徳川家康は、なぜ京都で関白にならず、関東で征夷大将軍になったのか?まとめ | えいいちのはなしANNEX

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徳川家康は、なぜ天下を取ると「征夷大将軍」の称号を取ったのか。
端的に言えば、武士の親玉が公家の肩書きでは上手くいかない、ということが秀吉による実証実験で証明されてしまった、ということです。
秀吉が、室町幕府の権威失墜によって色あせた「征夷大将軍」ではなく、武家初の「関白」というきらびやかの肩書きを好んで取った、というのは、明らかです。
でも、秀吉は重大な勘違いをしていました。
この国では、「天皇」は世襲ですから、子供でも赤ん坊でも構いません。しかし、「関白」というのは「天皇代行」という仕事をするための官僚であり、これは成人でないと話になりません。
つまり、関白というのは「親から子」に確実に世襲できる地位ではないんです。
だから藤原氏も、「五摂家」というシステムを作って持ち回りにしていたわけで。
これは「将軍」と「執権」の関係に似ています。「将軍」は鎌倉のミニ天皇みたいなものですから、子供でも構いませんが、「執権」は成人でないと勤まりません 。だから北条家は、得宗の当主が幼いときは、分家の人間で執権を持ちまわりしていました。
秀吉は、最高権力者の肩書として「関白」を分捕ったまではいいですが、「関白は世襲できない」ということを忘れていたのが、そもそも失敗なんです。
だからたとえば、秀頼が生まれたからといって、秀次を降ろして秀頼を関白にすることは、当分のあいだ、できません。
幼児じゃあ話にならないんです。成人まで待つのは勿論、「天皇の親代わり」として風格が出るくらいまで歳を重ねなければいけませんし、そのときに「なるほど、天皇の後見ができるだけの立派な人物だ」と皆が納得して、はじめて関白が宣下されるのです。
実際、秀次を切腹させてしまったせいで、他に関白の成り手がなく、空位になってしまいました。
関白はもともと朝廷(=藤原氏)のもので、名前だけでも関白になりたい、という者がわんさかいるのに、それをいつまでも空位のままにしておいた挙句「秀頼が成人したら関白に」なんて、そんな虫のいい予約が効くもんではありません。朝廷ってのは、そこまでナメたもんではないんです。
もし、関ヶ原のときに、大坂城に誰でもいいから「関白」がいたら、状況は全く変わっていたはずです(というか関ヶ原は起きなかった可能性が高い)。この時点で豊臣政権は「バトンを落として失格」だったんです。これは、秀吉の大失敗であり、すべて秀吉の責任です。
つまり、「将軍」でなく「関白」という職を取ったのなら、それを繋いでいく工夫を秀吉はしなきゃ駄目で、それを全く考えずに秀次を粛清してしまった時点で、豊臣家は極端にいえば「何の根拠もない非合法政権」になってしまったわけです。
普通に考えれば、ここでもうもう「駄目」です。
秀次は優秀な武将で、有能な政治家だった、という説もあります。そうだとすれば、クーデターで秀吉を粛清してでも、彼は関白を続けるべきでした(北条義時はそうしました)。
藤原摂関家は、最盛期ですら、兄弟・叔父甥の政争が絶えなかったのは、皆さんご存知の通りです(来年の大河「光る君へ」でやるはずです)。 
同じように「関白」という肩書を取った以上、豊臣家は「内紛」を抱えなければ存続しえないのです。
逆説的な言い方になりますが、「内紛のタネを全部摘み取った」ことは「関白家」として存続するためにはむしろ致命傷だったといえます。
「乱世を終わらせるための肩書」としては、関白ではうまくいかない、いくわけがない。豊臣政権末期の状況を見ていれば、家康でなくてもそれがわかるに決まってるんです。
やはり天下を収めるのは「将軍」でないと、みんなが安心できない。
将軍の子に生まれれば、子供でもバカでも誰にも文句を言われず跡を継げます。
そのかわりお飾に徹すること、政治は優秀な家老たちが集まってやってやればいい。そういう仕組みでないと世の中は安定して平和にはならない。
堅実な家康には、それがよくわかってたんです。
家康は、源頼朝を尊敬し、吾妻鏡を熟読していました。
つまり「長続きする武家政権を作るためには、どうしたらよいか」を頼朝から学ぼうとしていたのです。
ここで「源氏を名乗れば征夷大将軍になれるんだ」とか「清盛が頼朝を殺さなかったから後で痛い目を見た、だから豊臣秀頼は必ず殺さなきゃ」とか、そういうことを学んだんだと言うヒトが多いですけど、そんなのは枝葉末節に過ぎません。
家康が頼朝を模範にした、というのは、「武士の政権を長続きさせるためには、どういう仕組みが相応しいか」という、ポリシーの問題です。
そして論理的な帰結として、「武家政権は、関東にこそあるべきだ」ってことを学んだのです。
平清盛ははじめて武家政権を作ったものの、平家政権は一代で滅び、代わって頼朝が作った鎌倉政権は長続きしました。これは、清盛が京都で「貴族の親玉」になってしまったからです。 
武士というのは本質的に農業経営者であり、「一所懸命」です。自分の領地を保証してくれて、「おまえの土地で生産したものは、おまえのものだ」と言ってくれる指導者を望んでいたんです。
つまり、京都朝廷で貴族に混じって出世したのでは、武士の心は掴めないのです。
頼朝が清盛の「失敗」を反面教師として学んだのは、
「京都から離れた土地に、貴族の朝廷とは独立した政権をつくるべきだ。自分が貴族になっていはいけない。目先の商売の儲けに走らず、第一次産業の従事者の利益を大切にするのが、正しい武家政権だ」
ということです。
頼朝の作った鎌倉政権は、この方針で成功しました。しかし、そのあとを継いだ足利政権は、ことごとくこの逆を行ってしまい、従って権力基盤が安定せず、戦国乱世を招きました。
さて、家康は、いよいよ天下が目前に迫ったとき、かつての平清盛の失敗を、「関白」豊臣秀吉が、まさにそのまんま繰り返していることに気づいたことでしょう。
秀吉には、(たとえば黒田官兵衛や徳川家康のように)自分の小さな領地を守るために命懸けで四苦八苦した経験がありません。つまり、武士の基本「一所懸命」が分からないのです。彼にとって領地というのは「石高」という数字に換算可能な財産にすぎず、「土地の保証を媒介とした主従関係」というものが最後まで理解できていなかったようです。
だから京都の近くで天皇、公家にべったりの政権をつくり、戦争と商売で経済成長していくモデルを構築しましたが、それは大多数の武士の要求に応えるものではなかったんです。
武士たちは「見知らぬ土地を分捕り続ける」ことではなく「今ある領地を確実に守ってくれる」主君を望んでいたのです。

秀吉は、それに全く気づけなかった。
まるで武士ではなく商人の親玉のような政策、いたずらな海外拡大政策、これは平家と同じく一代で潰れるに違いない。
ならば、自分はどうするか、と家康が考えれたとき、当然「頼朝を見習うべきだ」という結論になります。
都の天皇のすぐそばにいて関白だの太政大臣だのという朝廷のトップになるのではなく、「征夷大将軍」つまり遠征軍の長官という肩書きを取って、「ずっと遠征中です」という建前で、京都から遠く離れたところに政府をつくる(これを幕府、と呼びます)。中央集権制を目指さず、武士(大名)たちの土地の支配権を最大限尊重してやる(これを幕藩体制といいます)。商業より農業、海外進出より内政重視。そのためには、京都や大坂ではなく、関東に武士の政府、すなわち「幕府」を作るべきだ、と家康は考えたわけです。
征夷大将軍は、遠征軍の長官のはずです。
なのに、いつまでも都にいるって、おかしいじゃないですか。
そこで足利将軍は、公家としても最高位を分捕りますが、「武家政権としては、だいぶ無理している」体制であることは否めません。

だいたい、天皇とか公家とかは、全く生産しない人たちです。ただ消費するだけ。全国から租税を分捕ってきて、それを元手に海外貿易をやって贅沢品を買う、そんだけの連中です。
武士の基本は農業生産であり、領地の農民がたくさんの農作物を生産できるように日々、心を砕き、領国経営に勤め、ときには領地を守るために戦争をし、つまり、一所懸命に働いているんですよ。
京都の朝廷に混じって貴族になる、ということは、生産より流通で儲けようとする「堕落」の仲間入りをするってことなんです。
足利も豊臣も、その罠にはまりました。そんなのは「武家政権」とは呼べません。武士の心はついてきません。

武家政権が天皇の傍にいるってこと自体が、そもそも間違いだし、「農業生産絶対」という武士のポリシーを危うくします。
流通経済政策に巻き込まれて平清盛、豊臣秀吉と同じ運命をたどりたくなければ、天皇・朝廷とは距離を置き、商業より農業を大切にせねばなりません。
それが幕府であり、幕藩体制なんです。
但し以上はあくまで「ポリシー」、基本の心構えの話です。現実には「経済」を無視して全国統治はできません。
信長・秀吉は京都を抑えることで日本の経済の流れを支配できたから、戦国時代を終わらせ天下を平定できた、これは紛れもない事実です。
家康だって、時代の変化は無視できません。頼朝の時代とは社会構造が違うのは、当たり前です。だから、大坂を「天下の台所」として残し、長崎で海外貿易を「幕府独占」の形で継続しました。これらをがっちり抑えていたから、江戸幕府は長く続いたのは事実です。
しかし、武家政権は、あくまで農業政権ですから、こうしたものに「どっぷり漬かってはいけない」のです。経済は大坂、政治は江戸と、きっちり分ける。流通経済は無視はできなくても、統治のメインストリームにしてはならない、ということです。