三木清「人生論ノート」考察4~偽善 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●偽善について

 

 偽善と虚栄は、同じ点と、違う点があり、同じ点では、偽善は、虚栄で、虚栄とは別に偽善があるのでなく(偽善は、虚栄と一つ)、虚栄も偽善も、人生に若干の効用をもつとされています。

 そのうえで、虚栄は、人間の存在の一般的性質で、虚栄の実体が虚無なので、人生は、フィクション(小説)で、先に、偽善を設定し(外面の「ある」)、後に、誠意・熱意のある自己形成で実在性を証明することで(内面の「する」)、偽善(外面)に実体(内面)を追い付かせようとします。

 ちなみに、偽善への反感から、故意に悪びれる偽悪も、虚栄の一種で、偽善は、明瞭な虚栄、偽悪は、不明瞭な(おぼつかない)虚栄といえ、偽悪は、感傷的(センチメンタリズム、情念の活動を無為化)なのが特徴で、浅薄・無害とされています。

 一方、違う点では、意識的な偽善で、自己形成せず、他人・社会のみを相手に、こびへつらえば(阿諛/あゆ的)、他人を破滅・腐敗させ、他人の心を誘拐し、真理の認識を無能力化するとされています。

 つまり、虚栄と同じ偽善は、創造的な自己形成で、内部(内面の実体)と外部(外面の偽善)がひとつになりますが、虚栄と違う偽善は、他人・社会のみが相手なので、自己がなく、創造もないので、内部(内面の実体)と外部(外面の偽善)が別々のままです。

 

 ここで注意したいのは、真理・善や道徳が、自己の内ではなく、外で人間とは無関係に存在すると指摘されていることで、人生での自己形成で、それらを採否することになりますが、今(近現代)は、偽善をかばうために、道徳の社会性が力説されるようになったので、道徳的退廃の時代といえます。

 その時代の、自己の外形(外面)は、新しく整っていますが、その内心(内面)は、生命のない、虚無主義(ニヒリズム、本質的な価値を否定)だとしているので、実体がありません。

 

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◎偽善についての「ノート」

 

○虚栄=人間の存在の一般的性質、虚栄の実体=虚無 → 人間=生まれつき嘘吐(つ)き

・人間=けばけばしさ・飾り立てを愛好、作り事・お伽噺(とぎばなし)を作る、自分自身の作品を愛する

・真理=単純、天から来て、出来上がった完全性で、人間とは無関係に存在(人間の仕事でない)

 

○本性が虚栄的な人間=偽善的

・善・真理=一つのものと理解すれば、偽善を理解できる:偽善=虚栄と一つ(善=真理と一つ)

・偽善・虚栄=人生で若干の効用あり

・偽善=虚栄と本質的に同じと理解せず → 偽善への反感

 → モラル=センチメンタリズム(感傷的) → 虚栄の虜(とりこ)=偽悪

・偽悪=人間のおぼつかない(不明瞭な)虚栄、特徴=感傷的、深い人間でなく、無害

 

○偽善=虚栄、虚栄の実体=虚無、虚無=人間の存在そのもの、虚栄=人間の存在の一般的性質

・本来の自己=徳・悪徳のすべて

 → 自己を忘却し、他人・社会のみが相手で、道徳の社会性を力説

 → 偽善が発生、道徳の社会性の理論=現代に特徴的な偽善をかばう口述にみえる

・偽善の恐怖=意識的な人間(偽善的でない)

・偽善的な人間の意識=他人・社会のみ(自己・虚無でない)

 

○虚無が根柢の人生・人間の道徳=フィクショナル(小説的) → 偽善も存在:若干の効用あり

・フィクション=誠意・熱意をもち、人生で実在性を形成(内部と外部が一つになる)・証明すべき

・偽善=内部と外部が別、創造なし

 

○表現・言葉の恐怖

・表現自身に真理と受け取られる性質あり → 虚言が存在

・物を表現 → 人間と無関係に

 

○他人を相手に意識する偽善=阿諛(あゆ、こびへつらい)的

・他人を破滅・腐敗させる原因=阿諛(偽善そのものでない)

・阿諛的=有無で偽善とそれ以外を区別、心をかどわか(誘拐)して真理の認識を無能力化

・阿諛=虚言より遥かに悪い、虚言の害=阿諛が原因、嘘吐き=道徳的に阿諛よりマシ

・真理=単純・率直 → 阿諛的な偽善の姿=無限

・権力・地位ある者に最も必要な徳=阿諛と純真な人間を識別する力

 

○世の中=虚栄的 → 善く生きる=善く隠れる=自然のまま生きる(偽善・偽悪でない)

 

○偽善=現代の道徳的頽廃(退廃)の普遍的な新しい形式

・表面(外面)の形=整って新しい(旧くない)

 → 形の奥(内面)=生命なし、心(内面)=形に支えられず虚無

 → 現代の虚無主義(ニヒリズム)の性格

 

(つづく)