松平定信が、商品作物の栽培を禁じたのはなぜか?
商品流通経済が発達するのは、幕府=武家政権にとって命取りだからです。
江戸時代の経済モデルは、農民は生きるための米作に専念し、自給自足で物価の変わらない社会をいつまでも続ける、というものです。富を蓄えてもっといい暮らしをしたい、という考えは「罪悪」だと考えられていました。
米以外の商品作物というのは、まさにこの「贅沢品」であり、社会の基幹である米作を減らしてまで贅沢品を栽培すれば、それを取引することで経済活動が活発になり、物価は慢性的に上がり、固定給の武士の生活はどんどん苦しくなり、やがて「誰も米を作らなくなる社会」がやってきて、破綻する。これが、江戸時代の伝統的な経済思想です。
ところが田沼意次の時代に、「邪道な経済発展政策」が推し進められ、日本はとっても悪くなった、と松平定信は考えていました。そこで、米以外の贅沢品を栽培することは悪いことだ、罪なことだ、反社会的行為だ、という意識を、強烈に農民に植え付けようとしたのです。
現在では「景気がよくなる」というのはとてもいいことと考えられていますが、江戸時代にはそれは「悪」だったんです。
松平定信は、近年では(開明派というわれる)田沼意次との比較で、低い評価をされることが多いですけど。彼は彼なりの思想と信念を持った政治家であることだけは確かです。
この件については何度もひつこく書いていますので、よければここを。
定信は、鬼平犯科帳の長谷川平蔵の上司ですけど、実は定信は鬼平をあんまり好きじゃなかった、らしい、てな話を書いてます。