伊藤仁斎「語孟字義」下・読解5~学 | ejiratsu-blog

ejiratsu-blog

人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●学:4条

 

 

○1条

・学者、効也。覚也。有所効法而覚悟也。按古学字、即今効字。故朱子集註曰、学之為言、効也。白虎通曰、学、覚也。覚悟所不知也。学字之訓、兼此二義、而後其義始全矣。所謂効者、猶学書者初只得臨摹法帖、効其筆意点画。所謂覚者、猶学書既久、而後自覚悟古人用筆之妙。非一義之所能尽也。集註曰、後覚者、必効先覚之所為、又含覚字之意在。学者多不察。

 

[学は、効なり、覚なり。法を効する所あって覚悟するなり。按(あん)ずるに、古(いにしえ)の学の字は、すなわち今の効の字なり。ゆえに朱子集註にいわく、「学の言たる、効なり」。白虎通にいわく、「学は、覚なり。知らざる所を覚悟するなり」。学の字の訓、この二義を兼ねて、しかる後に、その義始めて全(まった)し。いわゆる効は、なお書を学ぶ者、初めはただ法帖を臨摹(りんも)し、その筆意・点画に効(なら)うことを得るがごとし。いわゆる覚は、なお書を学ぶことすでに久しゅうして、しかる後に、自ずから古人筆を用うるの妙を覚悟するがごとし。一義のよく尽くす所にあらざるなり。集註にいわく、「後覚の者は、必ず先覚のする所を効う」と。また、覚の字の意を含めて在(あ)り。学者多く察せず。]

 

《学は、効で、覚だ。方法を効(なら)うことがあって、覚(さと)り悟るのだ。考えるに、昔の学の字は、つまり今の効の字だ。よって、朱子の『論語集注』によると、「学の言葉は、効だ」。『白虎通義』(中国・後漢の儒学解説書)によると、「学は、覚ることだ。知らないことを覚り悟るのだ」。学の字の読みは、この(効・覚の)2つの意義を兼ねて、その後に、その意義がはじめて完全になる。いわゆる効は、ちょうど書を学ぶ者が、最初はただ手本を見て書き、その筆使い・漢字の点や画(かく)を習得するようなものだ。いわゆる覚は、ちょうど書を学ぶことがすでに長くて、その後に、自ずから昔の人の筆使いの妙技を覚り悟るようなものだ。(学は、)1つの意義を充分に尽くすことがないのだ。『論語集注』によると、「後に覚る者は、必ず先に覚った者のしたことを効う」。また、(学は、)覚の字の意味を含めてある。学ぶ者は、多くを察しない。》

 

※学=効(ならうこと、習)、覚(さとること、悟)

 

 

○2条

・学問当識聖人立教之本旨如何。於是一差、必入于異端。可怕。仏氏専貴性、而不知道徳之為最尊矣。聖人専尊道徳、而存心養性、皆以道徳為之主。夫有充満天地、貫徹古今、自不磨滅之至理、此為仁義礼智之道、又此為仁義礼智之徳。所謂道徳之為最尊者是已。

 

[学問は、まさに聖人教えを立つるの本旨いかんと識(し)るべし。ここにおいて、一たび差(たが)えば、必ず異端に入る。怕(おそ)るべし。仏氏は、もっぱら性を貴(とうと)んで、道徳の最も尊(とうと)しとすることを知らず。聖人は、もっぱら道徳を尊んで、心を存し性を養う、皆、道徳をもってこれが主とす。それ天地に充満し、古今に貫徹し、自ずから磨滅せざるの至理(しり)ある、これを仁義礼智の道とし、またこれを仁義礼智の徳とす。いわゆる道徳の最も尊しとする者、これのみ。]

 

《学問は当然、聖人が教義を確立した本旨をどうにか認識すべきだ。ここ(この認識)において、いったん違えば、必ず異端に入る。恐るべきだ。釈迦は、とりわけ性(仏性)を貴んで、道徳を最も尊いとすることを知らない。聖人は、とりわけ道徳を尊んで、心を存し性を養う(存心養性)、すべて道徳、これが主となる。それには、天地に充満し、古今に貫通し、自ずから磨(す)り減ってなくなる至極の理がある、これを仁義礼智の道とし、また、これを仁義礼智の徳とする。いわゆる道徳を最も尊いとする者は、これ(聖人)だけだ。》

 

※学問=聖人が教えを立てた本旨を識る(聖人が教義を確立した本旨を認識)

 ・釈迦:尊貴=性(仏性)

 ・聖人:尊貴=道徳(至理)→仁義礼智の道・徳

 

・孔子曰、道二。仁与不仁而已矣。孟子曰、仁人之安宅也、義人之正路也。又曰、居天下之広居、立天下之正位、行天下之大道。蓋温和慈愛、含弘容物之謂仁。反之則為残忍刻薄之人。弁別取舎、截然不紊之謂義。反之則為貪冒無恥之人。尊卑貴賤、品節有等之謂礼。反之則為僭差暴慢之人。是非分明、善悪無惑之謂智。反之則為冥然無覚之人。

 

[孔子いわく、「道二つ、仁と不仁とのみ」。孟子いわく、「仁は、人の安宅なり。義は人の正路なり」。またいわく、「天下の広居(こうきょ)に居(お)り、天下の正位に立ち、天下の大道(だいどう)を行う」と。けだし温和・慈愛、含弘物(がんこうもの)を容(い)るる、これを仁という。これに反するときは、すなわち残忍・刻薄の人たり。弁別・取舎、截然(せつぜん)として紊(みだ)れざる、これを義という。これに反するときは、すなわち貪冒(たんぼう)・無恥(むち)の人たり。尊卑・貴賤、品節等ある、これを礼という。これに反するときは、すなわち僭差(せんさ)・暴慢の人たり。是非分明、善悪惑うことなき、これを智という。これに反するときは、すなわち冥然(めいぜん)として覚ることなきの人たり。]

 

《孔子がいう、「道は2つあり、仁と不仁だけだ」(『孟子』7-63)、『孟子』によると、「仁は人の安らかな居宅で、義は人の正しい道路だ」(7-71)、また(『孟子』によると)、「天下の広い居宅に居て、天下の正しい地位に立ち、天下の大きな道を行く」(6-53)。思うに、温和・慈愛で、広く物を包容する、これを仁という。これ(仁)に反するならば、つまり残忍・軽薄の人になる。弁別・取捨を、明確にして乱れない、これを義という。これ(義)に反するならば、つまり欲深く・恥知らずの人になる。尊卑・貴賤で、品格・節度等がある、これを礼という。これ(礼)に反するならば、つまり僭越・横暴で高慢な人になる。是非を明らか分け、善悪に迷うことがない、これを智という。これ(智)に反するならば、つまり暗くて悟ることのない人になる。》

 

※仁義:人・天下

 ・仁=人の安宅(安らかな居宅)、天下の広居(広い居宅)・天下の正位(正しい地位)→外的な存在面

 ・義=人の正路(正しい道路)、天下の大道(大きな道)→内的な言行面

※仁義礼智の正・反

 ・仁:温和、慈愛、含弘容物(広く物を包容) ⇔ 不仁:残忍・刻薄(軽薄)

 ・義:弁別、取捨、截然(明確)、不紊(乱れず) ⇔ 不義:貪冒(欲深い)・無恥(恥知らず)

 ・礼:尊卑、貴賤、品節(品格・節度) ⇔ 無礼:僭差(僭越)・暴慢(横暴・高慢)

 ・智:是非、分明、善悪、無惑(迷わず) ⇔ 無智:冥然(暗い)、無覚(悟れず)

 

・推仁之極、則堯之光被四表、格于上下、是也。推義之極、則禄之以天下弗顧、是也。推礼之極、則天高地下、万物散殊、是也。推智之極、則百世以俟聖人而不惑、是也。徧於人心、準於四海、由此則為人、不由此則禽獣。故聖人立此四者、以為人道之極、而教人由此焉而行之。故易曰、立人之道、曰仁与義。中庸曰、知仁勇三者、天下之達徳也。明之斯為有道之人、得之斯為有徳之人。

 

[仁の極を推すときは、すなわち堯(ぎょう)の四表に光(あら)われ被(およ)び、上下に格(いた)る、これなり。義の極を推すときは、すなわちこれを禄するに天下をもってすれども顧(かえ)りみざる、これなり。礼の極を推すときは、すなわち天高く地下(ひく)く、万物散殊する、これなり。智の極を推すときは、すなわち百世もって聖人を俟(ま)って惑(まど)わざる、これなり。人心に徧(あまね)く、四海に準じ、これに由(よ)るときは、すなわち人たり、これに由らざるときは、すなわち禽獣たり。ゆえに聖人、この四者を立てて、もって人道の極となして、人をしてこれに由って、これを行わしむ。ゆえに易にいわく、「人の道を立つ、いわく仁と義と」。中庸にいわく、「知・仁・勇の三つの者は、天下の達徳なり」。これを明かせば、ここに有道の人たり、これを得れば、ここに有徳の人たり。]

 

《仁の極みを推しはかれば、つまり「尭(古代中国の伝説上の君主)が四方の外に輝き渡り、上下に正し至る」(『書経』)、これだ。義の極みを推しはかれば、つまり「(義なし・道なしで)これ(伊尹/いいん、夏末期・殷初期の政治家)を俸禄するのに天下を与えるといっても顧みない」(『孟子』9-129)、これだ。礼の極みを推しはかれば、つまり「天高く、地低く、万物は分散・互いに異なる」(『礼経』)、これだ。智の極みを推しはかれば、つまり「100世代後に聖人を待っても迷わない」(『中庸』)、これだ。人の心に隅々まで行き渡り、世界に準拠し、これ(仁義礼智)を経由するならば、つまり人になり、これ(仁義礼智)を経由しなければ、つまり鳥獣になる。よって、聖人は、この(仁義礼智の)4つを確立し、それで人道の極みとして、人がこれ(仁義礼智)を経由して、これ(道・徳)を行わせる。よって、『易経』によると、「人の道を確立する、(それを)いえば仁と義だ」。『中庸』によると、「知・仁・勇の3つは、天下の一般的に行われるべき徳だ」。これを明らかにすれば、ここに道のある人になり、これを得れば、ここに徳のある人になる。》

 

※人道の極:仁義礼智のの道・徳(道徳を経由するのは人間、しないのは鳥獣)

 ・仁の極:四方・上下を包括

 ・義の極:天下でさえ顧みず

 ・礼の極:万物に天地・上下・高低の序列ありつつ分散・互いに異なる

 ・智の極:永年にわたって迷わず

 

・蓋人之性有限、而天下之徳無窮。欲以有限之性、而尽無窮之徳、苟不由学問、則雖以天下之聡明不能。故天下莫貴乎学問之功、又莫大於学問之益。而非但可以尽我性、又可以尽人之性、可以尽物之性、可以賛天地之化育、可以与天地並立而参矣。若欲廃学問而専循我性焉、則不翅不能尽人物之性、而賛天地之化育、必也雖我性、亦不能尽矣。

 

[けだし人の性は限りあって、天下の徳は窮まりなし。限りあるの性をもって、窮まりなきの徳を尽くさんと欲せば、いやしくも学問に由らざるときは、すなわち天下の聡明をもってすといえども能(あた)わず。ゆえに天下、学問の功より貴きはなく、また学問の益(えき)より大なるはなし。しかして、ただもって我が性を尽くすべきのみにあらず、またもって人の性を尽くすべく、もって物の性を尽くすべく、もって天地の化育を賛(たす)くべく、もって天地と並び立って参(さん)なるべし。もし学問を廃して、もっぱら我が性に循(したが)わんと欲するときは、すなわち翅(ただ)に人・物の性を尽くして、天地の化育を賛くること能(あた)わざるのみにあらず、必ずや我が性といえども、また尽くすこと能わず。]

 

《思うに、人の性は有限で、天下の徳は無窮(無限)だ。有限な性によって、無窮の徳を尽くそうとすれば、もしも学問を経由しないならば、つまり天下の聡明によってするといってもできない。よって、天下には、学問の力より貴いものはなく、また学問の益より大きいものはない。そして、だたそれで自分の性を尽くすべきだけでなく、またそれで他人の性も尽くすべき、それで物の性も尽くすべきで、それで天下の変化・生育も助けるべきで、それで天地と並び立って3つ(天・地・人)になるべきだ。もし、学問を廃して、とりわけ自分の性にしたがいたいとすれば、つまりただ人・物の性を尽くして、天地の変化・育成を助けることができないだけでなく、必ずわが性といっても、また尽くすることができない。》

 

※学問の功(力)・益:有限な人の性で、無窮(無限)な天下の徳を尽くすために、学問に由る(経由)

※自分の性+他人の性+物の性を尽くす→天地の化育(変化・生育)を助ける→天・地・人の並立

 

・故孟子曰、人之有是四端也、猶其有四体也。凡有四端於我者、知皆拡而充之矣、若火之始然、泉之始達。苟能充之、足以保四海、苟不充之、不足以事父母。所謂足以保四海者、指仁義礼智之効験而言。夫四端之在於我、猶涓涓之泉、星星之火、萠蘖之生。苟拡充之、而成仁義礼智之徳、則猶涓涓之水、可以放海、星星之火、可以燎原、萠蘖之生、可以参雲。故曰、苟得其養、無物不長。苟失其養、無物不消。所謂充、所謂養、即以学問而言。

 

[ゆえに孟子いわく、「人、この四端あるや、なおその四体あるがごとし。およそ我に四端ある者、皆拡(ひろ)めて、これを充(み)たすことを知らば、火の始めて然(も)え、泉の始めて達するがごとくならん。いやしくも、よくこれを充たせば、もって四海を保つに足り、いやしくも、これを充たさざれば、もって父母に事(つか)うるに足らず」。いわゆる「もって四海を保つに足る」者は、仁義礼智の効験を指していう。それ四端の我に在(あ)る、なお涓涓(けんけん)の泉、星星の火、萠蘖(ぼうげつ)の生(せい)のごとし。いやしくも、これを拡充して、仁義礼智の徳を成すときは、すなわちなお涓涓の水、もって海に放るべく、星星の火、もって原を燎(や)くべく、萠蘖の生、もって雲に参(まじ)わるべきがごとし。ゆえにいわく、「いやしくも、その養いを得(う)れば、物として長ぜざることなし。いやしくも、その養いを失えば、物として消ぜざることなし」。いわゆる充、いわゆる養、すなわち学問をもっていう。]

 

《よって、『孟子』によると、「人に(心の)4端があるのは、ちょうどその(人)の身体が4肢あるようなものだ。そもそも私に4端ある者は皆、拡めてこれを満たすことを知れば、火が始めて燃え、泉が始めて発達するようになるだろう。もしも、充分にこれ(4端)を満たせば、それで世界が保つのに足り、もしも、これ(4端)を満たせなければ、それで父母に仕えるのに足りない」(3-29)。いわゆる「それで世界を保つに足りる」は、仁義礼智の効果を指していう。その4端が私にあるのは、ちょうどチョロチョロ湧き出る泉、星々みたいな火、発芽の生命のようだ。もしも、これ(4端)を拡充して、仁義礼智の徳を成就すれば、つまりちょうど、チョロチョロ湧き出る水が、それで海に放流することができ、星々みたいな火が、それで原っぱを焼き払うことができ、発芽の生命が、それで雲に交わることができるようだ。よって(『孟子』で)いう、「もしも、その養いを得れば、物として生長しないことはない。もしも、その養いを失えば、物として消滅しないことはない」(11-148)。いわゆる満たす、いわゆる養うは、つまり学問を(満たす・養うの)いう。》

 

※学問:拡充・養い

 ・人の心の4端を拡充→仁義礼智の徳を成す→四海(世界)を保つ

※存心養性(心を存し性を養う、=存養)

 ・養いを得る→物として生長

 ・養いを失う→物として消滅

 

 

・人性雖善、然不充之、不足以事父母。則性之善、不可恃焉。而学問之功、最不可廃焉。吾故曰、人之性は有限、而天下之徳無窮。欲以有限之性、尽無窮之徳、非由学問、其能之乎。然非性之善、則雖学問之功、亦無所施。故性之善可貴焉、学問之功大矣。是孔子所以不以率性為言、専以学問教人。而孟子所以屡道性善、而以拡充之功為其要也。此聖門立教之本旨也。

 

[人の性、善なりといえども、しかれども、これを充たさざれば、もって父母に事(つか)うるに足らず。すなわち性の善、恃(たの)むべからず。しかして学問の功、最も廃すべからず。吾(われ)ゆえにいわく、「人の性は限りあって、天下の徳は、窮まりなし。限りあるの性をもって、窮まりなきの徳を尽くさんことを欲せば、学問に由るにあらずして、それこれをよくせんや」。しかれども性の善にあらざるときは、すなわち学問の功と雖いえども、また施す所なし。ゆえに性の善、貴むべく、学問の功、大なり。これ孔子、性に率(したが)うをもって言(げん)とせずして、もっぱら学問をもって人に教うるゆえんなり。孟子しばしば性善を道(い)いて、拡充の功をもって、その要とするゆえんなり。これ聖門、教えを立つるの本旨なり。]

 

《人の性は、善だといっても、しかし、これ(4端)を満たせなければ、それで父母に仕えるのに足りない。つまり性の善は、頼ることができない。そして、学問の力は、けっして廃すべきでない。私は、よっていう、「人の性は有限で、天下の徳は無窮(無限)だ。有限な性によって、無窮の徳を尽くそうとすれば、学問を経由しないと、それでこれ(天下)をよくできるのか(いや、できない)。しかし、性が善になければ、つまり学問の力といっても、やはり施すことがない。よって、性の善は貴むべきで、学問の力は大きい。これは、孔子が性にしたがうのを発言しないで、とりわけ学問を人に教える理由だ。孟子は、しばしば性善をいい、拡充の力をその要点とする理由だ。これが聖人門下が、教義を確立する本旨だ。》

 

※天下をよくする=学問+性善

 ・孔子:学問の功(力)

 ・孟子:性善+(4端の)拡充の功

 

 

○3条

・学問以道徳為本、以見聞為用。孔子曰、有顏回者好学、不遷怒、不弐過。可見聖人以修道徳為学問、而非若今人之以道徳為道徳、以学問為学問也。又曰、蓋有不知而作之者。我無是也。多聞択其善者而従之、多見而識之、知之次也。又曰、多聞闕疑、慎言其余、則寡尤。多見闕殆、慎行其余、則寡悔。言寡尤、行寡悔、禄在其中矣。可見以見聞為用、而非若今人之専以靠書冊講義理、為学問之類也。孟子所謂存養拡充之類、皆即是学。先儒云。学兼知行而言。得之矣。

 

[学問、道徳をもって本(もと)とし、見聞をもって用とす。孔子いわく、「顏回(がんかい)という者あり、学を好む。怒りを遷(うつ)さず、過(あやま)ちを弐(ふた)たびせず」。見るべし、聖人、道徳を修むるをもって学問として、今人(きんじん)の道徳をもって道徳とし、学問をもって学問とするがごときにあらざること。またいわく、「けだし知らずして、これを作る者あらん。我はこれなし。多く聞いて、その善なる者を択(えら)んでこれに従い、多く見てこれを識(しる)す、知るの次なり」。またいわく、「多く聞いて疑わしきを闕(か)いて、慎んでその余(あまり)をいうときは、すなわち尤(とが)寡(すく)なし。多く見て殆(あや)うきを闕いて、慎んでその余を行うときは、すなわち悔(くい)寡なし。言(げん)、尤寡なく、行い悔寡なければ、禄(ろく)その中に在(あ)り」と。見るべし、見聞をもって用として、今人のもっぱら書冊に靠(たよ)り、義・理を講ずるをもって、学問とするの類のごときにあらざること。孟子、いわゆる存養・拡充の類、皆すなわちこれ学なり。先儒いう、「学は知・行を兼ねていう」と。これを得たり。]

 

《学問は、道徳を根本とし、見聞を作用とする。孔子が(『論語』で)いう、「顏回(孔子の高弟)という者がいて、学を好む。怒りを出さず、過ちを再びしません」(6-121)。聖人は、道徳を修めるのを学問として、今の人の道徳を道徳とし、学問を学問とするようでないことを、見るべきだ。また、(孔子が『論語』で)いう、「思うに、知らないで、これ(新説)を創作する者もいるだろう。私はこれ(新説)がない。多くを聞いて、そのよいものを選んで、これ(旧説)にしたがい、多くを見て、これ(旧説)を認識するのは、知ることの次だ」(7-174)。また、(孔子が『論語』で)いう、「多くを聞いて疑わしいことを除き、慎重にそれ以外をいえば、つまり過ちが少ない。多くを見て危ういことを除き、慎重にそれ意外を行えば、つまり悔(く)いが少ない。発言に過ちが少なく、行動に悔いが少なければ(よいので)、俸禄はその(言動の)中にある」(2-34)。見聞を作用として、今の人のとりわけ書物に頼り、意義・理を講ずるのを学問とするのと同類のようでないことを、見るべきだ。孟子は、いわゆる存心養性(心を存し性を養うこと)・4端(惻隠・羞悪・辞譲・是非)の心の拡充と同類は、すべてつまり、これが学問だ。先代の儒学者がいう、「学問は智恵と行動を兼ねていう」。これを得たのだ。》

 

※学問=知(智恵)+行(行動):本(根本)=道徳、用(作用)=見聞

 ・孟子学:存心養性(心を存し性を養うこと)、心の4端の拡充

 

 

○4条

・学問之法、予岐而為二。曰血脈、曰意味。血脈者、謂聖賢道統之旨。若孟子所謂仁義之説、是也。意味者、即聖賢書中意味、是也。蓋意味本自血脈中来。故学者当先理会血脈。若不理会血脈、則猶船之無柁、宵之無燭、茫乎不知其所底止。然論先後、則血脈為先、論難易、則意味為難。何者、血脈猶一条路。既得其路程、則千万里之遠、亦可従此而至矣。若意味、則広大周徧、平易従容、自非具眼者、不得識焉。予嘗謂読語孟二書、其法自不同。読孟子者、当先知血脈。而意味自在其中矣。読論語者、当先知其意味。而血脈自在か其中矣。

 

[学問の法、予(よ)岐(わか)って二とす。いわく血脈、いわく意味なり。血脈は、聖賢道統の旨(むね)をいう。孟子のいわゆる仁義の説のごとき、これなり。意味は、すなわち聖賢書中(しょちゅう)の意味、これなり。けだし意味は、もと血脈の中より来たる。ゆえに学者、まさに先ず血脈を理会すべし。もし血脈を理会せざるときは、すなわちなお船の柁なく、宵(よい)の燭(しょく)なきがごとく、茫乎(ぼうこ)として、その底(いた)り止(とど)まる所を知らず。しかれども先後(せんご)を論ずるときは、すなわち血脈を先とし、難易を論ずるときは、すなわち意味を難(かた)しとす。何ぞなれば、血脉はなお一条路のごとし。すでにその路程を得(う)るときは、すなわち千万里の遠き、またこれよりして至るべし。意味のごときは、すなわち広大・周徧(しゅうへん)、平易・従容(しょうよう)、具眼の者にあらざるよりは、識(し)ることを得ず。予かつていう、「語・孟の二書を読む、その法、自ずから同じからず。孟子を読む者は、まさに先ず血脈を知るべし。しかして意味、自ずからその中に在(あ)り。論語を読む者は、まさに先ずその意味を知るべし。しかして血脈、自ずからその中に在り」。]

 

《学問の法は、私が区分すると、2つになる。(1つ目を)いえば血脈で、(2つ目を)いえば意味だ。血脈は、聖人・賢人の道の系統の本旨をいう。孟子のいわゆる仁義の説のようなものは、これだ。意味は、つまり聖人・賢人の書物の中の意味で、これだ。思うに、意味は元々、血脈の中から来ている。よって学ぶ者は当然、まず血脈を理解すべきだ。もし、血脈を理解しないならば、つまりちょうど船にカジがなく、夜にアカリがないようなもので、ぼんやりして、そこに(カジで)至り(アカリで)留まることを知らない。しかし、先・後を論じるならば、つまり血脈を先とし、難・易を論じるならば、つまり意味をむずかしいとする。どうしてかといえば、血脈はちょうど一筋の道のようだ。すでにその道の行程を習得すれば、つまり遥かに離れた遠さも、やはりこれより至ることができる。意味のようなものは、つまり広大で天下に行き渡り、平穏で落ち着き、見識ある者でないならば、認識することができない。私はかつていった、「『論語』・『孟子』の2書を読み、その法は、自ずから同じではないかった。『孟子』を読む者は当然、まず血脈を知るべきだ。そして、意味は、自ずからその中にある。『論語』を読む者は当然、まずその意味を知るべきだ。そして、血脈は、自ずからその中にある」。》

 

※学問の法=血脈+意味

 ・血脈(先、易)=聖賢道統の旨(聖人・賢人の道の系統の本旨)、例)孟子の仁義説

  :一条路(一筋の道)の路程(道の行程)を習得

 ・意味(後、難)=聖賢書中(聖人・賢人の書物の中)の意味

  :広大・周徧(天下に行き渡り)・平易(平穏)・従容(落ち着き)・具眼の(見識ある)者が認識可

※2書

 ・『孟子』を読む:血脈が先、意味が後に知る

 ・『論語』を読む:意味が先、血脈が後に知る

 

 

(つづく)