「論語」読解14~子路第13 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

■子路(しろ)第13:30章

 

(13-303)子路問政。

子曰、「先之、労之。」

請益。

曰、「無倦。」

[子路(しろ)、政(まつりごと)を問う。

子いわく、「これに先んじ、これを労(ねぎら)う。」

益(えき)を請(こ)う。

いわく、「倦(う)むことなかれ。」]

《子路(孔子の弟子)が政治について尋(たず)ねる。

孔子がいう、「これ(人)より率先し、これ(人)を慰労する。」

(子路が)重ねて求める。

(孔子が)いう、「飽きることがないようにせよ。」》

 

(13-304)仲弓為季氏宰、問政。

子曰、「先有司。赦小過。挙賢才。」

曰、「焉知賢才而挙之。」

曰、「挙爾所知。爾所不知、人其舍諸。」

[仲弓(ちゅうきゅう)、季氏(きし)の宰(さい)となり、政(まつりごと)を問う。

子いわく、「先の有司(ゆうし)は、小過(しょうか)を赦(ゆる)して、賢才(けんさい)を挙(あ)げよ。」

いわく、「焉(いずく)んぞ賢才を知りてこれを挙げん。」

いわく、「爾(なんじ)の知る所を挙げよ。爾(なんじ)の知らざる所は、人それこれを舎(す)てんや。」]

《仲弓(孔子の弟子)が季孫氏(春秋時代の魯/ろの公族)の家宰(家政役)になり、政治について尋(たず)ねる。

孔子がいう、「これまでの役人は、小さな過(あやま)ちを許して、優秀な才能を推挙せよ。」

(仲弓が)いう、「どのように優秀な才能を知って、これ(彼)を推挙するのですか。」

(孔子が)いう、「あなたの知っている者を推挙せよ。あなたの知らない者は、人がそのままこれ(彼)を捨て置かないだろう。」》

 

(13-305)子路曰、「衛君待子而為政、子将奚先。」

子曰、「必也正名乎。」

子路曰、「有是哉、子之迂也。奚其正。」

子曰、「野哉、由也。君子於其所不知、蓋闕如也。名不正、則言不順。言不順、則事不成。事不成、則礼楽不興。礼楽不興、則刑罰不中。刑罰不中、則民無所措手足。故君子名之必可言也、言之必可行也。君子於其言、無所苟而已矣。」

[子路(しろ)いわく、「衛の君、子を待(ま)ちて政(まつりごと)をなさば、子まさに奚(なに)をか先にせんとす。」

子いわく、「必ずや名を正さんか。」

子路いわく、「これあるかな、子の迂(う)なるや。奚(なん)ぞそれ正さん。」

子いわく、「野(や)なるかな、由(ゆう)や。君子はその知らさざる所において、蓋(けだ)し闕如(けつじょ)たり。名正しからざれば、すなわち言うこと順(したが)わず。言うこと順(したが)わざれば、すなわち事成(な)らず。事成(な)らざれば、すなわち礼楽興(おこ)らず。礼楽興(おこ)らざれば、すなわち刑罰中(あた)らず。刑罰中(あた)らざれば、すなわち民、手足(しゅそく)を措(お)く所なし。ゆえに君子これを名づくれば、必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子はその言(げん)において、苟(いやし)くもする所なきのみ。」]

《子路(孔子の弟子)がいう、「衛(春秋時代の国)の君主が、孔子(先生)を招待して、政治をするならば、孔子(先生)は何を先にしようとしますか。」

孔子がいう、「必ず名を(実から離れないように)正すだろう。」

子路がいう、「これがありますな、孔子(先生)のまわりくどいのには。どのようにしてそれ(名)を正すのですか。」

孔子がいう、「粗野だな、子路は。君子は、その(自分の)知らないことにおいて、考えてみると、抜け落ちている。名が(実から離れて)正しくなければ、つまり発言が順当にならない。発言が順当にならなければ、つまり仕事が成就しない。仕事が成就しなければ、つまり礼(礼儀)・楽(音楽)が振興しない。礼・楽が振興しなければ、つまり刑罰が適合しない。刑罰が適合しなければ、つまり民が手足を振る舞う場所がない。よって、君子はこれ(実に合ったもの)を名とすれば、必ず発言すべきだ。これを発言すれば、必ず実行すべきだ。(ただし、)君子は、その発言において、軽々しくてはいけないのだ。」》

 

(13-306)樊遅請学稼。

子曰、「吾不如老農。」

請学為圃。

曰、「吾不如老圃。」

樊遅出。

子曰、「小人哉、樊須也。上好礼、則民莫敢不敬。上好義、則民莫敢不服。上好信、則民莫敢不用情。夫如是、則四方之民、襁負其子而至矣、焉用稼。」

[樊遅(はんち)、稼(か)を学ばんと請(こ)う。

子いわく、「吾(わ)れ老農(ろうのう)にしかず。」

圃(ほ)を為(つく)るを学ばんと請(こ)う。

いわく、「吾(わ)れ老圃にしかず。」

樊遅出ず。

子いわく、「小人(しょうじん)かな、樊須(はんす)や。上(かみ)、礼を好めば、すなわち民は敢(あ)えて敬(けい)せざることなし。上(かみ)、義を好めば、すなわち民は敢(あ)えて服(ふく)せざることなり。上(かみ)、信を好めば、すなわち民は敢(あ)えて情を用いざることなし。夫(そ)れ是(かく)のごとくんば、すなわち四方の民は、その子を襁負(きょうふ)して至らん。焉(いずく)んぞ稼(か)を用(もち)いん。」]

《樊遅(孔子の弟子)が穀作を学ぼうと求める。

孔子がいう、「私は長老の穀作民には及ばない(と断る)。」

(樊遅が)畑作を学ぼうと求める。

(孔子が)いう、「私は長老の畑作民には及ばない(と断る)。」

樊遅が退出する。

孔子がいう、「小人(徳のない人)だな、樊遅は。上の者が礼(礼儀)を好めば、つまり民はあえて尊敬しないことがない(尊敬する)。上の者が義(正義)を好めば、つまり民はあえて服従しないことがない(服従する)。上の者が信(信用)を好めば、つまり民はあえて感情が作用しないことがない(作用する)。そもそもこのようにすれば、(国外の)四方の民が、その子供を背負って来るだろう。(為政者なのに、)どうして穀作を行うのか(行わなくてよい)。」》

 

(13-307)子曰、「誦詩三百、授之以政不達。使於四方、不能専対。雖多亦奚以為。」

[子いわく、「詩三百を誦(しょう)し、これに授(さず)くるに政(まつりごと)をもってして達せず。四方に使いして、専(ひと)り対(たい)すること能(あた)わざず。多しといえども、また奚(なに)をもってなさん。」]

《孔子がいう、「詩経300編を読誦し、これ(彼)に授けて政治をさせたが達成できない。(国外の)四方に使いを出したが、1人で対応することができない。(読誦が)多いといっても、やはり何によってそうなるのか。」》

 

(13-308)子曰、「其身正、不令而行。其身不正、雖令不従。」

[子いわく、「その身正しければ、令(れい)せずして行わる。その身正しからざれば、令すといえども従(したが)われず。」]

《孔子がいう、「その(自分の)身を正しくすれば、命令しなくても、実行される。その(自分の)身が正しくなければ、命令しても、服従されない。」》

 

(13-309)子曰、「魯衛之政、兄弟也。」

[子いわく、「魯(ろ)・衛(えい)の政(まつりごと)は、兄弟(けいてい)なり。」]

《孔子がいう、「魯(の国)・衛(の国)の政治は、兄弟(のように似ているの)だ。」》

 

(13-310)子謂衛公子荊、「善居室。始有曰、『苟合矣。』、少有曰、『苟完矣。』、富有曰、『苟美矣。』」

[子、衛の公子荊(こうしけい)を謂(い)う、「善(よ)く室に居(お)る。始めてあるにいわく、『苟(いささ)か合(あつ)まる。』、少しあるにいわく、『苟(いささ)か完(まった)し。』、富(さか)んにあるにいわく、『苟(いささ)か美(よ)し。』」]

《孔子が衛の公子荊(公族)についていう、「よく家を治める。始めて治めていう、『どうにか集めた。』、少し治めていう、『どうにか全(まっと)うした。』、富んで治めていう、『どうにか称(たた)えた。』」》

 

(13-311)子適衛。冉有僕。

子曰、「庶矣哉。」

冉有曰、「既庶矣。又何加焉。」

曰、「富之。」

曰、「既富矣、又何加焉。」

曰、「教之。」

[子、衛に適(ゆ)く。冉有(ぜんゆう)、僕(ぼく)たり。

子いわく、「庶(おお)きかな。」

冉有いわく、「既(すで)に庶(おお)し。また何をか加えん。」

いわく、「これを富(と)まさん。」

いわく、「既に富めり、また何をか加えん。」

いわく、「これを教えん。」]

《孔子が衛(の国)に行く。冉有(孔子の弟子)が付き従う。

孔子がいう、「(衛の人口は)多いな。」

冉有がいう、「すでに多いです。また何を加えましょうか。」

(孔子が)いう、「これ(衛の人)を富ませよう。」

(冉有が)いう、「すでに富ませたら、また何を加えましょうか。」

(孔子が)いう、「これ(衛の人)を教えよう。」》

 

(13-312)子曰、「苟有用我者、期月而已可也、三年有成。」

[子いわく、「苟(いや)しくも我を用うる者あらば、期月(きげつ)のみにして可ならん。三年にして成ることあらん。」]

《孔子がいう、「もし私を利用する者があれば、1年だけあれば可能だろう。3年あれば成し遂げられるだろう。」》

 

(13-313)子曰、「『善人為邦百年、亦可以勝残去殺矣。』、誠哉是言也。」

[子いわく、「『善人(ぜんにん)、邦(くに)を為(おさ)むること百年ならば、またもって残(ざん)に勝ち、殺(さつ)を去るべし。』、誠なるかな、この言(げん)や。」]

《孔子がいう、「『善人が国を治めること100年になれば、やはりそれで残忍に勝ち、殺人をなくすことができる。』とあり、本当だな、この言葉は。」》

 

(13-314)子曰、「如有王者、必世而後仁。」

[子いわく、「もし王者あらば、必ず世(せい)にして後(のち)に仁ならん。」]

《孔子がいう、「もし(天命を受けた)王者がいれば、必ず1世代(30年)後に、仁になるだろう。」》

 

(13-315)子曰、「苟正其身矣、於従政乎何有。不能正其身、如正人何。」

[子いわく、「苟(いや)しくもその身を正しくせば、政(まつりごと)に従(したが)うにおいて何かあらん。その身を正しくする能(あた)わずんば、人を正すをいかんせん。」]

《孔子がいう、「もし、その(自分の)身を正しくすれば、政治に従事するのにおいて、何があるだろうか(何も問題ない)。その(自分の)身を正しくできなければ、人を正すのをどのようにするのか。」》

 

(13-316)冉子退朝。

子曰、「何晏也。」

対曰、「有政。」

子曰、「其事也。如有政、雖不吾以、吾其与聞之。」

[冉子(ぜんし)、朝(ちょう)より退(しりぞ)く。

子いわく、「何ぞ晏(おそ)きや。」

対(こた)えていわく、「政(まつりごと)あり。」

子いわく、「それ事ならん。もし政(まつりごと)あらば、吾(われ)を以(もち)いずといえども、吾(われ)それこれを与(あずか)り聞かん。」]

《冉子(孔子の弟子、冉有)が朝廷から退出する。

孔子がいう、「どうして遅いのか。」

(冉子が)答えていう、「政治がありました。」

孔子がいう、「それは事務だろう。もし政治があれば、私を利用しなくても、私にそこでこれ(政治)に関与するのか聞くだろう。」》

 

(13-317)定公問、「一言而可以興邦、有諸。」

孔子対曰、「言不可以若是其幾也。人之言曰、『為君難、為臣不易』、如知為君之難也、不幾乎一言而興邦乎。」

曰、「一言而喪邦、有諸。」

孔子対曰、「言不可以若是其幾也。人之言曰、『予無楽乎為君。唯其言而莫予違也。』、如其善而莫之違也、不亦善乎。如不善而莫之違也、不幾乎一言而喪邦乎。」

[定公(ていこう)問う、「一言(いちげん)にして、もって邦(くに)を興(おこ)すべきもの、これあるか。」

孔子対(こた)えていわく、「言(げん)はもって、かくのごとくなるべからざるも、それ幾(ちか)きなり。人の言(げん)にいわく、『君たること難(かた)く、臣たること易(やす)からず。』、もし君たることの難(かた)きを知らば、一言(いちげん)にして、邦(くに)を興(おこ)すに幾(ちか)からずや。」

いわく、「一言(いちげん)にして邦(くに)を喪(ほろ)ぼすもの、これありや。」

孔子対(こた)えていわく、「言(げん)はもって、かくのごとくなるべからざるも、それ幾(ちか)きなり。人の言(げん)にいわく、『予(わ)れ君たることを楽しむことなし。唯(た)だそれ言いて予(わ)れに違(たが)うことなきなり。』、もしそれ善(ぜん)にして、これに違(たが)うことなきや、また善(よ)からずや。もし不善にして、これに違(たが)うことなきや、一言(いちげん)にして、邦(くに)を喪(ほろ)ぼすに幾(ちか)からずや。」]

《定公(春秋時代の魯/ろの26代君主)が尋(たず)ねる、「一言(ひとこと)によって、国を興こせるものが、あるだろうか。」

孔子が答えていう、「言葉によって、そのようにならなくても、それに近いものがあります。人の言葉によると、『君主であるのはむずかしく、臣下であるのはやさしくない。』とあり、もし君主であるのがむずかしいと知れば、一言(ひとこと)によって、国を興こすのに近くないのでしょうか(いや、近いです)。」

(定公が)いう、「一言(ひとこと)によって、国を亡(ほろ)ぼすものが、あるだろうか。」

孔子が答えていう、「言葉によって、そのようにならなくても、それに近いものがあります。人の言葉によると、『私は君主であるのを楽しむことはない。ただ、それをいって、私に背(そむ)くことがないのだ。』とあり、もし、それがよいことで、これ(私)に背くことがなければ、やはりよくないことがあるでしょうか(いや、よいです)。(しかし、)もし、よくないことで、これ(私)に背くことがなければ、一言(ひとこと)によって、国を亡(ほろ)ぼすのに近くないのでしょうか(いや、近いです)。」》

 

(13-318)葉公問政。

子曰、「近者説、遠者来。」

[葉公(しょうこう)、政(まつりごと)を問う。

子いわく、「近き者説(よろこ)べば、遠き者来(き)たる。」]

《葉公(春秋時代の楚/その長官)が政治について尋(たず)ねる。

孔子がいう、「(国内の)近くの者が喜べば、(国外の)遠くの者が来ます。」》

 

(13-319)子夏為莒父宰、問政。

子曰、「無欲速。無見小利。欲速、則不達。見小利、則大事不成。」

[子夏(しか)、莒父(きよほ)の宰(さい)となり、政(まつりごと)を問う。

子いわく、「速(すみや)かなるを欲(ほっ)するなかれ。小利(しょうり)を見るなかれ。速(すみや)かなるを欲せば、すなわち達せず。小利を見れば、すなわち大事成らず。」]

《子夏(孔子の弟子)が(魯の国の)莒父(の町)の長官になり、政治について尋(たず)ねる。

孔子がいう、「速やかにしようとするな。小さな利益を見るな。速やかにしようとすれば、つまり達成できない。小さな利益を見れば、つまり大きな仕事が成就しない。」》

 

(13-320)葉公語孔子曰、「吾党有直躬者。其父攘羊、而子証之。」

孔子曰、「吾党之直者異於是。父為子隠、子為父隠。直在其中矣。」

[葉公(しょうこう)、孔子に語りていわく、「吾(わ)が党(とう)に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。その父、羊を攘(ぬす)みて、しかして子これを証(あら)わせり。」

孔子いわく、「吾(わ)が党(とう)の直(なお)き者は、これに異なり。父は子のために隠し、子は父のために隠す。直(なお)きことその中(うち)に在(あ)り。」]

《葉公(春秋時代の楚/その長官)が孔子に語っていう、「私の村には正直な身の者がいる。その父はヒツジを盗んだ時に、その子(正直な身の者)がこれ(盗み)を証言した。」

孔子がいう、「私の村の正直な者は、これと異なります。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直はその中にあります。」》

 

※直躬証父

 

(13-321)樊遅問仁。

子曰、「居処恭、執事敬、与人忠。雖之夷狄、不可棄也。」

[樊遅(はんち)、仁を問う。

子いわく、「居処(きょしょ)するに恭(うやうや)しく、事を執(と)るに敬(つつ)しみ、人に与(くみ)して忠ならば、夷狄(いてき)に之(ゆ)くといえども、棄(す)つべからざるなり。」]

《樊遅(孔子の弟子)が仁について尋(たず)ねる。

孔子がいう、「家にいる時には恭順で、仕事を執行する時には尊敬し、人に関与する時には忠(忠誠)であるのは、野蛮な土地に行っても、放棄すべきではないのだ。」》

 

(13-322)子貢問曰、「何如斯可謂之士矣。」

子曰、「行己有恥。使於四方、不辱君命、可謂士矣。」

曰、「敢問其次。」

曰、「宗族称孝焉、郷党称弟焉。」

曰、「敢問其次。」

曰、「言必信、行必果、硜硜然、小人哉。抑亦可以為次矣。」

曰、「今之従政者何如。」

子曰、「噫、斗筲之人、何足算也。」

[子貢(しこう)問うていわく、「いかなれば、ここにこれを士(し)と謂(い)うべきか。」

子いわく、「己(おのれ)を行うに恥あり。四方に使いして、君命を辱(はずか)しめざるを、士と謂うべし。」

いわく、「敢(あえ)てその次を問う。」

いわく、「宗族(そうぞく)は孝を称(しょう)し、郷党(きょうとう)は弟(てい)を称す。」

いわく、「敢(あえ)てその次を問う。」

いわく、「言うこと必ず信、行うこと必ず果、硜硜(こうこう)然(ぜん)として小人(しょうじん)なるかな。抑(そもそ)もまた、もって次となすべし。」

いわく、「今の政(まつりごと)に従(したが)う者はいかん。」

子いわく、「ああ、斗筲(としょう)の人、何ぞ算(かぞ)うるに足らんや。」]

《子貢(孔子の弟子)が尋(たず)ねていう、「どのようになれば、それでこれを士(下級官)といえるのですか。」

孔子がいう、「自己を行動するのには恥がある。(国外の)四方に使いを出して、君主の命令を恥ずかしくさせないのを、士というべきだ。」

(子貢が)いう、「あえてその次を尋(たず)ねます。」

(孔子が)いう、「宗族(父系の同族)は孝(親に孝行)を称賛し、郷里は弟(悌、上の者に従順)を称賛する。」

(子貢が)いう、「あえてその次を尋(たず)ねます。」

(孔子が)いう、「発言は必ず信(信用)、実行は必ず成果(が必要)だが、堅物(かたぶつ)でいて、小人(庶民)だな。それでもやはり、次があるだろう。」

(子貢が)いう、「今の政治に従事している者は、どうでしょうか。」

孔子がいう、「ああ、器量の小さい人で、どうして(器量を)数えるのに足りるのか(いや、足りない)。」》

 

(13-323)子曰、「不得中行而与之、必也狂狷乎。狂者進取、狷者有所不為也。」

[子いわく、「中行(ちゅうこう)を得て、これに与(くみ)せずんば、必ずや狂(きょう)・狷(けん)か。狂なる者は、進んで取り、狷なる者は、なさざる所あるなり。」]

《孔子がいう、「中庸の道を得て、これ(中庸の道の者)と仲間にならないとすれば、必ず熱狂か頑固か(と仲間になるの)だ。熱狂する者は、進んで取り組み、頑固な者は、しないことがあるのだ。」》

 

(13-324)子曰、「南人有言曰、『人而無恒、不可以作巫医』、善夫。『不恒其徳、或承之羞。』」

子曰、「不占而已矣。」

[子いわく、「南人(なんじん)言えることあり、いわく、『人にして恒(つね)なければ、もって巫医(ふい)を作(な)すべからず。』、善(よ)いかな、『その徳を恒にせざれば、あるいはこれに羞(はじ)を承(すす)む。』」

子いわく、「占(うらな)わざるのみ。」]

《孔子がいう、「南方の人の言葉によると、『人として不変でない(変動する)ならば、それで巫女(みこ)・医者になってはいけない。』とあり、よいな。『その徳(徳行)を不変にしなけ(変動す)れば、これで恥をかいてしまうこともある。』」

孔子がいう、「(不変な人は、)占わないのだ。」》

 

(13-325)子曰、「君子和而不同。小人同而不和。」

[子いわく、「君子は和(わ)して同(どう)せず。小人(しょうじん)は同して和せず。」]

《孔子がいう、「君子(立派な人)は、調和しても同調しない。小人(庶民)は、同調しても調和しない。」》

 

(13-326)子貢問曰、「郷人皆好之、何如。」

子曰、「未可也。」

「郷人皆悪之、何如。」

子曰、「未可也。不如郷人之善者好之、其不善者悪之。」

[子貢(こうし)問うていわく、「郷人(きょうじん)皆、これを好(この)まば、いかん。」

子いわく、「未だ可ならざるなり。」

「郷人(きょうじん)皆、これを悪(にく)まば、いかん。」

子いわく、「未だ可ならざるなり。郷人の善(よ)き者、これを好み、その善(よ)からざる者、これを悪(にく)むにしかず。」]

《子貢(孔子の弟子)が尋(たず)ねていう、「村人は皆、これ(彼)を好めば、どうですか。」

孔子がいう、「まだよくないのだ。」

(子貢がいう、)「村人が皆、これ(彼)を憎めば、どうですか。」

孔子がいう、「まだよくないのだ。村人のよい者が、これ(彼)を好み、その(村人の)よくない者が、これ(彼)を憎むのには及ばない。」》

 

(13-327)子曰、「君子易事而難説也。説之不以道、不説也。及其使人也、器之。小人難事而易説也。説之雖不以道、説也。及其使人也、求備焉。」

[子いわく、「君子は事(つか)え易(やす)くして、説(よろこ)ばし難(がた)きなり。これを説(よろこ)ばすに、道をもってせざれば、説(よろこ)ばざるなり。その人を使うに及びてや、これを器(うつわ)にす。小人(しょうじん)は事(つか)え難(がた)くして、説(よろこ)ばし易(やす)きなり。これを説(よろこ)ばすに、道をもってせずといえども、説(よろこ)ぶなり。その人を使うに及びてや、備わらんことを求む。」]

《孔子がいう、「君子(立派な人)は、仕えやすくて、喜ばしにくいのだ。これ(君子)を喜ばすのに、道によってしなければ、喜ばないのだ。その(仕える)人を使う際には、これ(人)を器量に応じる。小人(徳のない人)は、仕えにくくて、喜ばしやすいのだ。これ(小人)を喜ばすのに、道によってしなくても、喜ぶのだ。その(仕える)人を使う際には、(無理な能力を)備わっているのを求める。」》

 

(13-328)子曰、「君子泰而不驕。小人驕而不泰。」

[子いわく、「君子は泰(やす)くして驕(おご)らず。小人(しょうじん)は驕(おご)りて泰(やす)からず。」]

《孔子がいう、「君子(立派な人)は、安らかで威張らない。小人(徳のない人)は、威張って安らかでない。」》

 

(13-329)子曰、「剛毅木訥、近仁。」

[子いわく、「剛(ごう)・毅(き)・木(ぼく)・訥(とつ)なるは、仁に近し。」]

《孔子がいう、「剛毅(意志が堅く強い)・朴訥(素朴で口下手)なのは、仁(仁徳)に近い。」》

 

※剛毅木訥

 

(13-330)子路問曰、「何如斯可謂之士矣。」

子曰、「切切偲偲、怡怡如也、可謂士矣。朋友切切偲偲、兄弟怡怡。」

[子路(しろ)問うていわく、「いかなれば、これにこれを士(し)と謂(い)うべきか。」

子いわく、「切切偲偲(せつせつしし)、怡怡(いい)如(じょ)たらば、士と謂うべきなり。朋友(ほうゆう)には切切偲偲たり、兄弟には怡怡たり。」]

《子路(孔子の弟子)が尋(たず)ねていう、「どんなのが、それでこれを士(下級官)といえるのですか。

孔子がいう、「切磋琢磨して、喜び楽しむようにするのが、士といえるのだ。友人とは、切磋琢磨し、兄弟とは、喜び楽しむのだ。」》

 

※切切偲偲

 

(13-331)子曰、「善人教民七年、亦可以即戎矣。」

[子いわく、「善人が民を教(おし)うること七年ならば、またもって戎(じゅう)に即(つ)かしむべし。」]

《孔子がいう、「善人が民を教えて7年になれば、やはりそれで戦争に就かせることができる。」》

 

(13-332)子曰、「以不教民戦、是謂棄之。」

[子いわく、「教(おし)えざる民をもって戦うは、これ、これを棄(す)つと謂(い)う。」]

《孔子がいう、「教えない民で戦うのは、それこそ、これ(民)を棄てるということだ。」》

 

(つづく)