承和の変は「藤原氏の陰謀」なのか? | えいいちのはなしANNEX

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平安時代の「承和の変」の解説として

「皇太子恒貞親王に仕える橘逸勢、伴健岑が、皇太子を奉じて謀反を企んでいる、と讒言された事件」

と書いてあるそうなんですが。

「讒言」という単語の意味は、ウソ、あるいは極端に偏向した密告をすることですね。

つまり、「讒言」と書いてる先生は、阿保親王が密告した「橘逸勢と伴健岑が謀叛を起こそうとしている」というのはウソである、橘・伴の二人は無実の罪で処罰されたのだ、と言ってるわけです。

これは独自解釈ではないですか?橘逸勢と伴健岑が皇太子恒貞親王を連れて東国に逃げようと計画したのは少なくとも事実だ、というふうにどこにでも書いてありますから。

これは仁明天皇に対する「謀叛」である、ということで、恒貞親王は廃太子され、橘逸勢・伴健岑をはじめとする恒貞親王に連なる人脈が大量処分された、ってのが承和の変です。「謀叛」というのは天皇に叛逆することですから、つまり「皇太子(の側近グループ)が、仁明天皇に対して謀叛した事件」っていうことになります。

人間関係を整理しましょう。

桓武天皇の沢山の息子のうち、天皇になったのは三人、上から順に「平城天皇」「嵯峨天皇」「淳和天皇」。

平城の息子が阿保親王。

嵯峨の息子が仁明天皇。

淳和の息子が恒貞親王。

平城は上皇時代にいわゆる「薬子の乱」を起こして嵯峨天皇(当時)に負けて失脚したので、その息子の阿保親王には皇位継承権はない。

天皇位は嵯峨→淳和→仁明の順に受け継がれ、嵯峨上皇の指名(ツルの一声)で次の皇太子には淳和の息子(つまり仁明の従兄弟)の恒貞親王ということになっていた。恒貞親王の妻は嵯峨上皇の娘(つまり仁明の妹)なので、嵯峨の娘婿ということにもなる。

ゴッドファーザー嵯峨にしてみれば「一族みんな仲良く」ってことだろうけど、仁明天皇にしてみれば、自分の息子に継がせられないのは不満だ。

そこに目をつけたのが、仁明に妹を嫁がせている藤原良房(大物登場!)。

仁明と妹の間に生まれた息子(道康親王)を次の天皇にできれば、自分は外戚になり権力を握れる。

というわけで、皇太子・恒貞親王を失脚させるために、阿保親王に「橘逸勢と伴健岑が、皇太子を担いで、天皇に逆らおうとしてますよ」という密告をさせた。

これがまんまと当たり、狙いどおり恒貞親王は皇太子を降ろされ、代わりに道康親王(良房の甥)が皇太子になる。のちに文徳天皇となり、良房は摂政に上り詰める。

これは「藤原氏による、他氏排斥の陰謀だ」てことになっている。

橘逸勢と伴健岑が、恒貞親王は仁明天皇にとって邪魔者だから、命を狙われるかもしれない、何か難癖をつけられて殺されるかも知れない、と考えて、親王を連れて東国に逃げようとした。

ただ逃げたって仕方ないわけだから、これはつまり東国で挙兵して、自力で天皇になろうってことだろ、あ~これは立派な「謀叛」である。

ということになってるけど。

これは本当なのだろうか? もしかしたら藤原良房のでっち上げではないのか?

もしでっち上げなら、「讒言」は正しい。

本当に皇太子を担いで東国で挙兵しようとしていたのなら、密告の内容は事実なのだから、これは「やられる前にやれ」ってことで、謀叛は事実と解釈できる。ならば「讒言」と書いた本は勇み足、てことになります。

さあ、歴史の真相は、どっちでしょう。

 

 

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