西郷隆盛は「尊王攘夷派」なのか? ならなぜ長州と敵対していた? | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

西郷隆盛は尊王攘夷派のはずなのに、どうして蛤御門で同じ尊王攘夷の長州を排除するために働いたのか?

って、ちょい待ち、西郷が尊王攘夷派だって、誰が言った?

尊王でない人間なんて日本中に一人もいません。薩摩も、長州も、幕府も、会津も、自分は天皇のために働いていると信じて疑っていませんでした。その天皇個人は当時、幕府に政治を委任することがよしとしていました。

尊王は天皇を尊ぶということで、日本人なら当たり前の基本思想です。攘夷というのも、外国に支配されるな、という当たり前のスローガンで、その手段として、外国船を闇雲に砲撃しろ、問答無用で外国人をぶったぎれという過激なやつから、今は戦争しても勝てないから商売して富国強兵して外国に対抗しようという考えまで幅広くありました。そのために幕府を支えるか倒すかも、また別の、方法論の問題です。つまり「尊王攘夷=倒幕」ではありません。

西郷は島津斉彬の薫陶を受けていて、思想的には斉彬の忠実な臣下です。その斉彬は開明君主であり、日本は海外と広く交易して力を蓄えるべきだと信じていました。

それが、とにかく外国をやっつけろ、というゴリゴリの「攘夷派」である水戸斉昭と組んでいたというのが、オトナの世界の不思議なところですが、要は「幕府絶対主義者」である井伊直弼と対抗するために方便で連立していた、言い方を変えれば「野合」です。

井伊にしたって別に「開国派」というわけではありません。幕府体制を維持するために、方便として開国という選択肢を選んだだけです。本来は井伊こそバリバリの保守主義者です。しかし政権担当者ですから自分の思想は二の次、現実的に出来る政策を選んだってだけのことです。開国が信念とか正義とか思っていたわけでもありません。

要は「尊王攘夷」の対義語を「佐幕開国」と思い込むから、話が見えなくなるんです。

薩摩藩は、最初は幕府を補佐して日本を良くしようと考えていたけど、いつのまにか討幕になった。べつに変節したわけではありません、手段が変わっただけです。「攘夷」とか「開国」とかも手段に過ぎませんから、途中で簡単に変わります。

 

西郷隆盛が個人としてどういう思想を持っていたかというのは、一言では言えないでしょうが、簡単に「尊皇攘夷派」なんていうことはできません。一人の人間の思想が生まれてから死ぬまで一貫してるなんてことはありません。ましてや「藩」という組織ならなおさらです。

あなたもスタンプをGETしよう