翌日、昭和55年5月3日の大阪は快晴だった。5月3日は、戸田城聖が第二代会長に就任し、また池田が第三代会長に就いた記念日であり、”創価学会のお正月”ともいわれる。またこの日から5日間、前月末に落成したばかりの関西文化会館で、数々の会合が予定されていた。長崎、福岡での様子を聞いたのか、大阪では、さらに多くの人が関西文化会館に押し寄せた。
「国鉄の鶴橋駅から会館まで、朝から晩まで人の流れが途切れることがありませんでした」(峰山益子)
10時42分、池田は関西文化会館に到着。14時10分までの3時間以上、礼服に着替えた以外、休憩の記録がない。昼食をとったかどうかは不明。残っているのは”予想外の記念撮影”の膨大な記録である。
数人と肩をくんでいる写真もあれば、数十人の写真もある。
撮り終わったら、直ちに役員が即席の写真カードを配る。後で写真を全員に贈るためだ。そのカードを配るのが追いつかないほどのスピードで、池田は働き続けた。関西滞在中、こうした記念撮影だけで「120回」近い。その前後に直接語り合った人数は数え切れない。
この5月3日、西紋康樹は、関西文化会館で創価班として着任していた。本会場の関西文化会館と同じ敷地に立つ「別館」の門扉の担当だった。13時からの記念勤行会が、もう始まっている。「そろそろ、池田先生も本会場に入られる頃だな、と思っていた時でした」
「先生が来られる!」と耳にするが早いか、池田が足早に近づいてきた。門扉の外に目をやる。入りきれなかった学会員があふれかえっているのが見えた。
池田は西紋に「門扉を開けてあげなさい」と言った。仰天した。もう入る場所がない。
「いいんだ。この広場で、写真の準備を」と周りに伝えながら池田は再度”開けて!”と両手で大きなジェスチャーを。
西紋は門扉を思い切り開けた。大喜びで数十人が会館の敷地内へ。「何の人だかりやろ」と覗いていた、通りすがりの婦人まで一緒に入ってきた。池田は構わず握手し、全員とカメラに納まった。「視界に入った人は、すべて励まさずにおかない」勢いだった。
創価班とも記念撮影。振り向きざま、池田は「牙城会!」と叫び、手招きをした。牙城会は会館警備を担当する男子部のグループである。別館の警備室にいた山本英敬。「慌ててしまって、他人の靴を履いて飛び出した」と笑う。フィルムには、勇んで集まった数人が、池田の隣で緊張している様子が写っている。
いよいよ本会場の関西文化会館に向かうと思いきや、池田は「別館の中に入ろう」と言った。別館は、音声中継の第二会場となっていた。まったく予定外の行動である。慌てた周囲から「別館には入れません」と報告が入った。「なぜだ」
入場整理券がないまま押し寄せた人々を別館に誘導したため、すべての部屋が人であふれかえっているという。
池田は「だから行くんだよ。非常階段があるだろう」建物に外付けされている非常階段に向かった。そのまま、カッ、カッと階段を上る池田、妻の香峰子が続く。
誰かが気づいた。「あ!鍵が開いてへん!」非常階段の鍵は内側からしか開かない。とにかく、中から開けるしかないーその場に居合わせた運営役員の高田誠治たち数人が、一目散に別館に走り込んだ。
別館の中は人の波、波、波。どうやって参加者をかき分けて前に進んだのか覚えていない。非常階段は、3階の常勝会館につながっている。もみくちゃになりながら、高田たちは常勝会館の入り口にたどりついた。かろうじて須弥壇の前が通れる。下手から上手へ、猛ダッシュで横切った。
「何事か」と首を伸ばす場内の人々。数秒後、非常口の鍵が開いた。