司馬遼太郎先生の戦国時代を題材にした小説は、
国盗り物語→新史太閤記→関ヶ原→城塞
の順番で読みます(全部、新潮文庫)。つまり、信長、秀吉、家康、という「本紀」を読んで、そのあと「播磨灘物語」(黒田如水)や、「箱根の坂」(北条早雲)などの「列伝」に行くのがセオリーです。
「覇王の家」は、ちょっと本筋から外れた特殊な長編なので、関ヶ原、城塞で悪どい家康を堪能してからのほうがよいです。
司馬遼太郎先生は、バリバリの大阪人です。
大阪人が豊臣を愛し徳川を憎むことは、阪神タイガースを愛し読売ジャイアンツを罵倒することと同じく、骨の髄からの郷土愛の発露というべきで、これはもう、とやかく言う筋合いのことではありません。
司馬遼太郎の小説に出てくる徳川家康は、いわば「悪役」という覆面を被った悪役レスラーのようなものです。
それは司馬遼太郎演出が見事にハマった、ということです。悪役がほんものの悪党に見えたのなら、興行として大成功です。
「覇王の家」は、この悪役覆面レスラーの家康を、悪役の仮面を脱がせて主人公にしてみたらどうなるだろう、という実験作です。
敵役を振られているときはあんなに憎らしくギラギラ輝いて見えた家康が、主役になって覆面を脱いだ途端、意外な小心者だったり結構いいやつだったりする、わけですが、どうも、あまり面白いキャラクターになっていません。「関ヶ原」の家康ほどには読者をワクワクさせてはくれません。ま、仕方ないです、司馬先生にとってアウェーだから。
人は、面白いモノの影響を受けるものです。
司馬遼太郎はエンターテインメント小説家として大きな存在だったのは、圧倒的に面白いからです。山岡荘八より、海音寺潮五郎より、素人には司馬遼太郎が圧倒的に読みやすいんです。だから、後続の作家に多大な影響を与えています。なんとなく、歴史小説の世界で、司馬遼太郎の視点がスタンダードになってしまっています。
だから、徳川家康は悪党だ、と信じて疑わない日本人が量産されて、今日に至るわけですが。
歴史ファンの多くがアンチ家康で豊臣贔屓、石田三成贔屓になるのは、ひとえに司馬遼太郎先生の「大阪バイアス」のお蔭、ということは、頭の片隅に置いて、楽しんでください。
司馬遼太郎は歴史の先生ではなく、小説は史実ではないです。国盗りから城塞まで読めば戦国時代の真実が全部分かったような気分になります。みんななります。私もなりました。
それは、錯覚です。
「新史太閤記」は賤ヶ岳で、「覇王の家」は小牧長久手で終わっています。豊臣贔屓の司馬遼太郎先生は、秀吉が暴君と化した晩年を長編として体系的に描いてはいないんです。「関ヶ原」は秀吉の最晩年からはじまっています。このへんの時期を埋めるには「豊臣家の人々」(中公新書)がいいです。秀吉に溺愛されたり振り回されたりする一族(養子含む)の悲喜劇です。ここでも秀吉本人は悪くかかれてはいませんが、周囲の翻弄される人々から、秀吉という存在の罪深さ、みたいなものが浮き彫りになる仕掛けです。