聖徳太子の子、山背大兄王の一族を滅亡させたのは、軽(孝徳天皇)です。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

山背大兄一族を攻撃した主犯は軽王、のちに大化改新でトップに立った孝徳天皇です。

山背事件が蘇我入鹿の指揮、または教唆によって行われたというのは、あくまで後世の歴史書の記述で、実は何の証拠もありません。

軽(カル)はかなりの野心家で、自分が天皇になるために邪魔になる人物を順番に消していく、リチャード3世みたいな奴です。入鹿暗殺の時点ですら、中大兄は単なるパシリに過ぎなかった、と言えます(中大兄がのちに力をつけて孝徳を追い落とすのは、また別の話)。

山背殺しに鎌足が(手下として)一枚噛んでいた可能性は高いでしょう。それが、焼失した法隆寺がのちに藤原氏の財力で再建された理由でしょう。

聖徳太子が最初に建てた法隆寺は焼失しています(若草伽藍、と呼ばれます)。現在の法隆寺は、かなりあとになって「聖徳太子の徳を慕う人たち」(たぶん、聖徳太子一族滅亡の経緯について後ろ暗いところのある藤原一族)によって建てられた、2代目です。

もとの法隆寺は、当時の政治の中心地ではなく、聖徳太子が私的に住む宮殿のあった斑鳩にあります。後年の聖徳太子は政治的な実権を失い、いわば郊外に引きこもっていた、とも言われています。つまり、法隆寺が建ってるのは、飛鳥時代にも田舎なんです。

その法隆寺が焼けるとすれば、他からのトバっちりでは有り得ず、聖徳太子一族をピンポイントで攻撃した場合くらいでしょう。

なんにせよ、奈良の中心にある東大寺や興福寺と違って、2代目法隆寺には、だれかがたてこもって焼かれるってことがなかった。だから法隆寺は「現存最古の木造建築」として残っているんです。

ところで山背って、天皇になる器だったのか…?

すいません、それは私、どうでもいいです。

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