徳川家康は、秀吉と同じ「関白」になることを望まなかったのか? なぜ格下の征夷大将軍に? 総まとめ | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

家康は関白になることを絶対に望みません。何故ならば、秀吉が関白になって大失敗したのを目の前で見ているからです。

馬鹿でなければ、秀吉の二の舞にはならない、と考えるはずです。関白なんぞになっても百害あって一利なし、これは秀吉が身をもって証明してくれました。

鎌倉幕府がはじめての武家政権といわれる理由は、はじめて「封建制度」によって成立した政府である、ということです。

 「封建制度」とは何か。「御恩と奉公」です。つまり、武士たちの「土地の私有権」を最大限に認めてやり、そのかわりに軍役や賦役という直接労働により将軍(中央政府)に奉仕させる、ということです。

 「封建制」の反対語は「中央集権制」です。土地のすべては理念上は中央政府(天皇)のものであり、すべての土地から税金を取る権利が(理念上は)ある、というのが、「大化改新」以来ずっと、この国のタテマエでした。

しかし、「武士」たちは、それが不満です。

 武士というのは農場経営者のことで、土地を「一所懸命」で守る者のことをいいます。つまり、自分の領地からの収入は一義的に自分のモノであるべきだ、中央政府に持っていかれれるのは納得できない、という者たちが、京都の朝廷の命令を聞くのをやめ、鎌倉に新しく誕生した「鎌倉殿」と呼ばれる武家の棟梁のもとに共同組合をつくった、これが「幕府」と呼ばれるものの本質です。

つまり、「幕府」のもとに集まった御家人、のちに大名と呼ばれるようになる者は、自分の土地については「王様」のようなもので、それが一定の契約関係(戦争のときは自前で馳せ参じます、そのために常に準備します、という約束)を結んで集まっている「分権政府」が、幕府と呼ばれるものです。

室町幕府も江戸幕府も、この鎌倉幕府の原理を引き継いで成立したものです。

天智天皇、桓武天皇、平清盛、後醍醐天皇、こうした「強力なリーダーシップで一代で乱世を纏め上げた人物」というのは、必ず、強力な中央集権志向になります。

国の財産はすべて中央が集めたあとに分配する、それが正義である、と。

 戦国時代を九分九厘まで纏め上げた織田信長、その思想をそっくり受け継いだ豊臣秀吉が「中央集権的な政治」を志向したのは、これはまあ、当然です。

日本中の大名というのはすべて自分の部下にすぎず、自分の大方針に従って領地を治める。上の都合で容赦なく配置転換させられ、統治能力がなければ取り上げられる。こうでなければ、いままで乱世だった国を統一支配できません。

だから、信長も秀吉も、「幕府」という古いシステムを踏襲しなかったのです。カリスマである自分に全部任せればよい、間違いない、というのが、織田政権であり、豊臣政権です。

 

しかし、これは実は、元来の「武士のポリシー」に真っ向から反するものでした。自分の国は自分の考えで治めたい。中央政府に手を突っ込まれたくない。落ち度もないのに他の土地に簡単に移されるなんて冗談ではない。こういう不満が、豊臣政権の末期には溜まっていた、といえます。

みんな、息が詰まる中央集権制はゴメンだ、関白なんていう、武士の心がわからない「商人みたいな貴族」がトップではなく、武士の心がわかる棟梁が治める国がほしい、とみんな思っていたんです。

だから、家康は、「征夷大将軍」の称号を取り、昔ながらの「御恩と奉公」を基本にした「武家政権らしい武家政権」を復活させたのです。

大名(藩)は自分の領地を独占的に治める、税も中央には取られない(そのかわりに参勤交代やお手伝い普請はあります)、中央政治はすべて幕府がやるので諸藩は一切口出ししない。これを「幕藩体制」といいます。

こういう「昔ながらの体制」でないと、武士というのは、安心できないものなのです。

それを復活させたから、「幕府」は長続きした、といえます。

 もうちょっと具体的な説明をするために、話、戻りますけど。

 秀吉が「将軍になりたかったけど、ならなかったのか」それとも「将軍になんか最初からなる気はなかったのか」。これはいつも議論になりますけど、私は前者と考えます。もちろん「源氏でなければ征夷大将軍にはなれない」なんていう大間違いの俗論を述べるつもりはありません。

 

 秀吉だって最初から時代を超越したスーパーマンだったわけではないんで、はじめは「天下を取ったら、将軍になるぞ」って単純に考えていたんじゃないかと思います。

 

 しかし、いざ中央で権力を握ってみると、征夷大将軍になるのはとっても面倒だ、ってことが分かります。足利義昭が、毛利領内の鞆の浦で「われこそは将軍である」って頑張っていたからです(これを「鞆幕府」と呼びます)。秀吉は義昭に位を譲る(形式上、義昭の養子になる)ように交渉したけど断られた、という説は、あながちウソでもないかも知れません。こういうとき、朝廷というのは「義昭の位を剥奪する」みたいな乱暴なことは、やりたがらないものです(世の中なんて、あとでどうなるか分からない、ってことをよく知ってますから)。

 

 そこで、藤原摂関家の相続争いに目をつけて、「じゃあオレが養子になって関白になってやろう」というウルトラCで、最高権力者の肩書きを手に入れたわけです。

 

自然消滅しそうな足利将軍の肩書きを襲ってもカッコよくない、それよりは武家としてはじめての関白とのほうがカッコイイと考えたからでしょう。

日本初の武家関白、カッコいいじゃないですか。

 

そもそも「関白」ってのは、何か。

 天皇は、血統最優先ですから、子供でも病人でも、ときには女性でも構いません。

しかし、摂政・関白は「天皇の親代わり」であり、天皇に代わって政治を仕切れなければ話になりません。

つまり摂関は、親から子へと世襲できないんです。息子が幼かったり器量がなかったりすれば、兄弟や叔父、従兄弟に地位を譲ることになるし、そうなれば戻ってくることは期待できません。藤原道長と甥の伊周のケースのように。

 

 「摂関家」である以上、平和で安泰な長子相続というのは無理なんです。つねに、兄弟・分家が熾烈な競争するのが宿命です。

 実際、秀吉は、養子の秀次に関白位を譲ったものの、その秀次と反目して粛清してしまいました。すると豊臣一族に関白のなり手がいない、という事態になり、なんと「関白を置かせない」という暴挙に出ます。

この時点で、豊臣家は、太閤、つまり前関白のご隠居が、何の根拠もなしに政権を握る、法的根拠のない非合法政権になってしまった、と言えます。

 

 「関白は世襲できない」ということに気がつかず、安易に「カッコイイから」と関白になってしまったのは、秀吉の人生最大の、痛恨のミス、と言っていいかも知れません。秀吉が死んだ時点で、秀頼は関白でもないし、何でもない。内大臣でずっと位が高い家康たちが、忠誠を尽くさなければならない理由は、なんもない、と言われても仕方ない、わけです。

 

 徳川家康は、秀吉が捨てた「将軍」の位を敢えて拾いました。長続きする政権のトップの肩書きは、将軍でなければならない、と分かっていたからです。

そこで、こんどは「将軍」とは何か、ですが。

 鎌倉幕府の実例を見ても分かるように、征夷大将軍とは「関東のミニ天皇」、つまり、事実上の関東独立政権を正統なものとするための象徴君主(御神輿、お飾り)です。

 関東武士たちが、「我々は、京都から派遣された将軍サマの家来でございます」という体裁で組織をつくり、政治を行っていたわけです。

 実際の政治は執権以下、家来どもが全部やりますから、将軍は子供でも病気でも構いません。跡継ぎが優秀かボンクラか、で世の中がしょっちゅう混乱したりする心配もありません。

つまり「跡継ぎ問題でモメる」心配のない、安全確実な組織であり、内乱のない平和な世の中になるためには、やっぱり「幕府」があって「将軍」がいてくれないと、みんな安心できないのです。

 家康が、関ヶ原で天下を取ると、関白には見向きもせず、「征夷大将軍」の位を取ったのはこの理由です。将軍は、子供でもなんでも世襲できる、という前例がシッカリできていましたから、長期政権を作りたければ、こっちが圧倒的に有利だってことを、知っていたのだ、ということです。

 

そして、ここが重要ですが、これは家康が「ワシの子孫たちは、お飾りの『将軍人形』でよい」と腹をくくっていた、ということなんです。

 絶対世襲、必ず長子相続、ということは、将軍は子供でも病人でも無能でもかまわない、ということです。それが「平和」を保つための最適なシステムなのです。

その代わり、政治は有能な家来たちが、寄ってたかってやるしかない、ということになります。

 

つまり、将軍が無能でよいぶん、家来はつねに有能でなければなりません。しかも、ひとつの家に(鎌倉の執権みたいに)権力を独占させてはいけません。そいつが優秀なら将軍の地位を脅かしますし、逆にボンクラだったら政権自体が目もあてられないことになりますから。

そこで、ある一定の格の家臣のなかで、一定の競争、選抜のうえで、能力のある者が選抜され、合議制で政治をおこなう、これがいちばん理にかなった制度だ、ということになります。

これが「老中」です。いわば将軍家のご家老さまですが、「中」は亀山社中とかと同じく「複数メンバーによる合議制」という意味です。

 

 豊臣政権は、カリスマ秀吉にしか操縦できない高性能マシンであり、秀吉がいなくなれば、他の誰にも動かせない代物でした。

それに比べて、家康の作った「幕府」は、有能な家来どもがよってたかって運営するので、運転手が寝ていても問題なく走るんでです。これが江戸幕府が長続きした理由です。

 

秀吉も家康も、どっちも、ホントは源氏でも平氏でもない です(たぶん)、でも、日本人は「そんなのは実のところどうでもいい」と思ってる、けっこう融通無碍な民族なんです。

ちなみに。関白は平安時代から江戸時代のあいだまで、それこそ何十人といますが、すべて藤原氏の本家から出ています(鎌倉以降は「五摂家」と呼ばれる五家の 持ち回りです)。そこに強引に割り込んで、武家で関白になったのは、豊臣秀吉と、その養子である二代目の秀次のみです。秀次が「謀反」の疑いで切腹させら れたあとは関白は置かれず、江戸時代になって五摂家に戻されました。要は、「武家関白による政権は、うまくいかない」、家康にしてみれば、とっとと公家に関白なんぞ返してしまえ、ってことです。

武家は京都でに居座り公家の権益を侵してもろくなことはない。これは室町幕府と秀吉が身をもって証明してくれています。

 

もうひとつ、「関白は、征夷大将軍よりずっと格上の肩書きだ。だから、もし豊臣秀吉の息子・秀頼が関白になれていたら、将軍・徳川家康より格上になれたはずだ」

という人も多いですけど、、それも、ちょっと誤解しています。

 

関白も、征夷大将軍も、ともに律令の規定にない臨時職(令外官)であり、対応した官位はないんです。だから、必ず何か律令にある職を兼務しています。その兼務している職の位がどっちが上か、で「どっちが偉い」かが決まるんです。だから、「関白と征夷大将軍はどっちが格上か」というのは、一般論としては、ありません。
関白は、たいていの場合は太政大臣などの最高位を兼務していますが、たまに内大臣で関白、というような例もあります。


秀吉は「関白太政大臣」でしたから、文句なく最高権力者でした。しかし、甥の秀次が関白を譲られた時点では、内大臣でした。その後、左大臣に昇格しますが、依然として上には太閤であり前太政大臣、従一位である秀吉が君臨していました。
官位というのは「官」と「位」ですが、いったんついた位は官を引退しても、(罪を犯したとかでなければ)剥奪されることはありません。つまり、「関白になったからといって、すなわちいちばん格上になれる」わけでは必ずしもない、ということです。

さて。
家康は、秀吉が生きていたときは内大臣でしたが、征夷大将軍になるとき右大臣に昇格。その空いた内大臣に秀頼が昇格しています(この時点で秀頼はまだ子供ですから「天皇の父親代わり」の関白にはなれません)。三年後、家康が将軍の位を秀忠に譲って「引退」したことで秀頼は右大臣に昇格、かわりに秀忠が内大臣になります。
つまり、官位の昇進は「家康ー秀頼ー秀忠」の順番であり、よほどのこと(謀反が失敗して失脚するとか)がなけれは、この順番は変わりません。

秀頼は現実には関白になっていませんし、すでにもとの五摂家に関白職が戻っている以上はその可能性もゼロですから、ここから先はIFの話ですが。秀頼が家康より上にくるためには、豊臣家が幕府を打倒するとか以外には有り得ない、ということです。
そうではなく、「征夷大将軍・徳川家康」と「関白・豊臣秀頼」が同時代に両立するとすれば、それは家康が秀忠に将軍を譲らず、将軍を続けている場合に限られます。この場合、秀頼は内大臣のままか、家康が右大臣から左大臣、太政大臣と昇格しているか、どちらか、ということになります。つまり、官位でくらべれば「征夷大将軍の家康が、関白の秀頼より上」ということになります。

こうした事態は「ありえない」ことではありません。
実際、徳川の歴代将軍のなかには、生きてるうちに左大臣、太政大臣になってる人もいます。この場合、京都の関白と同格あるいは格上ということだって有り得るわけです。
「関白は将軍より上」ということは、ありません。だから、家康が関白になりたがる必然税も、まったくない、ということです。

 

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