昭和37年7月の参議院選挙で「公明政治連盟」は、412万票を獲得し、9名が当選し、民社党を押しのけて「第三勢力」に踊り出ました。
戸田会長は「将来国会で会派を作るときは「公明会」でいこう」と言われていました。
公明とは「私心がなく、隠し立てしないこと、よこしまのないこと」の意味があります。
創立者の池田会長(当時)は「公政連」に対し、3点にわたって釘を刺しました。
①派閥や反目が毛筋程でもあれば、公政連は解散してもらいたい。
②大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に入りきって、大衆の中に死んでいく政治家たれ
③勉強しない政治家に、青年はついていかない。
権力は魔性である。政治は魔物である。ゆえに議員には徹底して厳しく。
昭和38年10月、池田勇人首相は衆議院を解散しました。
創立者は、衆議院進出は考えていませんでした。
そこで各党派は、創価学会の5百万票を、与党も野党も目をつけました。
左派にも右派にも投票したくない人々から、「公政連」の衆議院進出を切望する声が高まっていきました。
そして、昭和39年5月3日に「公明党」結成構想が発表され、「創価学会政治部」は、発展的解消され、同年11月17日創価学会から離れ政党「公明党」が結成されました。
「公明党」結成と衆議院進出について、当時の毎日新聞論説顧問・新井達夫氏は「今の政党や議員族は、温床の上にアグラをかいている。その意味で、公政連が衆議院に進出することは反対ではない」
「大衆文化の時代にあって、大衆に根を下ろした組織としての公政連が、衆議院に進出することは当然」(元衆議院議員 中曽根康弘氏)
「公明党」は昭和42年1月29日、衆議院選挙に初挑戦し、25名の代議士を誕生させました。
昭和45年5月3日宗教団体「創価学会」と政党「公明党」の組織の分離が発表されました。
①創価学会と公明党との関係は、あくまで制度の上で明確に分離する。
②議員で学会の役職を兼任している場合、党の仕事に専念するように、学会の役職は外す。
③創価学会は「公明党」の支持団体としていく。学会員の政党支持は自由である。
④選挙に際しても、学会は支持団体として、当然応援はするが党組織を確立し、あくまで党組織の活動として行うようにして欲しい。
⑤党員についても、学会の内外を問わず、幅広く募って確固たる基礎を作って欲しい。
こうして、政治団体公明政治連盟から、政党「公明党」に発展していきました。
「核兵器反対」「民衆的平和憲法の擁護」「公明選挙、政界の浄化」を掲げ、「公明党」は野党時代から、地方議員とのネットワークを生かし、数々の政策を実現していきました。