岡倉天心「茶の本」英文と和訳の抜粋4 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

■自然・永遠・神聖

 

 老子の道家の本質は、無為自然ですが、ここまでは、自(作者)が「しない」と、他(読者)が「する」、無為の面を取り上げてきたので、ここからは、自然の面と関係のある、「自然」、「永遠」、「神聖」の3つを、みていくことにします。

 

 まず、自然は、人工・作為と対比した状態の、《自然な動作》(2章)・《自然な風景》(4章)・《自然な物品》(6章)以外に、「nature」の訳語として、対内的な「本性」と、対外的「自然」の、両面があります。

 「本性」は、物・事・人等の本来の性質で、《内面的本性》(3章)・《動的な本性》(4章)・《有限な本性》(5章)と使用されています。

 「自然」は、物・事・人等を取り巻く環境で、《人間が直面》(2章)・《もてあそぶ(征服せず・崇拝せず)》(2章)・《神の犠牲で荒廃》(6章)・《経済秩序を尊重》(6章)と使用されています。

 この「本性」と「自然」の両者を結び付けるのが、神で、宗教では、超越した神が、人の心に内在するとみるので、《人の心で神と自然が遭遇》(3章)と使用されています。

 

 つぎに、永遠(永劫)は、第1に、《変化》(2・6章)については、《不死不滅は永遠の変化にある》(2章)とあるので、「永遠=常時変化」といえます。

 また、《変化は、唯一の永遠だ。なぜ、死を生と同様に歓迎しないのか》や《古物の崩壊を通過して、再創造物が可能になる》(6章)とあるので、「永遠=生成→死滅(仮死→再生)の常時反復」ともいえます。

 第2に、《瞬間》(2章)・《芸術での現在》(7章)については、その前提として、次のような言及があります。

 

 

◎涅槃:小=巨大、原子=宇宙

 

・It held that in the great relation of things there was no distinction of small and great, an atom possessing equal possibilities with the universe. (3章)

《それ(禅/Zen)は、物の偉大な関係(涅槃/ねはん、悟りを得た世界)の中では、小と巨大の区別がなく、ひとつの原子が宇宙と同等の可能性を備え持つことを、把握した。》(私訳)

○小(small)/巨大(great)、原子(atom)/宇宙(universe)⇒仏教:芥子(けし)/須弥山(しゅみせん)

 

《禅の主張によれば、事物の大相対性から見れば大と小との区別はなく、一原子の中にも大宇宙と等しい可能性がある。》(岩p.49)

《この世の物事を結びつけている広大な相関関係からみれば大小の区別などはとるにたらず、一個の原子のうちには宇宙全体に等しい可能性が内包されていると説いたのである。》(角p.71)

《事物の大きな関係においては大小の区別はまったくない、一箇の原子は宇宙と同等の可能性を有すると考えた。》(講p.48)

 

 

 この空間的な大小を、時間的な長短にも適用できるとすれば、「宇宙=原子」≒「永遠=瞬間」といえ、過去→現在→未来の永続では、「永遠=現在(現今)」といえます。

 第3に、《若さ・活力》(2章)・《成長》(3章)や《桜の飛花》(6章)については、「永遠=生成→死滅の常時反復」の詳細をみれば、「永遠=…→増進期→最盛期→減退期→仮死・再生期→…の常時循環」となります。

 このうち、増進期を切り取れば、「永遠=若さ・活力、成長」、減退期を切り取れば、「永遠=桜の飛花」といえます。

 第4に、《自分自身という祭壇を永遠に保存》(6章)・《永遠の方向への大波》(7章)のように、永遠は、抽象的・比喩的にも使用されています。

 

 さらに、神聖は、《芸術での同類の精神の結合》(5章)・《傑作》(5章)・《欲望》(6章)にあるとしています。

 

 

●自然

 

 

◎茶会の目的=単純・自然な動作

 

・Not a colour to disturb the tone of the room, not a sound to mar the rhythm of things, not a gesture to obtrude on the harmony, not a word to break the unity of the surroundings, all movements to be performed simply and naturally—such were the aims of the tea-ceremony. (2章)

《部屋の調子を妨害する色もなく、物のリズムを台なしにする音もなく、調和を邪魔する身ぶりもなく、周囲の統一を打ち壊す言葉もなく、すべての動作を単純・自然に実行される。そういうのが、茶会の目的だった。》(私訳)

○自然(naturally)、調和(harmony)、統一(unity)

 

《茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、すべての行動を単純に自然に行なう――こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。》(岩p.39)

《部屋の色調を乱すような色、動作のリズムを損なうような音、調和を壊すような仕草、あたりの統一を破るような言葉といったものは一切なく、すべての動きは単純かつ自然になされる――茶の湯が目指したのはこのようなものである。》(角p.51)

《茶室の調子を乱す一点の色もなく、物事のリズムをそこなうもの音一つ立てず、調和を破る身の動き一つなく、周囲の統一を破る一言も口にせず、すべて単純に自然に振舞う動作――こういうものが茶の湯の目的であった。》(講p.35)

 

 

◎人の心(本性)で神と自然が遭遇

 

・It is in us that God meets with Nature, and yesterday parts from tomorrow. (3章)

《神が自然と遭遇し、昨日が明日から区分するのは、私達の中でだ。》(私訳)

○自然(Nature)

○昨日(yesterday)/明日(tomorrow)

 

《われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあすの分かれるところである。》(岩p.45)

《神が自然と出会うのも、昨日が明日へと別れていくのも、私たちのうちにおいてなのだ。》(角p.64)

《神が自然に出会い、昨日が明日とわかれるのは、われわれの中においてなのである。》(講p.42)

 

 

◎美・自然な風景

 

・What Rikiu demanded was not cleanliness alone, but the beautiful and the natural also. (4章)

《(千)利休が要求したのは、清潔さだけでなく、美と自然もだった。》(私訳)

○自然(natural)

 

《利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。》(岩p.57)

《利休が求めたのは単なる清潔ということではなくて、美しく自然らしいということだったのである。》(角p.86-87)

《利休が求めたものは、清潔だけではなかったので、美と自然でもあった。》(講p.58)

 

 

◎野獣(自然な物品)→人間→芸術家(無用も有用)

 

・The primeval man in offering the first garland to his maiden thereby transcended the brute. He became human in thus rising above the crude necessities of nature. He entered the realm of art when he perceived the subtle use of the useless. (6章)

《原始人は、最初の花輪を彼の乙女に捧げることによって、野獣を超えた。彼は、こうして、自然の粗雑な必需品を脱し、人間になった。彼が無用の巧妙な有用を認識した時、彼は、芸術の分野に入った。》(私訳)

○自然(nature)

○野獣(brute)/人間(human)、有用(use)/無用(useless)

 

《原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。》(岩p.72)

《原始人は、思いを寄せる乙女に初めて花束を捧げた時、獣(けだもの)でなくなったのだ。自然界の粗野な本能性を脱して人間となったのである。無用なものの微妙な有用性を知った時、彼は芸術家(アーチスト)となった。》(角p.118)

《原始時代の男は恋人にはじめて花輪を捧げることによって、獣性を脱した。彼は、こうして、生まれながらの粗野な本能を超越して、人間となった。無用の微妙な用を認識したとき、芸術の領域に入った。》(講p.77)

 

 

◎自然を荒廃=神の犠牲、自分自身という祭壇=永遠に保存、欲望=神聖

 

・Nothing is real to us but hunger, nothing sacred except our own desires. Shrine after shrine has crumbled before our eyes; but one altar is forever preserved, that whereon we burn incense to the supreme idol,—ourselves. Our god is great, and money is his Prophet! We devastate nature in order to make sacrifice to him. We boast that we have conquered Matter and forget that it is Matter that has enslaved us. What atrocities do we not perpetrate in the name of culture and refinement! (6章)

《空腹以外に、私達に現実はなく、私達自身の欲望以外に、神聖なものはない。神殿に次ぐ神殿は、私達の眼前で崩れ去ったが、私達が最高位の偶像に香(こう)を焚いた、私達自身という、ひとつの祭壇は、永遠に保存されている。私達の神は、偉大で、金銭は、神の予言者だ。私達は、神の犠牲にするために、自然を荒廃させる。私達は、自分達が物質を征服したのを誇っていて、私達を奴隷にしたのが物質であるのを忘れている。私達は、文化や洗練の名目で、何も残虐行為を実行していないのか(いや、している)。》(私訳)

○自然(nature)、永遠(forever)、神聖(sacred)

 

 

《飢渇[きかつ]のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩(ぼんのう)のほか何物も神聖なものはない。神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊して来たが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚(た)く「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている。われらの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ!われらは神へ奉納するために自然を荒らしている。物質を征服したと誇っているが、物質こそわれわれを奴隷にしたものであるということは忘れている。われらは教養や風流に名をかりて、なんという残忍非道を行なっているのであろう!》(岩p.73)

《私たちにとっては、飢えほど切実なものはなく、欲望ほど尊いものはないのである。さまざまな神に捧げられた神殿は次々に崩れ果てていったが、唯一、私たちが香を焚き、至高の偶像に崇拝を捧げつづけている祭壇がある。私たち自身だ。我らの神は偉大なり!そして、この神の予言者をつとめるのは金なのだ!私たちはこの神に捧げるいけにえとして自然を荒らしまわる。私たちは物質を征服したと鼻高々だが、実は、私たちの方こそ物質の奴隷になりさがってしまっていることを忘れているのだ。私たちは、文化と洗練という名目でどんなにひどいことをしていることか!》(角p.119-120)

《われわれに現実的なものは飢えのほかに何もない。自分の欲望のほかに神聖なものは何もない。神社仏閣は次つぎにわれわれの眼の前で崩壊してしまった。だが一つ祭壇が永久に保存されていて、そこでわれわれは至高の偶像、「自己」にむかって香を焚く。われわれの神は偉いものであり、金銭はその予言者である!われわれはこの神にいけにえを捧げるために自然を荒らしている。物質を征服したと自慢しているが、われわれを奴隷にしているものが物質であることを忘れている。教養と風雅の名によって何という残虐を犯していることであろうか!》(講p.78-79)

 

 

◎花の達人=自然の経済秩序を尊重

 

・Beside this utter carelessness of life, the guilt of the Flower-Master becomes insignificant. He, at least, respects the economy of nature, selects his victims with careful foresight, and after death does honour to their remains. (6章)

《この生命へのまったくの不注意に比べると、花の達人の罪は、重要ではないのだ。彼は、少なくとも、自然の経済秩序を尊重し、慎重な洞察力で、その犠牲者を選択し、死後は、その遺骸に敬意を表す。》(私訳)

○自然(nature)、生命(life)

 

《このような、花の命を全く物とも思わぬことに比ぶれば、花の宗匠の罪は取るに足らないものである。彼は少なくとも自然の経済を重んじて、注意深い慮(おもんぱか)りをもってその犠牲者を選び、死後はその遺骸(いがい)に敬意を表する。》(岩p.75)

《こうした花の命に対する徹底した無関心さに比べれば、生け花の宗匠の罪はまだしもささやかなものだ。彼は、少なくとも、自然の秩序を重んじ、注意深い見通しのもとに犠牲者を選びだして、その死後は遺骸を手厚く葬ってやるのである。》(角p.122)

《この完全な生命無視にくらべれば、生け花の宗匠の罪は取るに足らないものになる。彼はすくなくとも、自然の経済を尊重し、注意深い先見の明をもって彼の犠牲者をえらび、死後はその遺骸に敬意を表す。》(講p.81)

 

 

(つづく)