西本願寺1~浄土真宗本願寺派本山 | ejiratsu-blog

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(龍谷山/りゅうこくざん、 京都市 )
 
 鎌倉中期に親鸞(しんらん、浄土真宗の開祖)は弟の尋有(じんう)の仏寺で死去し、末娘の覚信尼(かくしんに)らが京都東山・大谷(現・延仁寺)で石塔に納骨、その10年後に覚信尼ら弟子達が京都東山・吉水に改葬して六角形の平面の廟堂を建立したのが起源です(大谷廟堂)。
 親鸞は平安末期に藤原北家の流れを汲む日野家(のちに足利将軍家の正室を多数輩出し、義政の正室・日野富子が有名です)の氏寺・法界寺付近(現・ 京都市伏見区 、日野誕生院)で、日野有範(ありのり)の長男として誕生しました。
 9歳で京都・青蓮院(しょうれんいん)の天台宗僧・慈円(じえん、のちに延暦寺62・65・69・71代目住職、父は摂関家の藤原忠通/ただみち、同母兄は九条兼実/かねざね)のもとで出家し、そののちも慈円のもと、延暦寺・横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂で20年間修行しました。
 常行(三昧/ざんまい)堂は、円仁(えんにん、最澄の弟子、延暦寺3代目住職)由来の修行施設で、本尊の阿弥陀如来像を中央に安置し、その四周を歩き回りながら念仏する道場です。
 しかし、従来の修行の限界を痛感し、29歳で比叡山から下山、京都東山・吉水に草庵があった法然(ほうねん、浄土宗の開祖)に入門し、専修念仏(ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏するだけで、死後には誰もが皆、極楽浄土に往生できる)に傾倒するようになり、法然に信頼される弟子になりました。
 ところが、専修念仏は既存宗派を否定することになり、延暦寺・興福寺から弾圧され、法然の弟子2人が後鳥羽上皇(82代)側近の女官を無断で出家させたうえ、2人を御所に宿泊、上皇はそれに激怒して専修念仏を禁止し、弟子2人は死罪、法然と親鸞ら弟子7人も流罪となり、僧籍が剥奪されました。
 法然は75歳で土佐(現・高知県、実際は讃岐/現・香川県)、親鸞は35歳で越後(現・新潟県)に配流され、親鸞はここから妻子をもつ生活となりました(非僧非俗/ひぞうひぞく、肉食妻帯)。
 2人は配流の4年後に赦免されましたが(法然79歳、親鸞39歳)、その翌年に法然は京都で死去、親鸞は帰京せず、越後を拠点に布教活動することにしました。
そののち、親鸞は42歳で家族とともに関東地方に移り住み、常陸の稲田(現・ 茨城県笠間市 )の草庵(現・西念寺)を拠点とし、約20年間布教活動しました。
 そして、62~63歳でようやく帰京し、著者活動に専念しますが、親鸞不在の関東地方では弟子達による様々な異義異端が噴出して布教活動が混乱、親鸞の子・善鸞(ぜんらん)と孫・如信(にょしん、善鸞の子)が派遣されましたが、善鸞が邪教に取り込まれたため、親鸞は手紙で絶縁しています。
 一方、如信は混乱を収拾するとともに、陸奥の大網(現・ 福島県古殿町 )の草庵を拠点に、東北地方でも布教活動しました。
 親鸞は90歳で死去しましたが、かれは法然が説いた専修念仏の教えを継承・発展させただけで、独自の教義を主張し、教団を形成する意図はなく、各地を歩き回って布教するため、施設も教えを説くための道場のみで、本格的な仏寺建立・仏像安置はありませんでした。
 
‐大谷本願寺
 大谷廟堂建立の23年後の鎌倉後期には、親鸞の容姿をした仏像(御影像)を安置し、仏堂化するようになり(大谷影堂)、その26年後の鎌倉末期には覚如(かくにょ、親鸞の末娘・覚信尼の孫、3代目住職)が大谷影堂を寺院化して本願寺と命名しました。
 当時は各地に親鸞の弟子達の教団が複数散在しており、覚如は本願寺のもとに統合・組織化しようとしましたが、うまくいきませんでした。
 また、延暦寺の影響力のある京都で、独自の教団を打ち立てるのは困難なため、本願寺は延暦寺傘下の青蓮院(しょうれんいん)の末寺になることで、かろうじて存続が許可されていました。
 室町前期の覚如晩年から善如(ぜんにょ、覚如の子、4代目住職)の時代に、堂内の御影像の脇に阿弥陀仏像を安置するようになり、室町後期の存如(ぞんにょ、善如のヒ孫、7代目住職)の時代に間口・奥行とも5間の平面の御影堂と、間口・奥行とも3間の平面の阿弥陀堂が並置するようになりました。
 しかし、室町末期には蓮如(れんにょ、存如の子、8代目住職、本願寺中興の祖)が布教活動を活発化したので、延暦寺が弾圧するようになり、西塔の僧兵が大谷本願寺を破却、かれは布教活動の拠点を京都から近江(現・滋賀県)・越前の吉崎(現・福井県あらわ市)へと移転させました。
 蓮如は、室町中期に大谷本願寺で存如の長男として誕生し、17歳で青蓮院で出家、そののち興福寺大乗院の門跡(もんぜき、皇族・貴族出身の住職)・経覚(きょうかく、父は五摂家の九条経教/つねのり、母は本願寺の大谷家出身)のもとで修行しました。
 43歳で本願寺8代目住職に就任し、衰退していた本願寺を再興したので、52歳で大谷本願寺が破却され、これ以降教団の拠点は転々とし、一時北陸地方へ退避しましたが、畿内・東海・北陸地方での勢力拡大とともに徐々に畿内へ進出、戦国前期に85歳で山科本願寺で死去しました。
 蓮如はわかりやすい手紙形式の言葉(御文/おふみ)で教えを説くとともに、信者達が寄り集って平等に語り合う場(講/こう)を結成することを呼び掛け、各地で道場が設置されました。
 そこでは本願寺が配布した本尊の絵像が安置され、蓮如の御文が読み上げられたので、親鸞晩年のような異義異端の噴出を阻止しつつ、広く深く庶民に浸透したのではないでしょうか。
 
‐吉崎御坊
 蓮如は、大谷本願寺破却の6年後の戦国前期に、越前の吉崎にあった興福寺大乗院の門跡・経覚(かつての師匠)の敷地を譲り受け、布教活動の拠点とし、周辺一帯には寺内町が形成されました。
 その3年後には加賀の守護・富樫(とがし)氏の内紛が発生、本願寺と対立していた浄土真宗高田派(本拠地は親鸞の弟子・真仏/しんぶつが創建した現・ 栃木県真岡市 高田の専修寺)が弟・富樫幸千代(こうちよ)と結び付くと、蓮如は兄・富樫政親(まさちか)を支援、幸千代を加賀から追放しました。
 しかし、その翌年には戦乱で吉崎御坊が焼失し、蓮如は自分が吉崎にいることで抗争が激化するので、河内の出口(でぐち、現・ 大阪府枚方市 )に退去しました。
 その31年後の戦国中期には朝倉氏(越前/現・福井県東部~岐阜県北西部が拠点の戦国大名)が加賀(現・石川県南部)から越前に侵攻した本願寺勢力を撃退し、その際に吉崎御坊も破却しています。
 ちなみに、加賀は本願寺勢力による一揆(加賀一向一揆)で、吉崎御坊移転の17年後の戦国前期から安土桃山期の石山本願寺明け渡しまでの93年間、本願寺勢力が支配しており(「百姓がもちたる国」といわれました)、吉崎御坊破却後も北陸地方では勢力を維持していました。
 
‐山科本願寺
 蓮如が吉崎御坊から退去して3年後の戦国前期に、京都・大谷での本願寺再建の準備として、山城の山科(現・ 京都市山科区 )に拠点の造営が着手され、その5年後にほぼ完成しました。
 ここから御影堂・阿弥陀堂を主要施設とする御本寺だけでなく、内寺内・外寺内の寺内町と一体で形成され、やがて防御のため、それらを土塁・堀等で3重に取り囲み、要塞化・城郭化するようになりました(当時の戦国武将が採用したのは山城/やまじろで、本願寺の平城/ひらじろは先駆でした)。
 蓮如は山科本願寺のほぼ完成から6年後に隠居し、子の実如(じつにょ、9代目住職)が継承、蓮如は武装化に反対でしたが、実如から教団の武装化を推進し、武士勢力の抗争にも参戦するようになり、証如(しょうにょ、蓮如のヒ孫、本願寺10代目住職)もそれを踏襲しました。
 蓮如の時代はちょうど戦乱への転換期で、これまでは御文や講で本願寺の信者達を対内的に統率していましたが、やがて講で話し合う議題が領主への対外的な要求となり、それが戦乱になると武装化による結集で一向一揆へと発展しました。
 さかのぼれば、鎌倉後期から散在していた農家が集落を形成するようになり、室町前期から南北朝の動乱で領主が弱体化する一方、農民自治による惣村が結成されるようになりました。
 庶民は連帯・連携することで、農業の技術力・生産力が向上し、商工業も発達して好況となり、不況になると徳政(年貢減免・役人免職・債務免除・売却地取り戻し等)を要求、この暴動・反乱が土一揆で(やがて武将が鎮圧)、一向一揆はこの延長線上ですが、武士勢力と張り合うまでになっています。
 蓮如の意思とは反対に、蓮如不在の地域や、蓮如死後の実如・証如の時代には、蓮如が神格化され、その結束は戦国大名による武士達の統率のように強固だったので、本願寺勢力はなかなか鎮圧・大敗しませんでした。
 こうして増強した本願寺勢力が脅威になったため、当初は証如に参戦を要望して味方になっていた細川晴元(はるもと)が、山科本願寺移転から54年後の戦国中期に、法華一揆(日蓮宗)と協力し、山科本願寺を攻撃、焼失・陥落しました。
 
‐石山本願寺
 一方、蓮如は隠居の7年後から海上・河上・陸上交通の要所・摂津の大坂の上町台地に、石山本願寺の造営を着手し、その36年後に山科本願寺が陥落、その翌年には証如が石山本願寺を本山とし、石山本願寺も山科本願寺と同様、土塁・堀・塀・柵等で強固に要害化・城郭化しました。
 証如は本山となった2年後に武士勢力と和睦し、有力武将の娘(元・三条家の娘で細川晴元の養女)を長男の顕如(けんにょ、11代目住職)の妻に迎え入れ、室町幕府とも親密になって体制を強化、顕如の時代は軍事力・政治力・経済力を背景に、戦国大名に匹敵するほど教団の勢力が拡大した最盛期です。
 これを脅威とみた織田信長は、教団と敵対するようになり、本山となった37年後の戦国末期に石山本願寺の明け渡しを要求、顕如と長男の教如(きょうにょ、のち東本願寺12代目住職)は交戦と中断を繰り返し、合戦から10年後にようやく仲介者の和睦を受け入れました。
 顕如は退去・隠居した一方、教如は徹底抗戦の継続を主張したため、顕如は教如と絶縁、それでも教如は石山本願寺に篭城しましたが、やがて仲介者の説得で石山本願寺を明け渡し、その直後に失火で全焼しています。
 
‐天満本願寺
 信長が本能寺の変で殺害されると、仲介者の提案で顕如の教如との絶縁は解消、石山本願寺は畿内の実権を掌握していた豊臣秀吉に明け渡すことになり、秀吉はその跡地に石山本願寺の要害の形式を踏襲し、大坂城を造営しました。
 顕如は、まず紀伊の鷺森(現・ 和歌山市鷺ノ森 、鷺森別院)、つぎに和泉の貝塚(現・ 大阪府貝塚市 、願泉寺/がんせんじ)に教団の拠点を移転していました。
 そして、秀吉は、石山本願寺の明け渡し6年後の安土桃山期に、教団の活動を監視しつつ、浄土真宗信者の経済力・技術力を利用するため、顕如らを呼び戻し、大坂城下の摂津の中島(現・ 大阪市北区 )に天満本願寺を造営させ、寺内町も形成させましたが、ここでは要害化・城郭化は禁止しています。
 大坂城が完成すると、秀吉は 京都市 街改造(城下町化)のため、天満本願寺移転の6年後に京都・堀川六条の現在地を寄進し、本願寺を移転させ(西本願寺)、廟堂も江戸初期には京都・東山大谷の現在地に移転されました(大谷本廟)。
 
‐西本願寺(本願寺)
 顕如と教如は、ともに寺務を執り行いましたが、西本願寺移転の翌年に顕如が死去し、教如が住職を継承すると、教如は石山本願寺で篭城した強硬派ばかりを側近に取り立て、顕如と退去した穏健派を重用しなかったため、教団の勢力が二分するようになりました。
 穏健派は対立の翌年に秀吉へ働き掛け、秀吉は10年後に准如(じゅんにょ、顕如の三男で教如の弟、のち西本願寺12代目住職)に譲位するよう裁定しましたが、強硬派が異議申し立てたので、秀吉はそれに激怒、教如は即刻隠居させられ、強硬派も冷遇されることになりました。
 
‐東本願寺(真宗本廟)
 ところが、裁定の5年後に秀吉が病死すると、徳川家康は准如が関ヶ原の合戦で敵対する西軍に味方したので、隠居させられていた教如に住職を交代させようとしましたが、家康の重臣は教如を支援して巨大な本願寺勢力を分裂させるべきだと助言しました。
 こうして、家康は秀吉死去の4年後の江戸初期に後陽成天皇(107代)の許可のもと、教如に烏丸七条の現在地が寄進され、東本願寺を造営、ここから本願寺は東西に分裂しました。
 
(つづく)