上皇・法皇の熊野行幸2 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)
  
○後嵯峨上皇(88代、在位4年間、83代・土御門の息子)
*1242年1月20日:即位(23歳)
*1246年1月29日:譲位(27歳)
《26年間で3回》
・1250年3月11日~4月5日(百練抄・五代帝王物語一代要記・編年記)
・1255年3月8日~4月1日(右同一代要記)
・1257年3月20日~(五代帝王物語)
*1272年2月17日:死去(53歳)
 
○亀山上皇(90代、在位15年間、88代・後嵯峨の息子、89代・後深草の同母弟)
*1259年11月26日:即位(11歳)
*1274年1月26日:譲位(26歳)
《31年間で1回》
・1281年2月16日~3月9日(一代要記・編年記)
*1305年9月15日:死去(57歳)
 
※発意・出発~帰宅の順
 
   ▽熊野行幸の経路(京都~大坂間は水路)
イメージ 1
 
□考察
 
 吉野の金峯山・大峯山等や熊野一帯は、古来より修験道が発達し、役小角(えんのおづの)も吉野・熊野一帯で修行したとされ(金峯山寺を創建)、密教僧の山岳修行も活発化(主に真言系は吉野、天台系は熊野)、そこから古来の神々を様々な仏の化身だとする本地垂迹説が生み出されました(神仏習合)。
 平安中期からは、末法思想の影響もあり、皇室や貴族の間で、来世利益の浄土教が流行し、熊野は浄土とみなされるようになりました。
 熊野本宮大社は、阿弥陀如来がいるとされる西方の極楽浄土、熊野速玉大社(新宮)は、薬師如来がいるとされる東方の浄瑠璃浄土、熊野那智大社は、観音菩薩がいるとされる南方の補陀落(ふだらく)浄土とされました(方位は立地と一致します)。
 上皇・法皇の熊野行幸は、平安前期の宇多天皇(59代)が最初とされ、平安中期の花山法皇(65代)は那智で千日の滝籠りをしたほど信仰が厚く、平安後期の白河上皇(72代)が12回、鳥羽上皇(74代)が23回、後白河上皇(77代)が30回、後鳥羽上皇(82代)が29回と、院政期には頻繁に参詣しました。
 しかし、鎌倉前期の後鳥羽上皇が幕府に敗戦した承久の乱(1221年)後は、後嵯峨上皇(88代)が3回、亀山上皇(90代)が1回と、鎌倉中期で上皇・法皇の熊野行幸は終了しています。
 飛鳥~奈良期の天武系天皇の吉野行幸は、死に向かって進んでいるところから生を取り戻す(ケガレをキヨメる)行為、それより遠方で奥地の、平安~鎌倉期の天智系天皇の熊野行幸は、仮死から再生する行為といえ、まるで生死の境目が、吉野と熊野の間にあるようです。
 そのうえ、吉野は、「生」の領域だからか、精気・精気回復のため、天皇の現役時に行幸した一方、熊野は、「死」の領域だからか、擬似的に生まれ変わるため、譲位後の上皇時に行幸し、しかも大勢が晩年に出家・法皇になっており、吉野では「神」、熊野では「仏」と一体化し、権力を行使したといえます。
 
(おわり)