三木清「人生論ノート」考察11~死 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

●死について(原題:死と伝統)

 

 私が『人生論ノート』を考察する最初に、この項は、特に難解だとしましたが、三木の主要かつ独特な思想の虚無や虚栄を説明し、三木の発想もおおむねわかってきたので、ようやく冒頭を取り上げることにしました。

 この項は、「死と伝統」という原題で発表され、大雑把にいえば、死についての三木の意見、死の見方、伝統主義の見方の、3者からなり、「死の見方の二分は、伝統主義の見方の二分と呼応する」ことを主張しているので、この2者を先に、三木の意見を後に、説明します。

 

 まず、死の見方は、古典主義的な見方と、浪漫主義的な見方に、二分されており、古典主義的な見方は、健康を前提とし、健康・生に無自覚で、死に無関心なので、生も死も絶対的になり、死を平和(安定)とみて、古代ギリシア・ローマを想定しています。

 一方、浪漫主義的な見方は、病老を前提とし、生と死を対立させ、その間の病気・老熟にも自覚的なので、生・病・老・死が相対的になり、死を恐怖(不安定)とみて、ルネサンスや現代を想定しており、双方は、次のように対比できます。

 

・古典主義的な見方=健康が前提:健康・生に無自覚、死に無関心

 → 絶対的:生・死 → 死の平和(安定) ~ 古代ギリシア・ローマ

・浪漫主義的な見方=病老が前提:生と死の対立、その間の病・老にも自覚的

 → 相対的:生・病・老・死 → 死の恐怖(不安定) ~ ルネサンス・近現代

 

 つぎに、伝統主義の見方は、絶対的な伝統主義の見方と、相対的な伝統主義の見方に、二分されています。

 絶対的な伝統主義の見方は、作者の不死を願望するのが、真実心ですが、作者が生長・老衰しない死者で、その願望ができないので、作品をそのまま、信じて絶対的な生(真理)とするか、信じずに絶対的な死(無)とするかの、二者択一になります。

 これは、存在価値(外面の「ある」)を優先とし、宗教的信仰と同様で、たとえば、キリスト教では、人間は神に背いて罪を犯さざるをえない性質なので、生まれつき原罪を負っているとする観念があり、これを信じるか・信じないかで、中途半端はありません。

 他方、相対的な伝統主義の見方は、作品の不滅を願望するのが、虚栄心(内面の実体がない虚栄の外面)とされており、死者の作者でも、生者のごとく生長・老衰させるように、作品を半ば活かし・半ば殺し、相対的な半生半死で、都合よく解釈することになります。

 こちらは、利用価値(内面の「する」)を優先とし、科学的解明と同様で、たとえば、ルネサンスは、病気の観念で、古代ギリシア・ローマを都合よく解釈した、切り貼りといえ、ヘーゲルの理性による歴史主義・進化主義も、同類です。

 そして、絶対的な伝統主義の見方では、内面の真実心に、外面の存在価値が相当し、相対的な伝統主義の見方は、外面の虚栄心に、内面の利用価値が相当しており、双方は、次のように対比できます。

 

・真実心=作品より作者(原因)優先:自然の法則(原因≧結果)、人間を超越

 → 絶対的な伝統主義=死者の生命の論理:真理(生)か無(死)かの二者択一

 → 作者を、信で絶対的な生か、不信で絶対的な死か ~ 存在価値、宗教的信仰:原罪の観念

・虚栄心=作者より作品(結果)優先:歴史の法則(結果>原因)、人間自身

 → 相対的な伝統主義=生者の生長の論理:半ば活かし・半ば殺し(半生半死)

 → 作品を、相対的な半生半死で、都合よく解釈 ~ 利用価値、科学的解明:病気の観念

 

 以上を要約すると、伝統主義の見方は、作者を存在価値・普遍的とみて、作品をそのまま、信じて真理(生)とするか、信じないで無(死)とするか、作品を利用価値・段階的とみて、相対的に半ば活かし・半ば殺し(半生半死)、都合よく解釈するか、いずれかになります。

 

 ここまでみると、死の見方と、伝統主義の見方は、絶対的な生か死かと、相対的な半生半死で、つながっていることがわかり、これを前提に、死の恐怖を希薄化するための、三木の意見をみるべきで、その意見を列挙すると、次のようです。

 

・死者と再会できる可能性が、生前にはないが、死後にはゼロでない

・無執着心・虚無の心では、なかなか死ねない

・執着心があるから、死に切れないのは、執着心があるから、死ねる

・執着心があれば、死後に帰る場所があるので、死への準備で生前に執着・愛するものを作るべきだ

 

 ここで、三木(作者)を優先し、これらの存在を信用するのか、信用しないのか、意見(作品)を優先し、これらを都合よく解釈して利用するのか、どれを選択するかで、逆に、伝統主義の見方や、死の見方が、設定されることになるのです。

 

 ちなみに、大乗仏教では、自利・利他で、次のような2者の見方を行き来しており、西洋も東洋も、近代も古代も、おおむね類似した思想に辿り着いていることがわかります。

 

・真如心(真実心)=人間を超越した解脱(涅槃)の世界:自然、本然的・絶対的 ~ 存在論的

・如来蔵付の生滅心(虚妄心)=人間の輪廻の世界:作為、分節的・相対的 ~ 論理的

 

~・~・~

 

◎死についての「ノート」

 

○死・病・老

・死=死の瞬間に平和が来るのが真実 → 老熟した精神の健康の徴表(特徴)の感覚

・病気=真実に心の落ち着きを感じる:現代人の一つの顕著な特徴

・年齢の老熟=精神の老熟(身体の老衰でない)、死の恐怖が希薄化、死を慰めと感じられる

 → 自分の親しかった者との死別が多くなった

   +死後に死者との再会可能性・プロバビリティ(確率)がゼロと断言できず

 

○健康感

・病気恢復(快復、コンヴァレサンス)期の健康感=自覚的、不安定 → 抒情的・浪漫的

 ~ ルネサンス(古典の復興、古典主義の精神)、現代

・青年・元気な若者の健康感=無自覚の状態 → 古典的

 ~ 古代ギリシア・ローマ

 

○死=観念(経験できないが、事前に予期してみる)、病気=経験→思想・科学が出現

※病気/健康と死

・浪漫主義=一切の病的(病老が前提) → 死の恐怖=浪漫的

 ~ 西洋:観念=死の立場から発生、思想=現実・生に対立する立場から出現

・古典主義=一切の健康(健康が前提) → 死の平和=古典的

 → 生のリアリズム(現実主義)に到達

 ~ 東洋(モンテーニュも):死に無関心・生に関心、最上の死=事前に予想できない死

    → 東洋に思想なし:思想の認識論的問題から吟味すべき

 

○心

・虚栄心=死をも対象にできるほど大きい → 不死の世界になっても、死を企てる者が出現

 → 世の中に、これに劣らない虚栄の出来事が多いのに気づかない

※執着と死

・無執着・虚無の心→なかなか死ねない

・執着心で死に切れない→死後に自分の帰る(死者と再会する)場所あり→執着があるから死ねる

 → 死への準備=生前に執着・真に愛するものを作る → 永生(永遠)が約束

 

○死の問題→伝統の問題

・死者が蘇り・生きながらえるのを信じる→伝統を信じる

・蘇り・生きながらえるもの=作者か、業績・作品か

 → 作る者(作者)=作られた物(作品)以上の力をもつので、偉大になる可能性あり

※蘇り・生きながらえるもの

・自然の法則:原因(作者)≧結果(業績・作品)

・歴史の法則:結果>原因

※虚栄心/真実心

・虚栄心:作者(プラトン)の不死よりも、作品の不滅を望む

・真実心:愛する者(作者)の永生よりも、愛する者が為したこと(業績)の永続を願わない

 → 歴史のヨリ優越な原因=人間を超越したもの(人間自身でない)

 → 人間を超越したもの=歴史での作品・業績よりも、作者の蘇り・生きながらえを欲す

 → 人間自身=過去のものを蘇らせ・生きながらえさせる力をもっている

   →作られた物(作品)よりも、作る者(作者)を蘇らせ・生きながらえさせることが一層容易

 → 死者の生命への思考=生者の生命への思考よりも、論理的に一層困難でない

 → 死=観念 → 観念の力に頼って人生を生きる → 死の思想を掴むことから出発:宗教

 

○伝統の問題=死者の生命の問題(生者の生長の問題でない)

・通俗の伝統主義の誤謬(ごびゅう)=絶対的な伝統主義を相対的な伝統主義でみてしまう

 → 自然哲学的な見方→伝統主義を理解できず

・過去=死に切っている → 死=現在の生からみれば絶対的、生長・老衰がない

 → 絶対的な伝統主義=二者択一の決意を要求

 → 死者を信じて絶対的な生命(真理)か、信じずに絶対的な死(無)か

 

○伝統主義=絶対的な真理であろうとする思考 → 死の見方が関係

・絶対的な伝統主義=死者の生命の論理が基礎(生者の生長の論理でない)、二者択一(真理か無か)

 ~ キリスト教の原罪の観念(信じるか信じないか)

・相対的な伝統主義=自然哲学的な見方:すべてが過去から次第に生長、自己で自己の中から生成

 ~ 病気の観念:死=観念、生・病気=経験 → 伝統主義を導き出せず

※自然哲学的な見方=自然的に、人間の中へ流れ込み、人間の生命の一部分になったと思考する過去

※歴史主義=進化主義=近代主義のひとつ、ヒューマニズム(人間中心主義)

 → 作品を都合よく切り貼り=半ば生き・半ば死に、普通に漠然と表象された過去

 

(つづく)