日本の古代直線道路 | ejiratsu-blog

ejiratsu-blog

人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 日本の古代直線道路は、藤原京・平城京・平安京等、地域内の直線道路が有名ですが、それらが造営される以前に、地域間をつなぐ直線道路が敷設されていました(磯歯津路/しはつみち、難波大道/なにわだいどう・丹比道/たじひみち・横大路)。
 これらは、外国からの使者を大阪から奈良へ迎え入れる際、上陸直後から天皇や大和政権の権威・権力を誇示し、後進国ではないと理解させるために整備され、主に平坦地は直線道路でしたが、大阪から奈良へ越境する際の傾斜地や、大阪南部の古墳群周辺では、曲線道路になっています。
 ここでは、大阪と奈良の古代直線道路がいかに形成されたか、地域どうしのつながりも一緒にみていくことにしますが、いずれの道路も、直線の全部は維持されておらず、一部が微妙な曲線に改変されたり切断されており、人工による作為が自然の摂理に、捻じ曲げられ打ち壊されている様子がみられます。
イメージ 1
 
 
■大阪平野
 
 縄文期の大阪の海岸線は、生駒山麓まで内湾(河内湾)が入り込み(縄文海進)、その湾口に南北細長の上町台地が突き出しており、大和川は奈良から大阪へ西進・越境すると北上し、淀川は南下して両川ともに河内湾へ流れ込んでいました。
 弥生・古墳期には、河内湾が淀川と大和川から土砂が流入・堆積し、南北両方から三角州が形成され、湾口の上町台地の北・西部と千里山丘陵の南部には、砂州(それぞれ天満砂州、吹田砂州)が形成、河内湾が瀬戸内海から完全に切り離され、淡水化して湖(河内湖、草香江/くさかえ)になりました。
 古墳期・仁徳天皇(16代)の時代(4世紀終り~5世紀初め)には、上町台地上へ遷宮され(難波高津宮)、洪水時の河内湖の排水と水運の利便性のため、瀬戸内海と河内湖の間に運河(難波堀江、現・大川)を掘削し、難波堀江の途中には難波津、河内湖の最奥東部には草香津の港が設置されました。
 難波堀江の着工は5世紀半ば、竣工は6世紀初めのようで(大阪に巨大古墳が多数造営された時期です)、難波津に隣接する上町台地の北端には16棟の倉庫群の遺構(5世紀後半)が発掘され、おそらく難波津や草香津は、主に海用の大型船と川用の小型船の間で、物資を積み替えるための港だったのでしょう。
 ちなみに、草香津は、記紀神話でカムヤマトイワレビコ(のちの初代・神武天皇)が日向から大和へ進出する際、最初に上陸しようとした白肩津といわれています。
 ここでの停泊中、兄・イツセは、地元の豪族・ナガスネヒコが放った矢に当たり、「我々は日の神の子だから、太陽(東)に向かって戦うのはよくない」と、弟・カムヤマトイワレビコ一行はいったん撤退し、南へ回り込んで上陸しましたが、その途中でイツセは死去しました。
 飛鳥期・大化の改新後の孝徳天皇(36代)の時代には、再度上町台地上へ遷宮(難波長柄豊碕宮、前期難波宮、652年)しましたが、その翌年に天皇以外の皇族らが飛鳥へ帰還し、天武天皇の時代(40代)には難波宮(前期)を副都として利用しましたが(683年)、3年後に全焼しました(686年)。
 奈良期・聖武天皇(45代)の時代にも、難波宮(後期)を副都として利用し(726年)、一時遷宮(難波京、744年)しましたが、8世紀には難波津が、土砂の堆積で港湾機能が低下したので、桓武天皇(50代)は水運の主力を大和川から淀川へと切り替え、長岡京(784年)・平安京(794年)へ遷都しています。
 その際、淀川の河口で難波津と接近した位置に、渡辺津の港が設置され、ここも海と川の間の積み替え場として機能し、これ以降は渡辺津が、平安京と全国各地をつなぐ交通の要衝となり、長岡京の主要施設は、平城京と難波京から多数移築されました。
イメージ 2 
 
□南北軸
 
●難波大道
:難波宮の南門・朱雀大路~丹比道
 
 日本書紀では、飛鳥期・推古天皇(33代)の時代(613年)に、「難波から飛鳥京までの大道を設置した」とあり、これを難波大道・丹比道・横大路のルートとするのが通説になっており、日本最古の官道といわれ、難波大道は発掘で確認されました(大和川今池遺跡・松原市)。
 難波大道は、南北細長の上町台地上を縦貫し、北端の難波津と、南端の直交する丹比道をつなぎ、その中間に住吉津(5世紀後半には存在)・住吉大社(創建不明)が位置し、難波津と住吉津の中間に四天王寺(日本書紀では593年に着工)が位置しています。
 推古天皇は、飛鳥豊浦宮(とゆらのみや)で即位しましたが(593年)、その10年後に飛鳥小墾田宮(おはりだのみや)へ遷宮し(603年)、そこでは中国の王宮由来の南北軸を中心とする構成が取り入れられ、その10年後に、外国の使者を接待するため、そこまでのルートが整備されたことになります(613年)。
 小墾田宮では、天皇がいる北側(大殿)と、役人が政務したり使者が接見する南側に区画され、東西対称形に配置された庁舎の中庭(朝庭/ちょうてい=朝廷)で儀礼するため、天皇は中央北方(大門)から、使者は中央南方(南門)から出入し、この形式はこれ以降の王宮の原型になりました。
 飛鳥期・孝徳天皇(36代)の時代には、難波長柄豊碕宮へ遷宮され(652年)、その際に難波大道が朱雀大路の役割になったようです。
 
□東西軸
 
●磯歯津路(しはつみち、八尾街道)
:住吉津(すみのえのつ、住吉大社)~旧大和川
 
 日本書紀では、古墳期・雄略天皇(21代)の時代(5世紀後半)には存在したとの記述があり、中国からの使者や渡来人は、住吉津を上陸後、磯歯津路を通過し、旧大和川から水路・陸路で奈良へ移動したようです。
 難波堀江の開削で、難波津が6世紀から繁栄し、日本書紀では、飛鳥期・推古天皇(33代)・舒明天皇(34代)の時代には、難波津が外交(外国からの使者の接待・宿泊)・通商(交易)に利用されるようになると、住吉津は主に内政・観光等へ移行していきました。
 遣隋使(600~618年)・遣唐使(630~894年)は、住吉大社で航海の安全を祈願(感謝)して住吉津から出発(に帰還)し、難波津・瀬戸内海・九州経由で、中国と往来しました。
 住吉大社は、記紀神話で神功皇后(14代・仲哀天皇の皇后)に新羅を征討せよと神託した、海の神3柱(ソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオの住吉3神)が祭神で、無事征討後に、皇后が大和へ帰還する途中、船が航行しなくなり、占うと住吉3神を現在地で祀るように神託があり、創建されました。
 
●大津道(長尾街道)
:難波大道~古市古墳群の北側~大和川の沿道~竜田道・北の横大路~
 
 飛鳥期・天智天皇(38代)の時代後の壬申の乱(672年)の際に記述があり、大阪・奈良間の越境は、ほぼ大和川沿いを通り、奈良盆地中部へと辿り着きます。
 大津道~竜田道は、飛鳥期・推古天皇(33代)の時代に、聖徳太子が創建した四天王寺(593年に着工)と、聖徳太子の邸宅・斑鳩(いかるが)宮(601年に着工、605年に入居)・法隆寺(寺伝では607年に創建)を結び付け、奈良期には、奈良盆地北部の平城京・難波間の通行で、頻繁に利用されたようです。
 なお、奈良期には、平城京・難波間をつなぐ最短ルートの暗越(くらがりごえ)が敷設されました(暗/くらがり峠を越境)。
 
●丹比道(竹内/たけのうち街道)
:百舌鳥古墳群の北側~古市古墳群の南側~二上山の北側(穴虫峠)か南側(竹内峠)~横大路~
 
 日本書紀では、飛鳥期・推古天皇(33代)の時代(613年)に、「難波から飛鳥京までの大道を設置した」とあり、これを難波大道・丹比道・横大路のルートとするのが通説になっており、日本最古の官道といわれています。
 また、飛鳥期・天智天皇(38代)の時代後の壬申の乱(672年)の際に記述があり、奈良盆地南部の飛鳥・難波間の通行で、頻繁に利用されたようです。
 大阪・奈良間の越境部分には、古市古墳群や礒長谷(しながだに)古墳群が立地し、礒長谷古墳群には敏達天皇(30代、29代・欽明天皇の次男)・用明天皇(31代、欽明の四男)・推古天皇(33代、欽明の娘で敏達の皇后)・考徳天皇(36代、敏達の孫)の4天皇陵と聖徳太子(用明の次男)の霊廟等があります。
 つまり、丹比道は飛鳥期に、既存の海側の百舌鳥古墳群と、山側の古市古墳群を結び付けるとともに、越境部分の大阪側に、欽明天皇の子孫達の礒長谷古墳群を造営したうえ、7世紀には越境部分の奈良側に、當麻寺(たいまでら)を創建し、大阪方面=「死」、奈良方面=「生」と対比させました。
 飛鳥期は、飛鳥小墾田宮で、南北軸を中心とする構成が取り入れられるとともに、仏教が本格的に普及し、東方は現世利益の仏・薬師如来のいる浄瑠璃浄土、西方は来世利益の仏・阿弥陀如来のいる極楽浄土とされ、東=「生」・西=「死」の東西軸を中心とする構成も取り入れたのでしょう。
 
 
■奈良盆地
 
 大和政権は、4世紀前半の樹立当初から、天皇交代とともに王宮が点々としましたが(奈良が大半で大阪は一部)、飛鳥期・推古天皇(33代)の時代から、奈良盆地南部の飛鳥にほぼ定着しました。
 そして、飛鳥期・持統天皇(41代)の時代から、飛鳥に隣接した藤原京へ遷都(694年)、奈良期・元明天皇(43代)の時代から、奈良盆地北部の平城京へ遷都しました(710年)。
 よって、飛鳥期は盆地南部が、奈良期は盆地北部が発展し、それとともに直線道路も、飛鳥期までは南部が、奈良期からは北部が主要道路になりましたが、長岡京・平城京遷都した平安期以降、直線道路は維持されなくなって衰退しました。
イメージ 3
 
□南北軸
 
●上ツ道:東西軸の安倍・山田道~平城京の外京
●中ツ道:吉野離宮~藤原宮の東側~平城京の東端
●下ツ道:巨勢道~藤原宮の西側~平城京の朱雀大路
 
 上ツ道・中ツ道・下ツ道の大和3道は、日本書紀では、飛鳥期・考徳天皇(36代)の時代(653年)に着工し、飛鳥期・天智天皇(38代)の時代後の壬申の乱(672年)の際に記述があり、7世紀後半には敷設されていたようです。
 中ツ道を南下すると吉野、下ツ道を南下すると巨勢(こせ)道なので、これを基準にほぼ4里の間隔で敷設され、上ツ道は他の地域をつながない奈良盆地内の道路でした。
 藤原京の着工時には(676年)、中ツ道と下ツ道の間で、横大路の南側に、藤原宮が配置され、中ツ道と下ツ道の中央に朱雀大路が位置し、平城京の着工時には(708年)、下ツ道を平城京の中央・朱雀大路、中ツ道を平城京の東端にして、そこを左京(その東側が外京)とし、東西対称形で右京を設定しました。
 その結果、藤原京では大和三山(香久/かぐ山・畝傍/うねび山・耳成/みみなし山)が、平城京では西端の生駒山麓が、碁盤目状街区に食い込むことになりますが、重要なのは朱雀大路から王宮までのアプローチなので、局所的には、天皇の権威性を誇示しつつ、総体的には、都城の完結性は放棄しています。
 ただし、これはあえてそうしたようにもみえ、幾何学で完全・完璧にすると、それ以上の発展性がなく、不変・不動は「死」につながるので、そこに自然の山を食い込ませることで(平城京では東隣に外京を追加)、変化・変動を創り出し、「生」を取り込もうとしたのではないでしょうか。
 おそらく実際は、藤原京・平城京・平安京ともに、完成した状態に到達したことはなく、中国の都城は、城壁で取り囲んで完結させますが、日本の都城は、自由に増殖できる植民都市のイメージで、外国からの使者の外港~都城の朱雀大路~王宮のアプローチが立派であればよく、当時は俯瞰する視点がありません。
 藤原京の竣工(704年)から平城京の着工(708年)まで間もないのは、文武天皇(42代)の時代に遣唐使を再開させると(702年に出発、704年に帰国)、中国の都城・長安は王宮が北側中央に位置していた一方、藤原京は都城の中心に王宮が位置していたからといわれており、あわてて平城京で修正しました。
 ここで注目すべきは、大和3道が、ほぼ4里の間隔で敷設され、これをもとに藤原京・平城京が配置されただけでなく、その区画をもとに長岡京・平安京の町割が決定されたうえ、平安京の区画をもとに、江戸の日本橋・京橋・神田の町割が決定されていることで、当時から根拠のある寸法だったといえます。
 藤原京・平城京の町割は、1区画が芯々で45丈(約136m、道路幅の違いで区画の大小が異なります)、平安京の町割は、1区画が内法(うちのり)で40丈(約120m)、江戸下町の町割も、1区画が内法で京間・60間(約120m)と、ほぼ同等の規模で計画されていることがわかります。
 ここまでみてくると、大和3道の着工と同年に、中大兄皇子(のちの38代・天智天皇)・大海人皇子(のちの40代・天武天皇)ら皇族は、難波京から飛鳥へ帰還していますが、おそらく中大兄皇子の主導で、中国由来の都城造営を想定して大和3道を敷設、大海人皇子がそれを継承したのではないでしょうか。
 天智天皇の近江宮への遷宮(667年)は、唐・新羅連合軍との白村江の合戦(663年)での大敗からの危機対策で、これ以降は工費のかかる国土防衛を最重要視しています。
 そののち、唐と新羅が戦争になったため(670年)、壬申の乱(672年)後に天武天皇は、遣新羅使を派遣する一方、唐とは国交せず、天皇制・官僚制による中央集権化を推進し、外国からの侵略がないとわかったので、律令制定・国史編纂とともに、工費のかかる藤原京に着工したと推測できます。
 ところで、中ツ道を南下した吉野は、飛鳥期に母・斉明天皇(37代)が離宮を造営・行幸して以来、弟・大海人皇子(のちの天武天皇)は、兄・天智天皇の死直前に吉野で出家し、壬申の乱で政権奪取すると、皇后(のちの持統天皇)らと吉野へ行幸し、息子達等で助け合うと宣言(盟約)させました(679年)。
 夫・天武天皇が死去し(686年)、藤原京の造営を引き継いだ妻・持統天皇は、実質政務期間11年で31回も(飛鳥浄御原宮/きよみはらのみやの7年=喪中2年・実質5年で19回、藤原京の4年で12回)、飛鳥から吉野へ行幸し、神聖な自然の中で自分の神性を回復し、政治に投入したようです。
 持統天皇の他の地域への行幸は11年で13回なので1年あたり1.2回、飛鳥浄御原宮の時代の吉野は、1年あたり3.8回、藤原京時代の吉野は、1年あたり3回と頻繁でしたが、譲位から死没までの5年間ではわずか1回なので、吉野への行幸は祭政一致の行動といえます。
 持統天皇が死去すると(703年)、文武天皇(42代、天武・持統の孫、草壁皇子の子)は10年で2回、平安京遷都後の元正天皇(44代、草壁皇子の娘、文武の姉)は9年で1回、聖武天皇(45代、文武の子)は25年で2回と、吉野行幸は激減しましたが、奈良期には平安京から中ツ道が利用されました。
 平安期にも藤原道長が吉野詣で中ツ道を利用する等、平安京から陸路だと、吉野・大峯詣(金峯山寺/きんぷせんじ・大峯山寺)は中ツ道を南下、高野詣(金剛峰寺)は下ツ道・巨勢道を南下し、その双方から熊野詣となります。
 
□東西軸
 
●竜田道・北の横大路
:大津道~竜田道・北の横大路~都祁(つげ)山道
 
 大阪・奈良間の越境部分から法隆寺(斑鳩宮)の直前までは、自然の地形に対応した曲線道路ですが(竜田道)、法隆寺一帯と筋違道から下・中・上ツ道にかけては、直線道路となっており、軸線が強調されています(北の横大路)。
 竜田道は、大和川沿いを通っているので、陸運と水運が重なり合う唯一の区域で、そこから川が分岐する地点に、聖徳太子の斑鳩宮(601年に着工、605年に入居)と法隆寺(寺伝では607年に創建)が立地しており、交通の要衝を確保しています。
 法隆寺(西院伽藍)の東隣にあった聖徳太子一族の邸宅・斑鳩宮は、飛鳥期・皇極天皇(35代、のちの37代・斉明天皇)の時代(643年)に蘇我入鹿が、聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を自害に追い込んだ際に焼失、法隆寺も焼失(日本書紀では670年)・再建されました。
 しかし、奈良期には、斑鳩宮跡に夢殿等の東院伽藍が創建され(739年)、8世紀から聖徳太子への信仰・聖人化がみられるようになり、四天王寺と法隆寺を結び付ける大津道~竜田道は、平城京・難波間の通行で、頻繁に利用されたため、太子信仰にも貢献しているともいえるのではないでしょうか。
 
●横大路(大道/おおじ)
:丹比道~二上山の北側(穴虫峠)か南側(竹内峠)~横大路~藤原宮の北側~三輪山の南側~伊勢街道
 
 日本書紀では、飛鳥期・推古天皇(33代)の時代(613年)に、「難波から飛鳥京までの大道を設置した」とあり、これを難波大道・丹比道・横大路のルートとするのが通説になっており、日本最古の官道といわれています。
 大阪・奈良間の越境部分は、自然の地形に対応した曲線道路ですが、奈良盆地からは、直線道路となっており、軸線が強調されています。
 日本書紀では、崇神天皇(10代)の時代に疫病が流行し、天皇に神託があり、横大路東方(伊勢街道)の墨坂神社(宇陀市)に赤色の盾(たて)・矛(ほこ)、横大路西方(二上山の北側・穴虫峠)の大坂山口神社(2ヶ所あり、香芝市逢坂と穴虫)に黒色の盾・矛を奉納すると、疫病が退散したとされています。
 ここで赤色と黒色なのは、それぞれ血(出産・月経等)のケガレである赤不浄と、死のケガレである黒不浄を意味し、奈良盆地の東側では赤=「生」、西側では黒=「死」と方位に対応させており、ケガレが奈良盆地への侵入しないよう、矛と盾の武器で悪疫を追い払おうとしました。
 ただし、黒色の衣に朱色の裳(も、スカート状の衣類)を着用して矛と盾を打ち鳴らし、悪鬼・邪気等を退散させる儀式(追儺/ついな)は、飛鳥期・文武天皇(42代)の時代が最初の記述なので、時期が合致しません(863年の京都・神泉苑での御霊会でも、国の数を表す66本の矛を立てて祭祀しました)。
 日本書紀は、飛鳥期・天武天皇(40代)の時代から編纂が開始され、崇神天皇(10代)の時代は大和政権が樹立したとされる4世紀前半なので、赤と黒の矛と盾は、後世の潤色と推測されますが、いずれにせよ、古来より横大路と東西の出入口が重視されていたことは確実です。
 飛鳥期・7世紀には横大路西方(二上山の南側・竹内峠)に當麻寺が創建され、その奥が欽明天皇の子孫・4天皇+聖徳太子の礒長谷古墳群で、東の三輪山=「生」、西の二上山=「生」と対比させました。
 
□ナナメ軸
 
●筋違道(太子道)
:東西方向の竜田道(斑鳩宮・法隆寺)~ナナメ方向の筋違道(太子道)~南北方向の下ツ道(飛鳥)
 
 飛鳥期・推古天皇(33代)の時代は、摂政・聖徳太子と大臣・蘇我馬子が政権を主導し、女帝は巫女的な役割だったようです。
 蘇我馬子の邸宅は、飛鳥の甘樫丘(あまかしのおか)周辺にあったとされ、推古天皇は飛鳥小墾田宮(603年に遷都、雷丘/いかづちのおか周辺とされています)が居所で、それらと聖徳太子の斑鳩宮(601年に着工、605年に入居)・法隆寺(寺伝では607年に創建)をつなぐナナメ方向の最短ルートが筋違道です。
 余談ですが、聖徳太子は、上宮(かみつみや、上之宮遺跡・桜井市上之宮)から斑鳩宮へ移り住みましたが、上宮は飛鳥に近かったのに、あえて遠くの斑鳩宮を選択し、その理由は不明ですが、皇位継承から距離をとるためとか、都城造営を想定してとか、外国や西日本との関係を優先して等、諸説あります。
 聖徳太子の死後(622年)、太子の子・山背大兄王一族は自害に追い込まれ(643年)、奈良盆地には藤原京・平城京が造営(遷都はそれぞれ694年・710年)、平城京遷都後には平城京・難波間の大津道~竜田道の往来が活発化し、これらは結果から導き出された諸説にすぎません。
 一方、平城京遷都後、筋違道は、飛鳥と斑鳩宮・法隆寺のつながりがなくなり、維持されなくなって衰退しました。
 
●安倍山田道
:南北方向の上ツ道~ナナメ方向の安倍山田道~東西方向の藤原京の南側
 
 沿道には、安倍寺跡や山田寺跡が立地しているので、安倍山田道と命名されています。
 日本書紀では、飛鳥期・推古天皇(33代)の時代に(608年)、中国・隋の煬帝が派遣した使者・裴世清(はいせいせい)の一行が、飛鳥小墾田宮(603年に遷宮)で天皇に謁見するため、海柘榴市(つばいち、三輪山麓の市場)の外交館舎から、第2回遣隋使・小野妹子と安倍山田道を通行したとされています。
 裴世清の一行は、小野妹子の帰国と一緒に来日し、まず筑紫に滞在、つぎに住吉津に到着、さらに難波の新築した鴻臚館(こうろかん、外国使節の接待・宿泊施設、難波館/なにわのむろつみ)で歓迎され、難波津から大和川を船で遡上、海柘榴市で滞在、小墾田宮で推古天皇に隋の国書・進物を提出しました。
 そののち、小墾田宮でも歓迎会、帰路途中の難波では送別会を執り行い、裴世清一行の帰国は、第3回遣隋使・小野妹子の出発の際で、留学生の高向玄理(たかむこのげんり)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)や留学僧の旻(みん)等が同行しています。
 よって、この時期はまだ、難波大道・丹比道・横大路のルートが敷設されておらず(613年に竣工)、中国の皇帝から第1回・第2回の遣隋使へ、倭国は無礼で野蛮だと非難されたので、先進文化導入の一環として、せめて外国使節用に飛鳥・難波間で幅広の直線道路を整備したのでしょう。
 発掘では、7世紀後半から8世紀初めには存在したのが確認され(石神遺跡・明日香村)、藤原京(676年に着工、694年に遷都、704年に竣工)の造営と合致しますが、推古天皇の時代の道路は、まだ確認できていません。