筑紫政権から大和政権へ14~銅鏡の価値 | ejiratsu-blog

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(つづき)
 
 
■銅鏡の価値
 
 銅鏡は、中国では、有力者が、生前に鏡として使用したものを、死後に墓に副葬されましたが、皇帝等への最高の副葬品は、玉璧(ぎょくへき)や金銀で、それらは、とても高価なので、銅鏡が利用されました。
 生前には、役人出世・商売繁盛・不老長寿・子孫繁栄等、死後には、黄泉(よみ、地下)の世界を照らし、悪霊から死者を護る、効用があるとされていました。
 
 まず、銅鏡の鋳造元は、中国製と日本(仿/ぼう)製があり、日本製は、一般に、中国製より格下ですが、平原(ひらばる)遺跡1号墓(福岡県糸島市、方形周溝墓)出土の仿製内行花文鏡4面は、直径約47cmと巨大なので、例外もみられます。
 中国製は、次のように、前漢(紀元前206~8年)・新(8~23年、王莽/おうもう)・後漢(25~220年)の時代を、50年前後ごとで7期に区分、魏(220~265年)・晋(西晋265~316年・東晋317~420年)の時代を、8期とし、分類されています(岡村秀典氏)。
 なお、銅鏡は、製造されれば、すぐに副葬されるわけでなく、所有者が死去しても、子孫に代々愛玩されることもあるので(伝世/でんせい)、銅鏡の製造年代は、古墳の造営年代に直結しませんが、それ以降の造営だというのは確実です。
 
・漢鏡1期:紀元前2世紀前半(前漢前期)
・漢鏡2期:前2世紀後半(前漢中期前半)
・漢鏡3期:前1世紀前半~半ば(前漢中期後半~後期前半) → 第1次高地性集落(紀元前1世紀後半~)
・漢鏡4期:前1世紀後葉~1世紀初め(前漢末期、新) → 第1次高地性集落(~1世紀前半)
・漢鏡5期:1世紀半ば~後半(後漢前期) → 第2次高地性集落(1世紀後半~)
・漢鏡6期:2世紀前半(後漢中期)
・漢鏡7期:2世紀後半~3世紀初め(後漢後期)
 ‐第1段階:2世紀半ば
 ‐第2段階:2世紀後葉 → 第2次高地性集落(~2世紀)
 ‐第3段階:3世紀初め → 第3次高地性集落(3世紀)
・魏晋鏡8期:3世紀前半以降(三国時代・西晋・東晋) → 第3次高地性集落(3世紀)
 
 中国の銅鏡工房は、前漢の時代には、皇帝・王侯貴族用に美術工芸品として製造する官営工房と、一般庶民用に日用品として製造する民間工房の銅鏡があり、官営工房は、製品を王朝に上納するだけで成り立っており、民間工房は、市場に流通させていました。
 それが、後漢の時代には、王朝交代の混乱で、しだいに官営工房が整理・縮小されて民営化するようになると、鏡工が自立しなければならず、かれらの製品も、市場に流通するようになりました。
 ただし、後漢鏡は、鏡工が自立しても、官営工房の作としたり、別の工房で製造しても、名門工房の作とすることもあるので、注意が必要です(魏晋鏡でも、乱用されています)。
 官営だった工房の銅鏡を商品として販売するには、中国の下級役人の給料でも、日用品として購入可能な値段にしなければならず、そのためには、図柄が模倣・簡略化され、外注・下請も活発化したので、前漢鏡(1~4期)より後漢鏡(5~7期)のほうが、古い鏡より新しい鏡のほうが、格下です。
 弥生終末期(239年)に、魏(三国)の皇帝が倭の卑弥呼に、朝貢の返礼品として贈呈された銅鏡100枚は、王朝が民間工房に発注し、製作させたものなので、現在まで市場に流通した銅鏡と判別がついていません。
 三角縁神獣鏡は、日本で500面以上も出土している一方、中国で1面も出土していないので、魏・晋の時代に、日本への輸出専用に大量生産されたもので、鋳造地が中国か日本かは不明で、それとは別に日本(仿)製もありますが、いずれにせよ、大量生産品は、格下とみるべきです。
 
 つぎに、銅鏡の大きさは、直径約20cm以上の大型、直径16cm前後の中型、直径約10cm以下の小型に、便宜上分けられています。
 前漢の時代の中国では、皇帝から特別に贈呈される大型鏡は、王侯クラスの墓から出土し、市場で広範に流通している中型鏡は、中級役人クラスの墓から出土しますが、いずれの場合も、普段の姿見用なので、せいぜい2~3面です。
 日本輸出専用の三角縁神獣鏡は、直径20cm以上と大型ですが、粗末品で、これは、日本で大きい銅鏡が好まれていたからで、数十面副葬されていることもあり、その場合には、被葬者が生前に大切にしていたものか、死後に調達したものか、区別すべきです。
 そもそも、中国の市場に流通しているということは、天皇も豪族達も交易で購入できるので、副葬品の銅鏡の入手は、被葬者が権威を示そうとしたのか、参列者が風習で捧げたのか、どちらの可能性もあります。
 
 銅鏡の日本列島への流入は、前漢が朝鮮半島に楽浪郡を設置した紀元前108年以降で、公孫氏が遼東太守(郡長官)に任命されたのが189年、楽浪郡を配下とし、その南部に帯方郡を設置したのが204年、魏が楽浪+帯方郡を接収したのが238年で、高句麗が楽浪+帯方郡を奪取したのが313年です。
 よって、漢鏡1期は、楽浪郡の設置前なので、ほとんど日本列島に流入しておらず、漢鏡2・3期は、大半が九州北部、漢鏡4~7期の分布は、次に示す通りです(7期は、3段階に区分されています)。
 
   ▽漢鏡4~6期
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○漢鏡4期(紀元前1世紀後葉~1世紀初め)

・井原鑓溝遺跡(福岡県糸島市井原):1世紀初め~前半、1号甕棺、方格規矩四神鏡18(径13~18cm)
・平原(ひらばる)遺跡(糸島市平原):1世紀初め~前半、1号方形周溝墓・18×14m、虺(き)竜文鏡1・方格規矩四神鏡1
・桜馬場遺跡(佐賀県唐津市桜馬場):1世紀初め~前半、甕棺、方格規矩四神鏡2(径23・15cm)
 
○漢鏡5期(1世紀半ば~後半)
・平原遺跡(同上):2世紀半ば、内行花文鏡1・方格規矩四神鏡31、他・仿製内行花文鏡5(径47cm4、径27cm1)
・宮原(みやばる)遺跡(福岡県香春町宮原):1世紀後半~2世紀、3号石棺墓、内行花文鏡2(径20・12cm)
・飯氏馬場遺跡(福岡市西区飯氏):2世紀前半、7・8号甕棺墓、7号墓に内行花文鏡1・8号墓に船載鏡片、他・仿製内行花文鏡
~~~伝世~~~
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m、方格規矩四神鏡1・内行花文鏡1、他・仿製三角縁神獣鏡8
・椿井(つばい)大塚山古墳(京都府木津川市山城町):3世紀後半~終り・前方後円墳・全長175m、内行花文鏡2(径28cm1)
・小泉大塚古墳(奈良県大和郡山市小泉町):3世紀終り・前方後円墳・全長90m、内行花文鏡2
・大和天神山古墳(奈良県天理市柳本町):3世紀終り~4世紀前半・前方後円墳・全長113m、方格規矩四神鏡6・内行花文鏡4
・メスリ山古墳(奈良県桜井市高田):4世紀初め・前方後円墳・全長224m、内行花文鏡2、他・三角縁神獣鏡
 
○漢鏡6期(2世紀前半)
・長法寺南原古墳(京都府長岡京市長法寺南原):4世紀後半・前方後方墳・全長60m、内行花文鏡1(径13cm)・平縁盤龍鏡1(径12cm)、他・三角縁神獣鏡4
 
 上記の伝世ラインより上の遺跡は、銅鏡の製造年代と古墳の造営年代が接近しているので、銅鏡の所有者に副葬されたとみられます。
 一方、ラインより下の古墳は、3世紀終り~4世紀に造営されましたが、銅鏡は、漢鏡5・6期(1世紀半ば~2世紀前半)なので、約200年の差があり、漢鏡5・6期は、第2次高地性集落が近畿に多数あり、近畿が九州北部+中国・四国の瀬戸内海沿岸と緊張関係にあった時期です。
 なので、近畿の銅鏡入手は、瀬戸内海側ルートからだと困難なので、日本海側ルートがあったか、被葬者が漢鏡5・6期の入手容易な地域から移住したかの、いずれかになります。
 
   ▽漢鏡7期(第1~3段階)
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○漢鏡7期・第1段階(2世紀半ば)
・小泉大塚古墳(同上):3世紀終り、画文帯神獣鏡1・獣帯鏡1、他・仿製内行花文鏡1・仿製獣首鏡1
・大和天神山古墳(同上):3世紀終り~4世紀前半、画像鏡2・獣帯鏡1
・桜井(外山/とび)茶臼山古墳(桜井市外山):4世紀初め・前方後円墳・全長207m、獣帯鏡1・平縁神獣鏡1
・黒石5号墳(奈良県広陵町大塚):馬見古墳群・黒石古墳群、3世紀・前方後方墳・全長54m、画像鏡1・五獣形鏡1
・ヘボソ塚古墳(兵庫県神戸市東灘区岡本):4世紀・前方後円墳・全長63m、獣帯鏡1・夔(き)鳳鏡1、他・画文帯神獣鏡2・三角縁神獣鏡2
 
○漢鏡7期・第2段階(2世紀後葉)
・大和天神山古墳(同上):3世紀終り~4世紀前半、画文帯神獣鏡4、他・仿製獣形鏡3・仿製斜縁変形神獣鏡2・仿製人物鳥獣文鏡1
・桜井茶臼山古墳(同上):4世紀初め、画文帯神獣鏡4、他・内行花文鏡3・方格規矩四神鏡1・斜縁神獣鏡1・三角縁神獣鏡6
・新山(しんやま)古墳(奈良県広陵町大塚):4世紀前半・前方後方墳・全長126m、画文帯神獣鏡3(径13・13・15cm)、他・直弧文鏡3・内行花文鏡15・変形方格規矩鏡4・三角縁神獣鏡8・三角縁仏獣鏡1・仿製鼉(だ)龍鏡1
・和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市上代町):4世紀終り・前方後円墳・全長94m、画文帯神獣鏡3、他・三角縁盤龍鏡1・半三角縁神獣鏡1
・西求女塚(にしもとめづか)古墳(兵庫県神戸市):3世紀後半・前方後方墳・全長98m、画文帯神獣鏡2、他・神人龍虎画像鏡1・半肉彫獣帯鏡2・三角縁神獣鏡7
・雨滝山奥14号墳(香川県さぬき市寒川町奥):奥古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長32m、画文帯環状乳神獣鏡2(径13・14cm)
 
○漢鏡7期・第3段階(3世紀初め)
・五島山古墳(福岡市西区姪浜町):4世紀・円墳、斜縁神獣鏡2(径12・14cm)
・免ヶ平古墳(大分県宇佐市高森):川部・高森古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長51m、斜縁神獣鏡2、他・三角縁神獣鏡1
・佐味田(さみた)宝塚古墳(奈良県河合町佐味田):4世紀終り~5世紀初め・前方後円墳・全長112m、斜縁神獣鏡1・変形方格規矩獣文鏡1、他・三角縁神獣鏡片・家屋文鏡
・津堂城山古墳(大阪府藤井寺市津堂):古市古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長208m、斜縁神獣鏡2(径18cm)、他・変形神獣鏡1・変形龍虎鏡2
 
 また、漢鏡2~7期の地域別出土数は、下図のようです。
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 九州の漢鏡3期(前1世紀前半~半ば)と、楽浪郡・九州以東の漢鏡7期(2世紀後半~3世紀初め)を、除外すれば、3地域とも、漢鏡5期(1世紀半ば~後半)がピークです。
 57年に倭奴国王が、107年に倭国王が、後漢へ朝貢したのは、おおむね漢鏡5期で、銅鏡数は、それ以前には徐々に増加し、それ以後には後漢の衰退で(184年・黄巾の乱)徐々に減少しました。
 九州北部で漢鏡3期が急増したのは、紀元前108年に楽浪郡が設置され、前漢への朝貢が活発化したからで、大型の前漢鏡は、市場に流通しておらず、皇帝が特別に贈呈し、首長墓1人に数枚が副葬され、中小型の前漢鏡は、首長が朝貢か交易で入手し、各地区の有力者に配布したのでしょう。
 また、楽浪郡で漢鏡7期が急増したのは、公孫氏が配下とし、安定させたからですが、一時期のブームで急減しています。
 さらに、九州以東で漢鏡7期が急増したのは、九州~中国・四国の瀬戸内海沿岸(山陽西部以外)~近畿の高地性集落が消滅しており(第3次)、西日本が安定したからで、第1段階(2世紀半ば)には、西日本で銅鏡は、広範に分布しています。
 それが、漢鏡7期の第2・3段階には、大和中心に分布するようになりましたが、銅鏡は、すでに商品化されているのに、大和の天皇が戦争による平定もせず、全国の諸豪族に銅鏡を配布するようになり、服属させたとするのは、大変疑問です。
 中国大陸で、北半分が戦乱で弱体化したのが、4世紀初めから(五胡十六国+東晋)、朝鮮半島で、高句麗が南下したのは、4世紀後半からで、倭が、伽耶諸国での鉄資源確保のため、朝鮮半島へ渡海し、百済・新羅の領土で高句麗と度々交戦するようになったのは、4世紀終り~5世紀初めからです。
 したがって、外圧もなく、古墳出現期の3世紀後半から、大和政権が筑紫政権より優位になったとするのは、到底納得できません。
 九州北部では、後漢の衰退により、威信財としての役割が低下し、銅鏡の流行が過ぎ去った一方、畿内では、大型の前方後円(方)墳と銅鏡の副葬がセットで流行しはじめたので、九州北部が大量生産された銅鏡を調達し、商売目的で加担するようになったのではないでしょうか。
 漢鏡7期や魏晋鏡8期は、副葬される銅鏡の価値が、質から量へと変化した時代なので、それらを同列に取り扱うこと自体に無理があります。
 
(つづく)