「宋書倭国伝」読解2~武 | ejiratsu-blog

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(つづき)
 
○興→武(興の弟)
・興死弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
[興死して弟武立ち、自ら使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。]
《興が死去し、弟の武が擁立され、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。》
 
○478年:宋(南朝)の順帝(8代)-倭の武
・順帝昇明二年、遣使上表。曰、封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人、五十五國、西服衆夷、六十六國、渡平海北、九十五國。王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道遙百濟、裝治船舫。
[順帝の昇明二年、使を遣わして表を上(たてまつ)る。いわく、「封国(ほうこく)は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を擐(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。累葉(るいよう)朝宗して歳に愆(あやま)らず。臣、下愚(かぐ)なりといえども、忝(かたじけ)なくも先緒を胤(つ)ぎ、統(す)ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙(へ)て、船舫(せんぼう)を装治す。]
《順帝の時代の478(昇明2)年に、使者を派遣し、上表文を献上した。そこでいう、「分け与えられた国土は辺境・遠方で、領地が海外にあります。昔から祖先の祢(でい)自身が、鎧(よろい)・兜(かぶと)を身につけ、山・川を歩き回り、安住する余裕はありませんでした。東は蝦夷(えみし)を征服すること55ヶ国、西は外敵を征服すること66ヶ国、北は渡海して平定すること95ヶ国。皇帝の仁徳による統治は、和らぎ安らかに、領土を拡大し、都をはるか彼方にしています。代々、(倭国王が)皇帝に拝謁する際、時期を誤って行くことはありませんでした。臣(の武)は、とても愚かですが、ありがたくも先人の王位を継承、支配地を統率し、中国王室を崇敬、その道は百済を経由し、船団を整備しています。》
 
・而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隸、虔劉不已。毎致稽滯、以失良風、雖曰進路、或通或不。臣亡考濟、實忿寇讐壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大擧、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。
[しかるに句驪、無道にして、図りて見呑(けんどん)を欲し、辺隷(へんれい)を掠抄(りゃくしょう)し、虔劉(けんりゅう)して已(や)まず。毎(つね)に稽滞(けいたい)を致し、もって良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じ、あるいは不(しか)らず。臣が亡考済、実に寇讐(こうしゅう)の天路を壅塞(ようそく)するを忿(いか)り、控弦(こうげん)百万、義声に感激し、方(まさ)に大挙せんと欲せしも、奄(にわ)かに父兄を喪(うしな)い、垂成の功をして一簣(き)を獲ざらしむ。居(むな)しく諒闇にあり、兵甲を動かさず。]
《それなのに、高句麗は非道で、意図して不安定な状況にし、辺境の属民を奪い取り、無理に殺して止めません。いつも(中国への航路で)延滞させられ、良風を失い、航路を進もうとしても、時には通れ、時には通れませんでした。臣(私)の亡父の済は、敵(の高句麗)が中国への航路を邪魔するのに、大変激怒し、弓矢の兵士100万人が、その正義の声に感激し、まさに大挙して攻撃しようとしましたが、突然に父と兄が死去してしまい、作戦成功が今一歩のところで達成できませんでした。むなしく喪中になり、軍隊を動かさずにおります。》
 
・是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志。義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆載、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。
[これをもって、偃息(えんそく)して未だ捷(か)たざりき。今に至りて、甲を練り、兵を治め、父兄の志を申(の)べんと欲す。義士虎賁(こほん)文武功を効(いた)し、白刃(はくじん)前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴(ふくさい)をもって、この彊敵(きょうてき)を摧(くじ)き、克(よ)く方難を靖(やす)んぜば、前功を替えることなけん。]
《この休息が原因で、いまだに勝利できていません。現在では、武器を整備、兵士を訓練し、父と兄の遺志を申し伝えたいのです。義士・勇士は、文武で手柄を立てようとし、抜かれた刀が眼前で交わっても、顧みることはありません。もし、皇帝の徳が覆い被さって、この強敵(高句麗)を打ち破り、この方角の災難をうまく取り払えれば、前の手柄に匹敵するでしょう。》
 
・竊自假開府儀同三司、其餘咸假授、以勸忠節。詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。
[窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸(み)な仮授して、もって忠節を勧む」と。詔して武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。]
《こっそりと自分を開府儀同三司(最高位の爵号)に任命し、その他(の臣下達)にも皆、(爵号を)授与すれば、忠節を率先します」と。(宋の順帝は、)命令し、武を、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に任命した。》
 
[参考]「宋書」本紀第10(巻10):宋(南朝)の順帝(8代)-倭国王の武
・昇明二年五月戊午:倭国王武、遣使して方物を献ず。武をもって安東大将軍となす。
《478(昇明2)年5月:倭国王の武が、使者を派遣し、地方の産物を献上した。武が、安東大将軍に任命された。》
 
※開府儀同三司
 中国から開府を許可された者で、宋が承認したのは、仇池(きゅうち、420年)・北涼(421年)・吐谷渾(とよくこん、454年、3ヶ国はいずれも中国・西北地域)・高句麗(463年)の4ヶ国のみで、中国北朝・北魏の周辺国の、宋+4ヶ国が包囲する格好にしたかったため、圏外の倭は、対象外です。
 ただし、高句麗は、461年に北魏とも朝貢しはじめると、465年から頻繁になっており(1年に2度も3回あります)、背後の北魏を警戒・友好しつつ、南下政策を推進しました。
 
 
[参考]「南斉書」列伝第39・蛮・東南夷(巻39):南斉の高帝(初代)-倭の武
・倭国、帯方の東南の大海島中にあり。漢末以来、女王立つる。土俗己(すで)に前史に見ゆ。建元元年、進みて新たに使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓(・慕韓)六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除して号して鎮東大将軍となす。
《倭国は、帯方郡の東南、大海の島の中にある。後漢末期から、女王が擁立された。土地の習俗は、すでに前史にあるので、それを参照せよ。479(建元元)年に、(南斉の高帝が、)使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓(・慕韓)六国諸軍事、安東大将軍の倭王武を、鎮東大将軍に昇進させた。》
 
[参考]「梁書」列伝第48・諸夷(巻48)倭(通称、「梁書倭伝」)
・晋安帝の時、倭王賛あり。賛死して、弟弥立つ。弥死し、子済立つ。済死し、子興立つ。興死し、弟武立つ。斉建元中、武を持節・督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除す。高祖即位して、武を進めて征東大将軍と号す。
《東晋の安帝(10代)の時代に、倭王の賛がいた。賛が死去し、弟の弥が擁立された。弥が死去し、子の済が擁立された。済が死去し、子の興が擁立された。興が死去し、弟の武が擁立された。南斉の479~482年(建元年間)に、武を、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に任命した。梁の武帝(初代)が(502年に)即位すると、武を、征東大将軍に任命した。》
 
 [参考]「梁書」本紀第2・武帝中(巻2):梁の武帝(初代)-倭王武
・天監元年夏四月戊辰:車騎将軍高句麗王高雲、進みて車騎大将軍と号す。鎮東大将軍百済王餘大、進みて征東大将軍と号す。安西将軍宕昌(とうしょう)王梁弥頜、進みて鎮西将軍と号す。鎮東大将軍倭王武、進みて征東大将軍と号す。鎮西将軍河南王吐谷渾(とよくこん)休留代、進みて征西将軍と号す。
《502(天監元)年4月:(梁の武帝が、)車騎将軍で高句麗王の文咨明(ぶんしめい)王(21代)を、車騎大将軍に昇進させ、鎮東大将軍で百済王の東城王(24代)を、征東大将軍に昇進させ、安西将軍で宕昌(現・甘粛省宕昌県の西)王の梁弥頜を、鎮西将軍に昇進させ、鎮東大将軍で倭王の武を、征東大将軍に昇進させ、鎮西将軍で吐谷渾の河南王の伏連籌(ふくれんちゅう)を、征西将軍に昇進させた。》
 
※済は弥(珍)の子といえず
 「宋書倭国伝」では、珍と済の続柄が不明である一方、「梁書倭伝」では、済が弥(珍に相当)の子となっていますが、7世紀前半成立の中国南朝・梁(502~557年)の歴史書、「梁書」は、原史料をかなり書き換えており、「晋安帝の時、倭王賛あり。」も、そのひとつで、信憑性が疑問視されています。
 
 
●倭の政権の所在
 ここでは、とりあえず、上記で取り上げた年代と、諸説で比定されている天皇の即位年~死去年の関係を、比較・列挙してみました。
 
※応神天皇(15代)270~310年:40年間
※仁徳天皇(16代)313~399年:86年間
※履中天皇(17代)400~405年:5年間
※反正天皇(18代)406~410年:4年間
※允恭天皇(19代)412~453年:41年間
・413年:?
・421年:讃-宋の武帝(初代)
・425年:讃-宋の文帝(3代)
・430年:?(讃)-宋の文帝、讃:9年間以上
・438年:珍-宋の文帝、珍:5年間位?
・443年:済-宋の文帝
・451年:済-宋の文帝
※安康天皇(20代)453~456年:3年間
※雄略天皇(21代)456~479年:23年間
・460年:?(済)-宋の孝武帝(4代)、済:17年間以上
・462年:興-宋の孝武帝
・477年:興-宋の順帝(8代)、興:15年間以上
・478年:武-宋の順帝
・479年:武-南斉の高帝(初代)
※清寧天皇(22代)480~484年:4年間
※顕宗天皇(23代)485~487年:2年間
※仁賢天皇(24代)488~498年:10年間
※武烈天皇(25代)498~506年:8年間
・502年:武-梁の武帝(初代)、武:24年間以上?
※継体天皇(26代)507~531年:24年間
 
 倭の五王の比定は、新旧の王の続柄のみから、讃(賛)=履中天皇(17代)、珍(弥)=反正天皇(18代)、済=允恭天皇(19代)、興=安康天皇(20代)、武=雄略天皇(21代)が有力のようですが、上記のように、相当な食い違いがあるので、安直に大和政権と結び付けず、別の政権とするのが自然です。
 
(つづく)