岡倉天心「茶の本」英文と和訳の抜粋2 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●相対的が絶対 : 常時変化・移行が前提

 

 

◎道教=偉大な移り変わりが本質、相対的が絶対

 

・The Tao might be spoken of as the Great Transition. Subjectively it is the Mood of the Universe. Its Absolute is the Relative. (3章)

《〈道〉は、偉大な移り変わりとして語られるだろう。主観的には、宇宙の〈気〉だ。その(〈道〉の)絶対は、相対だ。》(私訳)

○偉大な移り変わり(Great Transition)、〈道〉(Tao)、〈気〉(Mood)

○絶対(Absolute)/相対(Relative)

 

《「道」は大推移とも言うことができよう。主観的に言えば宇宙の気であって、その絶対は相対的なものである。》(岩p.41)

《道(タオ)は大いなる推移とも言えるかもしれない。主観的には宇宙の気ということであり、その絶対は相対にほかならない。》(角p.58)

《「道(タオ)」は「大推移」と言うこともできよう。主観的には「宇宙」の「気」である。その「絶対」は「相対」である。》(講p.38)

 

 

◎道教=移行する相対的が絶対、儒教(道徳)・法(国)を非難

 

・We have said that the Taoist Absolute was the Relative. In ethics the Taoist railed at the laws and the moral codes of society, for to them right and wrong were but relative terms. Definition is always limitation—the "fixed" and "unchangeless" are but terms expressive of a stoppage of growth. Said Kutsugen,—"The Sages move the world." Our standards of morality are begotten of the past needs of society, but is society to remain always the same? The observance of communal traditions involves a constant sacrifice of the individual to the state. (3章)

《私達は、道教の絶対が相対だといった。倫理学では、道教徒は、彼らにとって、正・誤が相対的な用語でしかないため、法や社会の道徳規範を非難した。定義は、いつも制限だ。「固定」・「不変」は、生長の停止を表現する用語でしかない。クツゲンがいう、「賢者は、世界を移行する」と。私達の道徳の基準は、社会の過去の必要性から生み出されたが、社会はいつも同じままなのか。共同体の伝統の遵守は、国へ、個人が恒常的に犠牲になることを含んでいる。》(私訳)

○移行(move)

○絶対(Absolute)/相対(Relative)、正(right)/誤(wrong)

 

《道教でいう絶対は相対であることは、すでに述べたところであるが、倫理学においては道教徒は社会の法律道徳を罵倒(ばとう)した。というのは彼らにとっては正邪善悪は単なる相対的の言葉であったから。定義は常に制限である。「一定」「不変」は単に成長停止を表わす言葉に過ぎない。屈原(くつげん)いわく、「聖人はよく世とともに推移す。」われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。》(岩p.42-43)

《すでに述べたように、道教における絶対は相対にほかならない。倫理に関していえば、道教徒は社会の掟や道徳律に対して嘲笑的だった。彼らにとっては、善とか悪とかいっても相対的なものでしかなかったからである。なにかを定義するとは、それを限定してしまうことだ――「一定」とか「不変」というのは成長の停止を意味する言葉にすぎない。屈原は言っている「聖人は世の中と一緒に移り変わるものだ」と。私たちの道徳基準は過去の社会の必要から生み出されたものだが、社会は常に一定不変だっただろうか。共同体の伝統を守ることは、個人を国家のために犠牲にすることになる。》(角p.60)

《すでに言ったように、道教の「絶対」は「相対」であった。倫理学において道教徒は法律と社会の道徳律を罵倒(ばとう)した。彼らにとって正と邪は相対的な言葉にすぎなかったからである。定義はつねに制限である。「一定」「不変」は成長の停止を表わす言葉にすぎない。屈原(くつげん)は言った、「賢人は世とともに推移する。」われわれの道徳の基準は社会の過去の必要から生まれる。が、社会はつねに同じ状態のままでありうるだろうか。共同体の伝統を遵奉(じゅんぽう)すれば、個人は絶えず国家の犠牲にならざるをえない。》(講p.39-40)

 

 

◎相対性=調整を探求、〈生の術〉=周囲と常時再調整

 

・The Present is the moving Infinity, the legitimate sphere of Relative. Relativity seeks Adjustment; Adjustment is Art. The art of life lies in a constant readjustment to our surroundings. (3章)

《現在は、移行する無限であり、相対の正当な領域である。相対性は、調整を探求する。調整は、〈術〉(技芸)である。〈生の術〉は、周囲の環境に絶えず再調整することにある。》(私訳)

○相対(Relative、Relativity)、移行(move)、無限(Infinity)、〈生の術〉(art of life)、再調整(readjustment)

 

《「現在」は移動する「無窮」である。「相対性」の合法な活動範囲である。「相対性」は「安排」[都合よく手配すること]を求める。「安排」は「術」である。人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。》(岩p.45)

《現在とは、絶えず変転しつつある無限のあらわれであり、相対の本来の場である。この相対性にどうやったら正しく対応できるのか、その秘訣が「この世に生きる術」なのである。身の回りの状況を絶えず調整していく術である。》(角p.64)

《「現在」は移りゆく「無限」、「相対」の本領である。「相対性」は「適応」を求める。「適応」は「術」である。生の術は環境にたいして絶えず適応しなおすことにある。》(講p.42)

 

 

◎禅=相対を崇拝

 

・Zennism, like Taoism, is the worship of Relativity. (3章)

《禅は、道教と同様、相対性を崇拝している。》(私訳)

○相対性(Relativity)、崇拝(worship)

 

《禅道は道教と同じく相対を崇拝するものである。》(岩p.48)

《禅では、道教同様、相対性ということが重んじられる。》(角p.69)

《禅は道教と同じように、「相対性」を崇拝する。》(講p.46)

 

 

●逆説・反対 : 相対が前提

 

 

◎道教=反教義・反体系・逆説、自が愚者で始め、他が賢者で終り

 

・But, after all, what great doctrine is there which is easy to expound? The ancient sages never put their teachings in systematic form. They spoke in paradoxes, for they were afraid of uttering half-truths. They began by talking like fools and ended by making their hearers wise. (3章)

《しかし、結局、説明しやすい、偉大な教義があるのだろうか。古代の賢者は、自分達の教えを、体系的な形に、けっして納めなかった。彼らは、中途半端な真実の発言を恐れたため、逆説で語りかけた。彼らは、愚か者のように語り始め、聞く者達を賢くすることで終わらせた。》(私訳)

○逆説(paradox)、教義(doctrine)、体系的な形(systematic form)

○話す(talk)/聞く(hear)、愚(fool)/賢(wise)、始め(begin)/終り(end)

 

《が、要するに容易に説明のできるところになんの大教理が存しよう。古(いにしえ)の聖人は決してその教えに系統をたてなかった。彼らは逆説をもってこれを述べた、というのは半面の真理を伝えんことを恐れたからである。彼らの始め語るや愚者のごとく終わりに聞く者をして賢ならしめた。》(岩p.40)

《とはいえ、つまるところは、偉大な思想で簡単に説くことのできるものなどありはしないということだ。昔の賢者たちは決して体系的な形で教えを語ったりしなかった。彼らは好んで逆説的な言い方をしたが、それは生半可な理解を恐れたからである。また、わざと愚か者のように語ることによって、聞く者にさとらせるようにしむけたりもした。》(角p.57)

《だが、結局、説明しやすい偉大な教義というものがあるだろうか。昔の賢人たちはその教えを組織立ったかたちで示したことはない。彼らは逆説で語った。半真理を口に出すことを恐れたからであった。彼らは愚者のように語りはじめたが、語りおわったとき聴衆は賢くなっていた。》(講p.37)

 

 

◎禅の真理=反対を理解

 

・One master defines Zen as the art of feeling the polar star in the southern sky. Truth can be reached only through the comprehension of opposites. (3章)

《ある達人は、禅を、南の空に北極星を感じ取る〈術〉と定義する。真理は、反対の理解によってのみ到達できる。》(私訳)

○反対(opposite)

○北極星(polar star)/南の空(southern sky)

 

《ある禅師は禅を定義して南天に北極星を識(し)るの術といっている。真理は反対なものを会得することによってのみ達せられる。》(岩p.48)

《ある老師は禅を定義して、南の空に北極星を感じとるような術であると言った。相対立するものを理解することによってのみ真理に到達することができるのだ。》(角p.69)

《或る禅師は禅を、南の空に北極星をみる術であると定義している。真理は相反するものを把握することによってのみ、得ることができる。》(講p.46)

 

 

●虚 : 作品は、外形のみで、内実がないので、空虚・虚無

 

 

◎自が虚に勤め、他に譲る、個人・部分よりも全体のプロポーション

 

・To keep the proportion of things and give place to others without losing one's own position was the secret of success in the mundane drama. We must know the whole play in order to properly act our parts; the conception of totality must never be lost in that of the individual. This Laotse illustrates by his favorite metaphor of the Vacuum. He claimed that only in vacuum lay the truly essential. (3章)

《物のプロポーションを保ち、自分自身の位置を失うことなしに、他人に譲ることは、ありふれたドラマでの成功の秘訣だ。私達は、自分達の部分を正確に実行するために、全体の演技を知らなければならない。全体の概念は、個人の概念の中で、けっして失ってはいけない。これを老子は、彼のお気に入りの、〈虚〉という隠喩によって説明した。彼は、〈虚〉のみに真の本質があると、主張した。》(私訳)

○〈虚〉(Vacuum)、隠喩(metaphor)、譲る(give place)

○自分(one)/他人(others)、全体(whole、totality)/部分(part)・個人(individual)

 

《物のつりあいを保って、おのれの地歩[ちほ、役柄]を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣(ひけつ)である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩(いんゆ)で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。》(岩p.45)

《物事のバランスを保ち、自分の位置は確保しながら他人にも譲るというのがこの世のドラマを成功させる秘訣なのだ。自分の役割を的確に演じるためにはドラマの全体を知っていなければならない。個人ということを考える時には、この全体のことを決して見失わないようにしなければならないのだ。このことを老子は有名な「虚」のたとえを用いて説いている。老子によれば、真に本質的なものは虚のうちにしかないというのである。》(角p.64)

《物事の釣合(つりあ)いを保って、おのれの場所を失わずに他人に譲ることが、現世の劇の成功の秘訣である。われわれは自分の役を過不足なく務めるためには芝居全体を知っていなければならない。個人を知って全体を見失うことがあってはならない。老子はこのことを「虚」という彼の得意の暗喩(あんゆ)で具体的に説明している。物の真の本質は空虚にのみ存すると彼は主張した。》(講p.43)

 

 

◎虚は万能、自が虚を作り、他が自由に入る、全体が部分を支配

 

・Vacuum is all potent because all containing. In vacuum alone motion becomes possible. One who could make of himself a vacuum into which others might freely enter would become master of all situations. The whole can always dominate the part. (3章)

《〈虚〉は、すべてを包含するので、すべての効能がある。〈虚〉においてのみ、運動が可能になる。他人が自由に中へ入るであろう〈虚〉を、自分自身で作ることができる者は、すべての状況の達人になることができる。全体は、いつも部分を支配することができる。》(私訳)

○〈虚〉(Vacuum)

○自分(one)/他人(others)、全体(whole)/部分(part)

 

《虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。》(岩p.46)

《虚はすべてを容れるが故に万能であり、虚においてのみ運動が可能になるのだ。自分をからっぽにして自由に他人が出入りできるようにすることをこころえた者は、どんな状況でも自由にコントロールすることができるようになるだろう。全体こそは常に部分を支配するのだ。》(角p.65)

《「虚」は一切を含有する故に万能である。虚においてのみ運動が可能になる。おのれを空しくして他人を自由に立ち入らせることのできる者は、どんな事態をも自由にすることができるであろう。全体はつねに部分を支配することができる。》(講p.43)

 

 

◎自が作品を虚で暗示し、他が傑作の一部となり、美的感情移入して完成

 

・In art the importance of the same principle is illustrated by the value of suggestion. In leaving something unsaid the beholder is given a chance to complete the idea and thus a great masterpiece irresistibly rivets your attention until you seem to become actually a part of it. A vacuum is there for you to enter and fill up the full measure of your aesthetic emotion. (3章)

《芸術では、同じ原理の重要性は、暗示の価値によって、説明されている。何かを語らないままにしておくことで、見る者は、考えを完成させる機会を与えられ、よって、偉大な傑作は、あなたが傑作の一部に実際になるまで、あなたの注意をたまらなく引き留める。〈虚〉は、あなたが移入し、あなたの美的感情の尺度をすべて満足させるために、そこにある。》(私訳)

○〈虚〉(vacuum)、暗示(suggestion)、完成(complete)、美的感情(aesthetic emotion)

 

《芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。》(岩p.46)

《芸術においては、同様の原理の重要性が暗示の効用としてあらわれる。作品のうちのなんらかを表現せず、空白のまま残しておくことによって、鑑賞者はその空白を自分流に補い、最終的に作品内容を仕上げる機会を与えられるのであり、偉大な傑作は、このようにして鑑賞者の注意をひきつけ、ついには、鑑賞者は自分が作品の一部になってしまったように思われてくるのである。つまり、ここでは、虚は、鑑賞者を導き入れ、その美的感情を思う存分に発揮させる場となるのである。》(角p.66)

《美術においておなじ原理が重要なことは、暗示の価値が例証している。何ものかを言わずにおくことによって、見る者はその思想を完成する機会を与えられる。かくして、偉大な傑作は見る者の注意を否応なくくぎづけにして、ついに見る者が現実に作品の一部になっているような気持にさせる。虚は見る者を誘い、彼の美的情緒を十二分に満たすためにそこにある。》(講p.44)

 

 

◎茶室=空虚

 

・The tea-room is absolutely empty, except for what may be placed there temporarily to satisfy some aesthetic mood. (4章)

《茶室は、いくつかの美的な〈気〉を満足させるために、一時的に設置されるもの以外は、完全に空虚だ。》(私訳)

○空虚(empty)、〈気〉(mood)

 

《茶室はただ暫時美的感情を満足さすためにおかれている物を除いては、全く空虚である。》(岩p.59)

《茶室は、その時々の美的感情を満たすべく備えられるものを除いては、まったくからっぽでなければならない。》(角p.90)

《茶室は、何らかの審美的気分を満足させるために一時的に飾られるものを別にすれば、まったく空虚である。》(講p.61)

 

 

●心 : 作品に内実がなく、虚なので、そこに心が入り込む

 

 

◎禅=個人主義、内心のみ実在

 

・Again, Zennism, like Taoism, is a strong advocate of individualism. Nothing is real except that which concerns the working of our own minds. (3章)

《また、禅は、道教と同様、個人主義を強力に提唱する。私達自身の心の働きに関わるもの以外は、何も実在しない。》(私訳)

○心(mind)

 

《さらに禅道は道教と同じく個性主義を強く唱道した。われらみずからの精神の働きに関係しないものはいっさい実在ではない。》(岩p.48)

《また、禅は、やはり道教同様、個人主義を強く擁護する。私たち自身の精神にかかわるものしか実在しないというのである。》(角p.69)

《さらに、禅道は道教と同じように、個人主義の強力な鼓吹者(こすいしゃ)である。われわれ自身の精神のはたらきに関わりをもつところのものだけが現実的である。》(講p.46)

 

 

◎禅=内心が交流、言葉・外物が負担・障害

 

・To the transcendental insight of the Zen, words were but an incumbrance to thought; the whole sway of Buddhist scriptures only commentaries on personal speculation. The followers of Zen aimed at direct communion with the inner nature of things, regarding their outward accessories only as impediments to a clear perception of Truth. (3章)

《禅の超越的な洞察力にとって、言葉は、思考の負担にすぎず、個人的な思索の注釈で、仏教経典全体をわずかゆすったにすぎない。禅の信奉者達は、物の内面的本性との直接の交流を目的とし、それらの外面的付属品を、ただ真理の明確な認識への障害とだけ、みなした。》(私訳)

○交流(communion)、本性(nature)

○内面的(inner)/外面的(outward)

 

《禅門の徒の先験的洞察(どうさつ)に対しては言語はただ思想の妨害となるものであった。仏典のあらん限りの力をもってしてもただ個人的思索の注釈に過ぎないのである。禅門の徒は事物の内面的精神と直接交通しようと志し、その外面的の付属物はただ真理に到達する阻害と見なした。》(岩p.49)

《徹底的な悟りをめざす禅にとって言葉は瞑想の妨げでしかなく、仏典ことごとくを読破したところで、せいぜい個人的な思索に註釈を加える程度のことにすぎない。禅の修行者は物事の内なる本質と直接的に交流することをめざし、外側の見かけは真理の純粋な把握のためには障害でしかないとみなした。》(角p.70)

《禅の超越的な内観にとって、言葉は思考の邪魔物にすぎない。仏典のあらんかぎりの力をもってしても、個人の思索の註釈にすぎない。禅の宗徒は、事物の外的付属物をもっぱら真理の明晰(めいせき)な認識を妨げるものと見做(みな)し、事物の内的本性と直接に交渉しようとこころざした。》(講p.47)

 

 

(つづく)