軸線のある皇宮の変遷11~平城宮4 | ejiratsu-blog

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(つづき)
 
●再遷都の平城宮
 
◎内裏
○内裏 : 宴会あり(大半)
・天平17(745)年11月16日:(聖武天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与、70歳以上に、被(ふすま、寝具)を追加で授与(新嘗祭後の宴会)
・天平20(748)年1月1日:(聖武天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与(他の者に、朝堂で宴会を提供)
・天平勝宝4(752)年閏3月9日:(孝謙天皇が、)遣唐使の副使以上を、内裏に呼び寄せ、節刀(せっとう、遣唐使のしるし)を授与、大使・副使・留学生の3人に、位階を昇進・授与
・天平勝宝6(754)年1月1日:(孝謙天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与
・天平宝字4(760)年1月1日:(淳仁天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与(天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、官僚・渤海の使者等が朝賀)
・天平神護元(765)年2月4日:(称徳天皇が、)内裏で、賊軍(藤原仲麻呂の乱)と戦闘・内裏に宿営して守備した236人+北門を守備した31人に、位1階を昇進
・神護景雲2(768)年1月7日:(称徳天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与、2人に位階を授与(白馬/あおうまの節会)
・宝亀3(772)年1月1日:(光仁天皇が、)次侍従(じじじゅう、侍従の補佐役)以上の者と、内裏で宴会し、物を授与(天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、官僚+渤海の使者+陸奥・出羽の蝦夷が朝賀)
・宝亀4(773)年1月1日:(光仁天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、被を授与、2人に位階を授与(天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、官僚+陸奥・出羽の蝦夷が朝賀)
・宝亀5(774)年1月1日:(光仁天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、被を授与
・宝亀6(775)年1月1日:(光仁天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与
・宝亀6(775)年10月19日:(光仁天皇の時代)僧200人を、内裏に招き入れ、大般若経を読経(朝堂でも)
・宝亀8(777)年4月13日:(光仁天皇の時代)内裏で落雷(太政官でも)
・宝亀9(778)年1月1日:(光仁天皇が、)次侍従以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与(他の5位以上の者に、朝堂で宴会を提供)
・宝亀9(778)年1月7日:(光仁天皇が、)侍従・5位以上の者と、内裏で宴会し、被を授与(白馬の節会)
・宝亀9(778)年3月3日:(光仁天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、文人に曲水の宴の作詩を命令、禄を授与(上巳/じょうしの節会)
・宝亀11(780)年1月1日:(光仁天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、被を授与
・天応元(781)年9月3日:(桓武天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与、1人に位階を昇進、藤原是公(これきみ)を中納言に任命
・延暦元(782)年7月21日:(桓武天皇の時代)松尾山寺の101歳の仏僧・尊鏡を、内裏に招き入れ、高齢による優遇で、大法師を授与
・延暦2(783)年4月18日:桓武天皇が、藤原乙牟漏(おとむろ)を皇后とし、侍臣を、内裏に招き入れて宴会し、禄を授与、4人に位階を昇進
・延暦3(784)年1月16日:(桓武天皇が、)5位以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与、4人に位階を昇進(主典以上の官僚に、朝堂で宴会を提供し、禄を授与)(踏歌/とうかの節会)
 
○南殿 → 内裏 : 「万葉集」(巻20)の詞書に、内南安殿と記載、内裏の南(安)殿と推測、768年1月7日・778年1月7日に、内裏で白馬の節会、天皇の出御あり・宴会あり
・天平20(748)年1月7日:聖武天皇が、南殿に出御し、5位以上の者と宴会、禄を授与、3人に位階を昇進(白馬の節会)
 
○内安殿[淳仁のみ] → 内裏 : 天皇の出御あり・宴会なし
・天平宝字3(759)年6月16日:淳仁天皇が、内安殿に出御し、主典以上の官僚を呼び寄せ、両親・舎人親王夫妻に贈号、藤原仲麻呂夫妻を両親同然に優遇すると宣言、39人に位階を昇進、藤原御楯(みたて)を参議に任命
・天平宝字4(760)年1月4日:孝謙上皇・淳仁天皇が、内安殿に出御し、18人に位階を昇進・授与、藤原仲麻呂を大師、大納言・石川年足を大納言、文屋智努(ふんやちぬ)を中納言に任命
 
○内嶋院 → 内裏(内裏の嶋院?) : 宴会あり
・宝亀8(777)年3月3日:(光仁天皇が、)次侍従以上の者と、内嶋院で宴会し、文人に曲水の宴の作詩を命令、禄を授与(上巳の節会)
 
◎中宮
○中宮
・天平17(745)年9月23日:(聖武天皇の時代)僧600人を、平城の中宮に招き入れ、大般若経を読経
・天平勝宝6(754)年7月19日:(孝謙天皇の時代)太皇太后(天皇の祖母)・藤原宮子が、中宮で死去
○中宮安殿
・天平勝宝2(750)年5月8日:(孝謙天皇の時代)僧100人を、中宮安殿に招き入れ、仁王経を講説(左右両京・四畿内・七道の諸国でも)
 
○中宮院 : 聖武・淳仁天皇の居所、宴会なし
・天平17(745)年5月11日:聖武天皇が、恭仁宮から平城宮へ行幸(遷御)し、中宮院を御在所に、皇后宮(元・藤原不比等の邸宅)を宮寺(のちの法華寺)とし、官僚も元の庁舎に帰還
・天平宝字6(762)年5月23日:淳仁天皇が、近江・保良宮から平城京の中宮院に遷御し、不仲になった孝謙上皇は、法華寺で別居
・天平宝字6(762)年8月11日:左右京尹(かみ)・文部(しきぶ)大輔(たいふ)・右勇士(右衛士)率(かみ)・授刀大尉(だいしょう)の4人等を、中宮院に呼び寄せ、淳仁天皇の命令を伝達
・天平宝字8(764)年9月11日:大師・藤原仲麻呂に謀反の計画があるので、孝謙上皇が、使者を派遣し、淳仁天皇の中宮院にあった駅鈴(えきれい、公務出張で支給される駅で馬を調達する鈴)・御璽(ぎょじ、内印、天皇の公式印章)を回収
・天平宝字8(764)年10月9日:孝謙上皇が、兵部卿・左兵衛督(かみ)・外衛大将等+兵士数百人を派遣し、淳仁天皇の中宮院を取り囲み、天皇を図書寮の北西方に連行し、廃位を宣告のうえ、淡路島へ護送
 
○寝殿 → 中宮 : 「万葉集」(巻17)の詞書に、元正上皇の御在所が中宮西院と記載
・天平20(748)年4月21日:(聖武天皇の時代)元正上皇が、寝殿で死去
・天平勝宝8(756)年5月2日:(孝謙天皇の時代)聖武上皇が、寝殿で死去、遺言で道祖王(ふなどのおおきみ)を皇太子に指名
・天平宝字元(757)年3月20日:孝謙天皇の寝殿の天井板に、「天下太平」の4文字が自然に出現
 
◎西宮[称徳のみ]:恭仁宮へ移築した大極殿の跡地に造営
○西宮寝殿 ; 称徳天皇の居所
・神護景雲元(767)年8月8日:(称徳天皇の時代)慶(景)雲が出現したので、僧600人を、西宮寝殿に招き入れ、食事を提供、僧達の振る舞いは俗人のように歓喜
・宝亀元(770)年8月4日:称徳天皇が、西宮寝殿で死去
○西宮前殿 : 宴会あり
・天平景雲2(768)年11月22日:(称徳天皇が、)5位以上の者と、西宮前殿で宴会し、禄を授与(豊明/とよあかりの節会)
・天平景雲3(769)年1月3日:(称徳天皇の時代)法王・道鏡は、西宮前殿におり、大臣以下の者が拝賀の礼、自身での祝賀の言葉あり
○南宮前殿 → 西宮 : 「続日本紀」の頭注・「類聚国史」(巻71)・「日本紀略」765年1月1日に、西宮と記載、天皇の出御あり・宴会なし
・天平神護元(765)年1月1日:称徳天皇が、南宮寝殿に出御し、拝賀の礼
 
◎大極殿院
○大極殿
・天平勝宝元(749)年7月2日:孝謙天皇が、大極殿に出御し、即位式、天平勝宝に改元
・天平宝字2(758)年8月1日:淳仁天皇が、大極殿に出御し、諸神社の禰宜(ねぎ)・祝(はふり)に、物を授与、諸寺の師位(しい)に、物を寄付、官僚・諸国の兵士・鎮守府の兵士・駅家を維持する戸等に、今年の田租を免除、46人に、位階を昇進
・天平宝字3(759)年1月1日:淳仁天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、官僚・渤海の使者等が朝賀
・天平宝字4(760)年1月1日:淳仁天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、官僚・渤海の使者等が朝賀(天皇が、5位以上の者と、内裏で宴会し、禄を授与)
・天平宝字7(763)年1月1日:淳仁天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、官僚・渤海の使者等が朝賀、1人に位階を昇進
・天平景雲元(767)年10月24日:称徳天皇が、大極殿に出御し、僧600人を呼び寄せ、大般若経を略読(転読)、唐・渤海の音楽を演奏、踏歌を披露
・神護景雲2(768)年1月1日:称徳天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、従来の儀礼で少納言は、殿上で天皇に付き従っていたが、今回は座席を設置、1人に位階を昇進
・神護景雲3(769)年1月2日:称徳天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、官僚・陸奥の蝦夷が朝賀、勲6等以上・7位の役人は、はじめて7位の浅緑の礼服で、6位より上位に列席、6位の諸王で淡赤色の礼服の者は、その次に列席
・宝亀元(770)年10月1日:光仁天皇が、大極殿に出御し、即位式、宝亀に改元
・宝亀2(771)年1月1日:光仁天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼
・宝亀3(772)年1月1日:光仁天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、官僚+渤海の使者+陸奥・出羽の蝦夷が朝賀
・宝亀4(773)年1月1日:光仁天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、官僚+陸奥・出羽の蝦夷が朝賀(天皇が、5位以上の者と、内裏で宴会し、被を授与、2人に位階を授与)
・宝亀10(779)年1月1日:光仁天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、渤海の使者が朝賀、藤原魚名を内大臣に任命
・宝亀11(780)年1月2日:光仁天皇が、大極殿に出御し、拝賀の礼、唐・新羅の使者が朝賀
・天応元(781)年4月15日:桓武天皇が、大極殿に出御し、即位式、38人に位階を昇進・授与
・延暦2(783)年2月5日:桓武天皇が、大極殿に出御し、故・藤原百川(ももか)に右大臣を追贈、33人に位階を昇進・授与
 
○(臨)軒(宮殿の端付近) → 大極殿 : 天皇の出御あり・宴会なし
・天平宝字3(759)年1月3日:淳仁天皇が、軒に臨御し、渤海の使者が国書・貢物を献上
・天平宝字3(759)年1月18日:淳仁天皇が、軒に臨御し、渤海の使者22人に位階・禄、渤海王に禄を授与(天皇が、5位以上の者・渤海の使者・主典以上の官僚と、朝堂で宴会し、舞台で女性の音楽を演奏、庭で踏歌を披露、高麗の使者・5位以上の者も参加、真綿を授与)
・天平宝字4(760)年1月5日:淳仁天皇が、軒に臨御し、渤海の使者が貢物を献上、感謝を表明
・天平宝字5(761)年1月2日:淳仁天皇が、軒に臨御し、主典以上の官僚が儀礼に参列、35人に位階を昇進・授与
・天平宝字6(762)年1月4日:淳仁天皇が、軒に臨御し、24人に位階を昇進・授与、中納言・文屋浄三(ふんやきよみ)を大納言、氷上(ひかみ)塩焼・藤原真先(まさき)を参議に任命
・神護景雲3(769)年11月26日:称徳天皇が、軒に臨御し、大隅・薩摩の隼人が、郷土の歌舞を披露、隼人7人に、位階を昇進、他の隼人等に、物を授与
・宝亀3(772)年1月3日:光仁天皇が、軒に臨御し、渤海の使者が貢物を献上、26人に位階を昇進・授与
・宝亀5(774)年1月7日:光仁天皇が、軒に臨御し、20人に位階を昇進、5位以上の者と宴会し、禄を授与(白馬の節会)
・宝亀8(777)年4月27日:光仁天皇が、軒に臨御し、渤海の使者5人等に、位階・物を授与、渤海国王に、禄を授与
 
◎大極殿南院
○大極殿南院 → 南苑 : 「日本紀略」751年1月16日には、南苑と記載
・天平勝宝3(751)年1月16日:孝謙天皇が、大極殿南院に出御し、主典(さかん)以上の官僚と宴会、禄を授与、踏歌の音頭取の下級女官に、位階を授与(踏歌の節会)
○南院 → 大極殿南院
・天平勝宝3(751)年7月7日:孝謙天皇が、南院に出御し、大臣以下・主典以上の官僚に、宴会を提供、2人に位階を昇進・授与(相撲/すまいの節会)
・天平宝宇元(757)年7月12日:孝謙天皇が、南院に出御し、官僚+京・畿内の百姓の村長以上を呼び寄せ、謀反(橘奈良麻呂の乱)の経緯を説明
 
○大安殿 → 大極殿南院 : 「日本紀略」754年1月16日には、大極殿南院と記載、大極殿の再建(749年7月2日が初出)前に利用
・天平17(745)年8月15日:(聖武天皇の時代)無遮大会(むしゃだいえ、僧俗貴賎の区別なく、供養・布施する法会)を、大安殿で開催
・天平勝宝2(750)年1月1日:孝謙天皇が、大安殿に出御し、拝賀の礼(そののち、大郡/おおごおり宮に移動し、5位以上の者と宴会し、禄を授与、他の5位以上の者に、薬園宮で宴会を提供)
・天平勝宝6(754)年1月16日:孝謙天皇が、大安殿に出御し、26人に位階を昇進(踏歌の節会)
 
○南苑[聖武のみ] → 大極殿南院
・天平19(747)年1月1日:聖武天皇が、南苑に出御し、侍臣と宴会、大赦
・天平19(747)年1月20日:聖武天皇が、南苑に出御し、5位以上と宴会、主典以上の官僚に、酒の肴(さかな、ツマミ)を授与、32人に位階を昇進・授与
・天平19(747)年4月22日:聖武天皇が、南苑に出御し、大和・大神(おおみわ)神社の神主と大倭(おおやまと)神社の神主の2人に、位階を昇進、葛井諸会(ふじいもろあい)を相模守(かみ)に任命
・天平19(747)年5月5日:聖武天皇が、南苑に出御し、騎射・走馬(はしりうま)を観覧(端午の節会)、元正上皇が、端午の日にはアヤメの髪飾りを付けないと、宮中への入場禁止に
・天平19(747)年5月15日:(聖武天皇の時代)南苑で、仁王経を講義(諸国でも)
 
(つづく)