文永十一年二月、日蓮大聖人は赦免され、三月十三日に佐渡を発って鎌倉へ帰られました。
四月に平左衛門尉と対面した大聖人は、蒙古調伏の祈祷を邪法によって行わないようにと、幕府を強く諌めるとともに、平左衛門尉の質問に答えて、年内に必ず蒙古が襲来すると予言されました。
その予言通り、同年十月に蒙古の大軍が九州を襲いました。(文永の役(えき))
これで大聖人の「自界叛逆(じかいほんぎゃく)難」「他国侵逼(たこくしんぴつ)難」の二難の予言が的中しました。
大聖人は①「立正安国論」提出による諌暁(かんぎょう)と予言 ②平左衛門尉が捕らえにきた際の諌暁と予言 ③佐渡流罪赦免後の幕府に対する諌暁と予言の三つを「三度の高名」といいます。
佐渡赦免後の諌暁も用いられなかったため、日蓮大聖人は「三度国を諌めても、用いなければ山林に交わる」という故事にならい、文永十一年五月十七日、甲斐の国波木井郷の地頭・波木井六郎実長の館に到着されました。
大聖人は身延において、令法久住(りょうぼうくじゅう)のため、「選時抄」「報恩抄」などの数多くの御書を執筆し、大聖人の仏法の人類史的な意義を説き示されただけでなく、法華経の講義などを通じて、未来の交布を担う人材の育成に、全力を注ぎました。「令法久住」とは「法をして久しく住せしめん」と読み、三大秘法の仏法を末法万年までも弘めるという事です。
大聖人は身延の地で多くの御消息を書き、在家信徒一人ひとりを信心を激励し、各人が人生の勝利を得られるよう指導を続けられました。
さらに、日蓮大聖人の仏法の奥義が日興上人等に口伝(くちで伝える事)されました。それらは「御義口伝」「百六箇抄」「本因妙抄」等の相伝書としてまとめられ、残されています。