将軍が有能だと国が安定する、麒麟がくる、そんなシステムの幕府は、ダメなんです。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

「麒麟がくる」の明智光秀は、どうやら「将軍病」だというのが分かってきました。
現代人の我々にしてみれば、いや戦国時代の常識からしても、かなりアナクロな思考の枠組みから抜け出していない、っていう様子が、昨日のドラマでどうやら明らかになりました。
武家の棟梁たる将軍が人格者で、それをみんなで支ええば、必ず良い世の中になる、つまり「麒麟がくる」。いわば「麒麟教徒」です。

このドラマに、いままで折に触れてできた描写のなかで「麒麟」という概念を口にするのは皆、十二代将軍・足利義晴と、その周辺にいた人たちです。明智十兵衛の父、それが命を助けた駒ちゃん、三淵や細川など将軍側近、そして善晴の息子である義輝と義昭(彼らはハッキリ、父から「麒麟」の話を聞かされてきたと言っています)。つまり、ドラマに顔も出ていない足利義晴こそ「麒麟教」の教祖様であり、現在その正統な跡継ぎである「麒麟教の教主」は間違いなく義昭である。「麒麟教徒」である明智十兵衛は、義昭を担いで皆で助ければ、筋目正しい世の中が実現すると確信している。

光秀は、この「麒麟教」の宣教師みたいなもんです。朝倉義景も、織田信長も、麒麟教に帰依してくれることを望んでいます。

しかし、織田信長は、どうも、この光秀の布教が「ピンとこない」ようです。信長の考える「大きな国」において、室町幕府再興は一手段にすぎず、目的ではない。信長はもっと違う方法の国作りを考えている。これは「信長教」ともいうべき、別の思想です。
「さあ十兵衛、おまえはどっち教を取る?」
と迫った信長は、ある意味、ルビコン河を渡った、と言えます。

十兵衛は、この信長による新興宗教を拒否しました。

この思想的な差異は、のちに決定的な影響をもたらすでしょう。ドラマの骨格というか設計図が、だいぶ明確に見えてきたような気がします。
十兵衛は、この青臭い理想主義の「麒麟教」から脱却する日がくるのだろうか? それとも本能寺まで、これを引っ張ってしまうのだろうか?

以下、余談ですけど。

国家の指導者が有能な人格者であれば、いい国になる。これを「哲人国家論」といい、理想化・プラトンの思想です。
選挙とか多数決とかによらず、何でも分かってる「哲人」が独裁するのが、良い政治体制である。
しかし、現実にこの思想で長期の安定を築いた国家があったか。残念ながら否です。
なんでかっていえば、「哲人」指導者が出現するかどうかはある意味、ラッキー、アンラッキーの世界だからです。哲人の息子が哲人であるとは限らない、いや、その可能性は極めて低いからです。

それに対して「民主主義」というのは、とにかくそこそこ有能な人材を、選挙なりなんなりのシステムで選び、政治運営を任せるけど、世襲はさせない、というシステムです。選挙なんてのは衆愚のモトですから、本当に人格者が選ばれることなんか期待できない。でも、とにかく、そこそこな人間が持ち回りで政治をするほうが、独裁者の支配よりよっぽどマシである、ということです。

このシステムを部分的・限定的にでもに実現したのは、足利でも明智でも織田でもなく、実は徳川であった、と私は考えています。
たとえば「余ば生まれながらの将軍である」と宣言した、江戸幕府の三代将軍家光は、有効な政策を次々に実施した名君のように言われるけど、実際には政治は家来に任せきりの無能な将軍だった、という説もあります。

江戸幕府の将軍には絶対権力があったかといえば、それは違うんです。
幕府の政治は全部、そこそこ優秀な家来どもが、持ち回りでやる。将軍は老中の上げてきた決定事項を、原則としてそのまま承認する。
だから、室町幕府のように、代々の将軍が有能か無能か、みたいな不確定要素で、日本の政治がよくなったり悪くなったりはしない。
これが、家康と秀忠が二代かけて確立した、江戸幕府を安定して長続きさせる秘訣なんです。
だから将軍は、子供でも、病気でも、無能でも、一向に構わないんです。

「余は生まれながらの将軍だ」というのは、要するに「自分が将軍であるのは、能力とか何とかが理由ではない、最初から天の意志で決まっていたことなんだ、だからオマエたちのうちでオレより能力があると思ってるヤツがいても、将軍にはなれないよ。もう武力で勝ったヤツが天下を取るって時代じゃないんだよ」って意味です。
つまり、「オレ無能だけど、何か?」って言ってるんです。

将軍には能力は要らない、優秀な家来どもがよきにはからうから文句いうな、という意味の宣言だと解釈したほうがいい。もちろん家光が自分で考えたわけじゃないでしょう。誰か有能なスピーチライター(それこそ知恵伊豆あたり)が草案を書いてるに決まってます。家光、まさか「オレは無能だ宣言」を堂々をやらされた、とは思いもしなかったでしょうけど。

「よきにはからえ」というのは無能な馬鹿殿の決まり文句のように思われがちですけど。
実のところ、名君というのは「有能な家来たちの仕事を邪魔しないひと」のことなんです。中途半端に有能で意欲的な殿様というのは、むしろ危ないんです。

このドラマの足利義昭は、多分、先々そういう将軍になっていくんだろうな、と考えた次第です。

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