荻生徂徠「弁名」上・読解15~謙・譲・遜・不伐、勇・武・剛・強・毅、清・廉・不欲 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

○謙・譲・遜・不伐:1則

 

(1)

・謙与恭相似。但恭不敢高也。有卑意。謙不敢当也。有退意。如陳子禽曰、子為恭也、則謙也。譲争之反、推以与人也。辞譲相似。辞者不受耳。遜不争也。有柔順意。多以出言言之。其言柔順、不与物忤也。如遜位揖遜則譲也。不伐者、有功而不伐其功也。皆盛徳之事也。君子学礼楽以成其徳、則和順積乎中而其英華発乎外者如此。夫不伐者、禹之徳也。譲者、堯舜泰伯之徳也。禹之功頼万世而不伐、大矣哉。堯譲舜、舜譲禹、正徳之道於是乎成。而万古帝王之道立焉。大矣哉。泰伯譲而文武之沢被一代。亦大矣哉。是皆非以一己之節也。非聖人其孰能之乎。自孟子好弁、帰重於舜禹之受、而堯舜之譲不明矣。非哉。

 

[謙は恭と相似たり。但(ただ)恭は敢(あ)えて高しとせざるなり。卑の意あり。謙は敢えて当(あた)らざるなり。退の意あり。陳子禽(ちんしきん)の「子(し)は恭を為(な)すなり」と曰(い)うがごときは、すなわち謙なり。譲は争の反にして、推して、もって人に与うるなり。辞・譲は相似たり。辞なる者は受けざるのみ。遜(そん)は争わざるなり。柔順の意あり。多くは言を出(い)だすをもって、これをいう。その言、柔順にして、物と忤(さから)わざるなり。遜位・揖遜(ゆうそん)のごときは、すなわち譲なり。不伐なる者は、功あれども、その功に伐(ほこ)らざるなり。皆、盛徳の事なり。君子、礼楽を学びて、もってその徳を成せば、すなわち和順、中(うち)に積(つも)りて、その英華、外(そと)に発する者、かくのごとし。夫(そ)れ不伐なる者は、禹(う)の徳なり。譲なる者は、堯(ぎょう)・舜(しゅん)・泰伯(たいはく)の徳なり。禹の功は万世に頼(さいわい)すれども伐らず、大なるかな。堯は舜に譲り、舜は禹に譲り、徳を正すの道、ここにおいてか成る。しこうして万古帝王の道、立つ。大なるかな。泰伯、譲りて、文・武の沢(めぐみ)一代に被(こうむ)らす。また大なるかな。これ皆、一己(いっこ)の節をもってするにあらざるなり。聖人にあらずんば、それ孰(たれ)かこれをよくせんや。孟子、弁を好み、重きを舜・禹の受に帰してよりして、堯・舜の譲は明らかならず。悲しいかな。]

 

《謙は、恭と互いに似ている。ただ恭は、あえて高くしないのだ。卑下の意味がある。謙は、あえて当たらないのだ。辞退の意味がある。陳子禽(孔子の弟子の子貢/しこうの弟子か)の「(子貢)先生は、恭をしているのです」(『論語』19-496)というようなものは、つまり謙なのだ。譲は、争の反対で、推挙して、それで人に与えるのだ。辞・譲は、互いに似ている。辞なるものは、受けないことなのだ。遜は、争わないのだ。従順の意味がある。多くは、言葉を出すことによって、これ(遜)をいう。その(遜の)言葉は、従順で、物と逆らわないのだ。遜位(譲位)・揖遜(禅譲)のようなものは、つまり譲なのだ。不伐なるものは、功績があっても、その(自分の)功績に誇らないのだ。すべて、盛大な徳の事なのだ。君子(立派な人)は、礼楽を学んで、それでその(盛大な)徳をなせば、つまり調和・順応が、内側に集積して、その英知・栄華が、外側に発動するものは、このようである。そもそも不伐なるものは、禹(夏王朝の創始者)の徳なのだ。譲なるものは、堯・舜(古代中国の伝説上の帝王)・泰伯(周王朝の祖先)の徳なのだ。禹の功績は、全時代によいが、不伐で、偉大だな。堯は、舜に禅譲し、舜は、禹に禅譲し、徳を正す道は、こういうわけで成立した。そうして、大昔の帝王の道は、確立した。偉大だな。泰伯が譲って、文王・武王(周王朝の創始者)父子の恩沢(恩恵)は、1王朝(周)に受け取った。また、偉大だな。これは、すべて、自分だけの節目によってするのではないのだ。聖人でなければ、それで誰がこれ(道)を充分にするのか。孟子は、弁別を好み、重視を舜・禹が(天から)受けたことに帰着して、堯・舜が譲ったことは、明らかにしていない。悲しいな。》

 

 

○勇・武・剛・強・毅:5則

 

(1)

・勇、亦聖人之大徳也。謂於天下之事無所懼也。蓋聖人之徳、挙其大者、仁智尽之矣。而又挙勇以参之者、以君子不可無武備也。故於経在商書、賛湯之徳。始有勇智之称。可以見已。周官有大司馬、六卿有事而出、皆為将軍。蔵兵於農、文射礼楽、男子生懸弧、三代君子皆帯剣。詩曰、文武吉甫。孔子曰、有文事者必有武備。伝曰、国之大事、在祀与戎。豈不然乎。然君子者為将者也。其勇豈武夫兵卒之比哉。是其所以養勇成其徳者、必於仁、必於礼義。故孔子曰、仁者必有勇。子路問上勇則答以上義。又曰、勇而無礼則乱。晋選将、郤縠以敦詩書見選。伝曰、勇敢強有力者、天下無事、則用之於礼義、天下有事、則用之於戦勝。用之於戦勝則無敵、用之於礼義則順治。外無敵、内順治、此之謂盛徳。古之道為爾。

 

[勇もまた聖人の大徳なり。天下の事において懼(おそ)るる所なきをいうなり。けだし聖人の徳は、その大なる者を挙ぐれば、仁・智これを尽くせり。しかるに、また勇を挙げて、もってこれを参にする者は、君子は武備なかるべからざるをもってなり。ゆえに経においては商書に在(あ)りて、湯(とう)の徳を賛するに、始めて勇智(ゆうち)の称あり。もって見るべきのみ。周官に大司馬(しば)あり、六卿(きょう)、事ありて出(い)ずれば皆、将軍と為(な)る。兵を農に蔵し、射を礼楽に文(かざ)り、男子、生(うま)るれば弧を懸け、三代の君子は皆、剣を帯(お)ぶ。詩にいわく、「文・武なる吉甫(きっぽ)」と。孔子いわく、「文事ある者は、必ず武備あり」と。伝にいわく、「国の大事は、祀(し)と戎(じゅう)とに在り」と。あに、しからざらんや。しかれば君子なる者は将となる者なり。その勇は、あに武夫・兵卒の比(たぐい)ならんや。これその勇を養い、その徳を成す所以(ゆえん)の者は、必ず仁においてし、必ず礼・義においてす。ゆえに孔子いわく、「仁者は必ず勇あり」と。子路(しろ)、勇を上(たっと)ぶを問えば、すなわち答うるに義を上ぶをもってし、またいわく、「勇にして礼なければ、すなわち乱(みだ)す」と。晋(しん)、将を選ぶに、郤縠(げきこく)は詩・書に敦(あつ)きをもって選ばる。伝にいわく、「勇敢にして強く力ある者は、天下に事なければ、すなわち、これを礼・義に用い、天下に事あれば、すなわち、これを戦勝に用う。これを戦勝に用うれば、すなわち敵なく、これを礼義に用うれば、すなわち順治す。外に敵なく、内に順治する、これをこれ盛徳という」と。古(いにしえ)の道、しかりと為す。]

 

《勇も、また、聖人の偉大な徳なのだ。天下の事において、恐れることがないことをいうのだ。思うに、聖人の徳は、その偉大なものを取り上げれば、仁・智がこれ(偉大な徳)を尽くす。それなのに、また、勇を取り上げて、それでこれ(偉大な徳)を3つにするものは、君子(立派な人)が軍備なしでいるべきでないことによってなのだ。よって、経書においては、(『書経』の)商(殷)書にあって、湯王(殷王朝の創始者)の徳を称賛するのに、はじめて勇智の名称がある。それで見ることができるのだ。『周礼(しゅらい)』の夏官篇に、大司馬(行政担当)があり、6卿(周王朝の6官の長官)は、事があって出動すれば、皆が将軍になる。兵士を農民に内蔵させ、射を礼楽に文飾し、男子が生まれれば、桑弓を懸け(懸弧/けんこ)、3代(夏王朝・殷王朝・周王朝)の君子は、皆が帯剣した。『詩経』によると、「文・武のある尹(いん)吉甫(周王朝11代・宣王の臣下)だ」。孔子がいう、「文芸・学問がある者は、必ず軍備がある」(『史記』)と。伝によると、「国の大事は、祭祀と軍備にある」(『春秋左氏伝』)。どうして、そうならないのか(いや、そうなる)。そうであれば、君子なるものは、将校となるものなのだ。その(将校の)勇は、どうして武人と兵士の比較になるのか(いや、ならない)。これは、その(君子の)勇を養い、その(君子の)徳をなす理由が、必ず仁においてし、必ず礼・義においてするからだ。よって、孔子がいう、「仁なるものは、必ず勇がある」(『論語』14-337)と。子路(孔子の弟子)が勇を尊ぶことを問えば、つまり答えるのに、義を尊ぶことによってし、また、いう、「勇で、礼がなければ、つまり乱れる」(『論語』8-186)と。晋が将校を選出するのに、郤克(げきこく、晋の将軍)は、詩・書を尊重することによって選出する。伝によると、「勇敢で強く、力があるものは、天下が無事ならば、つまり、これ(力)を礼・義に用い、天下が有事であれば、つまり、これ(力)を勝ち戦(いくさ)に用いる。これ(力)を勝ち戦に用いれば、つまり無敵で、これ(力)を礼・義に用いれば、つまり順応・統治する。外側に無敵で、内側に順応・統治する、これをこの(君子の)盛大な徳という」(『礼記(らいき)』)。昔の道は、そのようだとする。》

 

・及於子思作中庸、以知仁勇為三達徳、専用之於学問之道。是或一道也。戦国而後文武殊其術、秦漢而後文武殊其官、唐宋而後又殊其政。故今学者習以為常、謂武非逢掖之事、而古意隠矣。遂執子思之言、而謂儒者之勇専用之於学問者、是執一而廃百者也。学者察諸。

 

[子思(しし)、中庸を作るに及んで、知・仁・勇をもって、三達徳と為(な)し、専(もっぱ)らこれを学問の道に用う。これ或いは一道なり。戦国よりして後、文・武その術を殊(こと)にし、秦・漢よりして後、文・武その官を殊にし、唐・宋よりして後、またその政を殊にす。ゆえに今の学者は習いてい、もって常と為し、武は逢掖(ほうえき)の事にあらずといいて、古意、隠れたり。遂に子思の言を執りて、儒者の勇は専らこれを学問に用うという者は、これ一を執りて百を廃する者なり。学者これを察せよ。]

 

《子思(孔子の孫)は、『中庸』を作るに及んで、知・仁・勇を、3つの一般的に到達すべき徳とし、ひたすら、これ(3つの徳)を学問の道に用いた。これ(3つの徳)は、1つの道だったりするのだ。戦国時代以後に、文・武は、その術が異なり、秦・漢以後に、文・武は、その官僚体制が異なり、唐・宋以後に、また、政治体制が異なった。よって、今の学者は、習って、それで常識とし、武は、儒学者の事でないといって、昔の意味(文武未分化)が隠れた。結局、子思の言葉を取り上げて、儒学者の勇が、これを学問専用にするというものは、これが1を取り上げて、100を廃棄するものなのだ。学者は、これを推察せよ。》

 

 

(2)

・武以戡乱言之。戡乱不常有。故多言勇而不言武。

 

[武は乱に戡(か)つをもって、これをいう。乱に戡つは常にはあらず。ゆえに多くは勇をいいて、武をいわず。]

 

《武は、争乱に勝つこと(戡乱/かんらん)によって、これをいう。争乱に勝つことは、いつもではない。よって、多くは、勇をいって、武をいわない。》

 

 

(3)

・強勇相似。強弱之反、勇怯之反。強弱意広、而勇怯義窄。故子路問強者、勇也。大象曰、君子以自強不息。強者勉強也。上声為是。陸氏以為平声者、蓋古来以乾為聖人之徳、而其意謂聖人無所勉強故也。嗚呼、聖人亦人耳。豈無所勉強哉。亦不知聖人已。且自強平声、不成言也。

 

[強・勇は相似たり。強は弱の反にして、勇は怯(きょう)の反なり。強・弱は意、広くして、勇・怯は義、窄(せま)し。ゆえに子路(しろ)の、強を問う者は、勇なり。大象(たいしょう)にいわく、「君子、もって自強して息(や)まず」と。強なる者は、勉強なり。上声(じょうしょう)を是(ぜ)と為(な)す。陸氏、もって平声(ひょうしょう)と為す者は、けだし古来、乾(けん)をもって聖人の徳と為し、しこうして、その意に聖人は勉強する所なしと謂(おも)いしがゆえなり。ああ、聖人もまた人のみ。あに勉強する所なからんや。また聖人を知らざるのみ。かつ自強、平声ならば、言を成さざるなり。]

 

《強・勇は、互いに似ている。強は、弱の反対で、勇は、怯(おびえる)の反対なのだ。強・弱は、広義で、勇・怯は、狭義だ。よって、子路(孔子の弟子)が、強を問うものは、勇なのだ。(『易経』の)大象伝によると、「君子(立派な人)は、それで自分で努力して、やまない」。強なるものは、努力なのだ。上声(尻上がりに高くなる発音、「しいる」)を、是(正しい)とする。陸徳明(唐の儒学者)が、それで平声(低く平らな発音、「つよい」)するものは、思うに、古来には、乾(天)を聖人の徳とし、そうして、その(乾の)意味に、聖人は、努力することがないと思っていたからなのだ。ああ、聖人も、また、人なのだ。どうして努力することがないのか(いや、ある)。また、聖人を知らないのだ。そのうえ、自分での努力が、平声ならば、言葉を成立させないのだ。》

 

 

(4)

・剛柔之反、与強勇殊義。辟如木与金。木柔而金剛。至於水則至柔而物莫能与之争。是強也。非剛也。剛強之分、可以見已。朱子曰、勇者剛之発、剛者勇之体。孔子既以剛勇為六言之二、其為二徳者審矣。可謂妄已。蓋其為人果敢烈烈、不可干之、是剛也。如子房之勇、豈然乎。是可以知剛勇之弁也。如易剛柔以語卦爻之徳。而易之道尚玩其象。玩象以求之、所包甚広。故其所謂剛柔、不与它書同。宋儒混而一之。故有是失已。学者察諸。

 

[剛は柔の反にして、強・勇と義を殊(こと)にす。辟(たと)えば木と金とのごとし。木は柔にして金は剛なり。水に至りては、すなわち至柔にして、しかも物よく、これと争うなし。これ強なり。剛にあらざるなり。剛・強の分、もって見るべきのみ。朱子いわく、「勇なる者は剛の発、剛なる者は勇の体」と。孔子すでに剛・勇をもって六言の二つと為(な)せば、その二徳為(た)る者(こと)、審(つまびら)かなり。妄というべきのみ。けだし、その人となり、果敢・烈烈として、これを干(おか)すべからざる、これ剛なり。子房の勇のごときは、あに、しからんや。これをもって剛・勇の弁を知るべきなり。易の剛柔のごときは、もって卦爻(かこう)の徳を語る。しこうして易の道は、その象(しょう)を玩(もてあそ)ぶことを尚(たっと)ぶ。象を玩びて、もってこれを求むれば、包む所、甚(はなは)だ広し。ゆえにその、いわゆる剛柔は、它(た)書と同じからず。宋儒、混じて、これを一つにす。ゆえにこの失あるのみ。学者これを察せよ。]

 

《剛は、柔の反対で、強と勇は、意義が異なる。例えば、木と金のようなものだ。木は、柔で、金は、剛なのだ。水に至っては、つまり至極の柔で、しかも、物は、充分にこれ(水)と争うことがない。これ(水)は、強なのだ。剛でないのだ。剛・強が分岐は、それで見ることができるのだ。朱子がいう、「勇なるものは、剛の発動で、剛なるものは、勇の本体だ」と。孔子が、すでに剛・勇を、6つの言葉(仁・知・信・直・勇・剛)の2つとすれば、その2つが徳になることは、明白なのだ。妄想ということができるのだ。思うに、その人柄は、果敢・激しい勢いで、これ(その人)を干渉すべきでない、これが剛なのだ。張良(ちょうりょう、秦末期~前漢初期の軍略家)の勇のようなものは、どうして、そのようなのか(いや、そのようでない)。こういうわけで、剛・勇の弁別を知ることができるのだ。『易経』の剛柔のようなものは、それで64卦の組み合わせでの徳を語る。そうして、易の道は、その(剛柔の)象徴をもてあそぶことを尊重する。象徴をもてあそんで、それでこれ(徳)を探し求めれば、包み込むことが、とても広い。よって、その(『易経』の)、いわゆる剛柔は、他の書物と同じでない。宋代の儒学者は、混合して、これ(徳の剛柔)をひとつにする。よって、この過失があるのだ。学者は、これを推察せよ。》

 

 

(5)

・毅亦剛之類、以其力有所堪言之。

 

[毅(き)もまた剛の類、その力、堪(た)うる所あるをもって、これをいう。]

 

《毅も、また、剛の同類で、その(毅の)力は、耐え切ることがあるのによって、これをいう。》

 

 

○清・廉・不欲:1則

 

(1)

・清者謂不為悪所汚也。如伯夷陳文子、可以見已。不欲者寡欲也。謂不汚財利也。廉者廉隅之義、故謂取舎分弁截然也。後世遂以不汚財利為廉。後世之廉、即古之不欲也。学者察諸。

 

[清なる者は、悪の汚す所と為(な)らざるをいうなり。伯夷(はくい)・陳文子のごとき、もって見るべきのみ。不欲なる者は、寡欲(かよく)なり。財利に汚れざるをいうなり。廉なる者は、廉隅(えんぐう)の義、ゆえに取舎の分弁の截然(せつぜん)たるをいうなり。後世、遂に財利に汚れざるをもって、廉と為(な)す。後世の廉は、すなわち古(いにしえ)の不欲なり。学者これを察せよ。]

 

《清なるものは、悪が汚すこととしないことをいうのだ。伯夷(孤竹/こちく国の王子)・陳須無(ちんしゅぶ、斉の大夫)のようなものは、それで見ることができるのだ。不欲なるものは、欲が少ないのだ。財貨・利益に汚れていないことをいうのだ。廉なるものは、端正の意義で、よって、取捨の分岐・弁別が、明確なことをいうのだ。後世に、結局、財貨・利益に汚れないことを、廉とする。後世の廉は、つまり昔の不欲なのだ。学者は、これを推察せよ。》

 

 

(つづく)