真田幸村の父親・昌幸がもし大坂の陣で生きていて指揮を取っていたら? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

真田昌幸なら、大坂の陣で勝てたんじゃ、って言う人がいますが。

無理です。

豊臣が勝つのは、どうやったって無理です。誰が指揮官だとかいう戦術的な問題では、まったくありません。

真田信繁(幸村)が善戦してと言われますが、彼の目論見は要するに、頑張って頑張って局地戦で勝って見せれば、「豊臣恩顧」の大名が考え直して大坂方に味方してくるはずだ、っていう発想です。

残念ながら、浦島太郎です。

信繁(幸村)は、九度山村に幽閉されてるうちに、世の中がすっかり変わっていることに気がついていないんです。

若い頃から大坂に出てきて、中央政界の動きを中枢に近い位置でつぶさに見てきた、「頭の柔らかい」はずの信繁(幸村)でさえ、長年山奥に幽閉されていて世の中の変化を実感できず、脱出するとすぐに大坂城に入ってしまった。そこで待っていたのは「世間にはまだまだ豊臣に心を寄せる大名が山のようにいる」と信じているアナクロなエライサンばかりです。

せめて一年くらい日本じゅうを流浪するなりしていれば、世間の雰囲気がガラッと変わっていることに気がついていたでしょうし、そうすれば大坂城になんか入らなかったかも知れません。

真田昌幸は、草刈正雄のお陰でだいぶ大物扱いされるようになりましたけど。彼が関ヶ原から大坂の陣までのどういう状態で長生きしてるという設定か知りませんが、甲斐信濃の山奥からほとんど出たことのない「小さな城で戦うのが上手なだけ」のオヤジに、何ができるかといえば、息子よりさらに無理でしょう。

彼が知っているのは、関ヶ原の時点の、(東軍と西軍)がそれなりに対等に近い状態で向かい合っていた世の中です。

大坂の陣の時点では、すっかり、変わっています。

日本中の大名は、すでに、全て幕府体制に組み込まれて、その地位に満足しています。つまり、すでに徳川の恩顧を受けてしまっているんです。いまさら、大坂の豊臣秀頼に天下を取り返して欲しいなんて思うやつは一人もいません。

大坂城に集まったのは、幕府体制から弾かれた牢人だけです。幕府から所領を安堵されている大名には、大坂の味方をする理由はもはや全くありません。「豊臣恩顧の大名」なんて、もはや、どこにもいません。

大坂の陣は、すでに豊臣と徳川という対等の戦いではなく、「幕府軍対謀叛軍」の戦いです。謀叛に味方をするまともな大名はいません。

いくら大坂の籠城戦で勝っても、援軍はどこからもきません。

城を守る戦術が多少上手なだけの真田昌幸に、できることは何もありません。

何をもって「大坂の勝ち」とするのか、勝利条件を理性的に設定していた人間が、大坂城にいたのかどうか、ってことです。

家康はすでに隠居であり、将軍は秀忠であり、秀忠は無能ではなく実はなかりヤリ手の二代目であり、全国の大名は将軍個人にではなく幕府という組織に忠誠を誓っており、その幕府の体制下に降ることをあくまも拒否して生き延びる道は皆無である。

仮に家康と秀忠が隕石に当たって死んだとしても、三代将軍が立って老中たちが寄ってたかって補佐するだけで、幕府は瓦解しません。幕府はすでに完成しています。

この状態で、いくら城を守っても、「勝ち」は、ありません。

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