外様大名の分家が、旗本になったり、幕府の役職についたりしていることがあるけど、なんでだろう? | えいいちのはなしANNEX

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「譜代」「外様」という区別はあくまで大名の分類であって、「譜代旗本」と「外様旗本」という区分はありません。

「譜代大名」というのは関ヶ原の前から徳川に臣従していた大名、外様は関ヶ原のあとに臣従した大名、という説明がよくなされますが、これはとても誤解を招く表現です、なんだか、締め切るに間に合ったどうか、早い者勝ちで待遇が変わる、みたいに思いがちですけど、そういうことじゃあないわけで。


これは、こう解釈すべきです。「徳川が天下を取る前から大名だったものは外様大名、徳川のおかげで大名にしてもらったものは譜代大名」。
浅野、池田、秋月といった大名の本家は、織田や豊臣のおかげで大名にしてもらった、あるいはそれより昔からすでに大名だった者で、徳川にとっては「関ヶ原で味方してくれたお客様」です、なので外様です。
浅野家の分家が一万石未満だとして、これが浅野家の内部で遇されていれば、本家に付属した家来または家臣です。しかし、これが将軍の直臣としてとりたれられれば、本家から独立した「旗本」ということになって、広島なり鳥取なりのもとの地元ではなく、江戸の屋敷に常駐する存在になります。彼らはもとの浅野本家、池田本家と精神的・儀礼的な繋がりはあっても、立場としては本家と対等の、独立して将軍に属する「旗本」ということになるんです。
そして、この旗本が、のちに加増されて一万石以上をもらうと、これは「徳川のおかげで大名にしてもらった」ということなので、譜代大名扱いになる(こともある)のです。すると幕府の役職にも就けるということになります。八戸の南部家の分家出身の「南部直政」という二万石の大名が、綱吉の側用人を勤めていた時期もあります。
このへんには成文法の決まりというのはありません、そのときそのときの事情で変わってきますが。


「譜代」というのはずっと昔から代々の家来であるという意味に間違いありません。しかし江戸時代の途中で取り立てられて旗本になる、さらに出世して大名になる、という例もいっぱいあります。たとえば柳沢吉保なんかそうですよね、彼の先祖は武田の家臣だったといい、どう考えても「三河以来の譜代」ではないわけですが、それでも将軍綱吉に抜擢され、旗本になり、大名になり、側用人になり、大老核れば典型的な「譜代大名」になるわけです。

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