がだるくて、重くて仕方なかったのに、どう


しても用事で外出しなければならないことが続いてしま


い、思うようにブログができませんでした。


 今日は精神科の診察日でした。


医師に症状を話すと、やはり薬が切れている症状だと


いうことでした。即効性のない薬なのですが、1週間も


すればだるさも取れると思います。この薬はやはり私


に合った薬のようです。体調に合わせてブログを更新


していきますので、よろしくお願いします。

  「ほのぼのと ええで」 ②


 抗議集会の行われる大阪市中央公会堂は、ふだんから戸田城聖の講義などで使われ、慣れ親しんだ建物であり、中之島のみならず大阪を代表する名建築である。あの威容に負けないものを、公会堂の正面に掲げねばならない。

 7月16日の夜、秦は慎重に、太めの書体で「創」の一事を書き始めた。家族も手伝った。従業員だった馬場始(東淀川区、副本部長)。

「一字だけで六畳の部屋がいっぱいでした。場内の垂れ幕や式次第も含め、夜通しで仕上げました」。


 秦が出来栄えに納得し、筆を置いた時には、7月17日の太陽が大阪の町並みを照らし始めていた。幅2メートル弱、長さ10数メートルの布に「創價学会 大阪大会」の8文字が踊っている。


 書き終えたばかりの布地を抱え、9時前に中之島に向かった。北を流れる堂島川も南の土佐堀川も、川面が太陽に照らされて眩しい。土佐堀川の向こうには市電が走っている。すでに「数えきれないほど多くの人」(妻の手記)が集まっていた。

 長い一日が始まった。

  「ほのぼのと ええで」 ①


 秦は6人きょうだいの末っ子だった。高等小学校を卒業後、親戚の旗屋に奉公に出た。軍に徴兵された時は、自分で「祝出征 秦善一君」という旗をつくり、戦地に向かった。太平洋戦争の敗戦から2年後、大阪に戻った。実家は戦災で跡形もなくなっていた。呉服店を回って生地を買い、「ハタ旗店」を立ち上げた。


 少年時代からひどい吃音に悩まされた。一度でいいからスラスラ話してみたい。そう願っていた。1954年(昭和29年)、近所の人から学会の信心を勧められた。

 何より苦手な「人と話す」ということに挑戦した。かろうじて、次の一言が口をついて出た。

 「この信心したら、なんか知らんけど、ほのぼのとええで」

 題目を唱え、座談会に参加するようになってからの素朴な実感だった。「あの秦がしゃべった」。それだけで驚き、信心を始めた親戚もいた。2ヶ月が過ぎて、座談会で体験を話した。「話せる」こと自体が喜びだった。

「わしはこの信心でしゃべれるようになったんや」。秦はこれ1本で関西中を弘教に歩いた。

「池田先生が拠点であった我が家にお見えになったこともありました。先生が話して、20人の新来者がいっぺんに入信した時はびっくりしましたで」(1992年7月17日付「聖教新聞」)。


「天の一角が敗れた」ような豪雨と雷鳴が


大阪市中之島の中央公会堂を襲った──。


1957年(昭和32年)7月17日、


池田の不当逮捕・拘留に抗議する


2万人が集った「創価学会大阪大会」。


「最後は信心しきった者が必ず勝つ!」


場外でも、人々は荒天をものともせず、


池田の確信あふれる獅子吼に耳を傾けた。


庶民の怒りが天を衝いた不滅の一日を追う。


 秦善一は旗づくりの職人だった。大阪の都島に住んでいた。不当逮捕されていた池田大作が大阪拘置所から釈放される前日(1957年7月16日)の夜、秦は一睡もしなかった。大きな白布に向かって、一心不乱に筆をふるい続けた。

「昔は、何でもできんと一人前の職人と違いましてん。半人前になるのに10年かかる商売だす」と秦は語り残している。店の暖簾(のれん)、幕、宣伝旗、海水浴場の幟(のぼり)、何でもつくった。

 この日、これまでにない注文が飛び込んできた。──明日、検察に抗議する集会を行うから、立派な看板をつくってほしい。いよいよ池田先生が釈放されるかもしれない──。二つ返事で引き受けた。徹夜で間に合わせるしかない。秦善一もまた、大阪拘置所の塀の前に立ち尽くし、池田の身を案じ続けた一人だった。