家康が関東に移封されたのは、秀吉の「日本総活躍政策」の目玉なのである、というなかなか独自の論 | えいいちのはなしANNEX

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秀吉は実は、家康を日本統治のパートナーとして、ものすごく頼りにしていた、と私は考えています。

家康の関東移封に際し、本拠地に江戸を指定したのは秀吉であるとも言われており、これは「草田舎」の江戸を開発させることで家康の力を削ごうという嫌がらせだ、などとよく言われますが。

私は、これは違うと思います。
なんでか。江戸と大坂は、ものすごくよく似ているからせす。
湾の奥にある低湿地のなかに浮かぶ町を、大規模土地改良と都市計画によって、大都市に生まれ変わらせる。
これはまさに、秀吉が大坂でやって成功させたことです。

「家康殿、日本のために、東にもうひとつ大坂を作ってくりゃー」くらいの意図が、秀吉にはあった。
もちろん、そのためには、関東をバラバラにして何人かに分け与えたのでは。到底無理です。江戸の低湿地を沃野に変えるためには、河川の大規模な改造が不可欠だから。なので、関東全域を、一人の実力者にドーンと任せなければならない。
これをやれるのは家康しかいない。家康に任せるなら、根こそぎ引っ越して関東に全力を投じて貰わなければならない。
なんなら、東日本の支配を家康に丸投げしても構わない、くらいの国家構想でいたんではないか。関東を「家康王国」にすることこそ、秀吉の狙いであった、とすら言い切っていいんではないか。

こんなこと言うヤツは、滅多にいないと思いますが。
秀吉が外様大名にしたのは、もとの本拠地から加増と称して苦労させて力を削ごうというイジワルばっかだ、と以前に書いたことがあります。

上杉は越後から会津に飛ばされ、黒田は播磨から九州に飛ばされ、伊達は米沢から仙台に飛ばされた。これみんな秀吉のイヤガラセ、と解釈することはできます、むしろそのほうが自然です。

しかし、自分で書いておいてナンですが、こういう異動を恨みに思うか、チャンスと見るかで、それぞれの武将の将来が決まるといってもいい。

実際、伊達政宗が新しく本境地にした仙台は、規模は小さいながら大坂や江戸ととても良く似た地形であり、事実、仙台は奥羽随一の大都会に成長しました。米沢にいたままでは、伊達はそこまで勢力を伸ばせなかったでしょう。

というか、日本全体の発展のために、伊達の仙台移封がどんだけ貢献したか。秀吉の「日本総活躍政策」は、結構、当たっていたんじゃないでしょうか。

九州で五十万石やるぞ、と言われて慌てて断った、といわれる石田三成などは、やはり所詮それだけの人物です。

とにかく。
秀吉による大坂の街づくりの成功を目の前で見て知っている家康が、江戸で同じことができないと思うはずがない。むしろ意気に感じたんではないかな、とすら思います。なにかとブツブツ言ってみせたのは、家臣たちの不満を吐き出させるガス抜きのためでしょう。
秀吉だって、天下を取ってうれしいはずです。いや、秀吉の性格からいって、舞い上がってるはずです。これから日本をどう盛り上げていくか、アイデアに溢れていたはずです。

地位奪われないようにひたすらディフェンスしていこう、危ないやつをどんどんつぶしていこう、なんて考えてたのたら、ガッカリです。

秀吉はそんなちっさい人物ではない、と思います。てゆうか思いたいですね。


 

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