丹羽長秀はなぜ、なかなか「方面軍司令官」になれなかったのか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

武将には二種類います。

a,主君のそばにくっついていて、全国戦略と作戦、兵站補給を担当する「参謀」の役目。

b,一隊を率いて遠征し、敵の領地の切り取りを担当する「方面軍司令官」の役目。

織田信長の軍団でいえば、aが丹羽と明智、bが柴田、滝川、羽柴、です。

豊臣政権の軍団でいえば、aが石田や大谷、bが加藤、福島、などということになります。

このふたつは、役割分担が違います。

一見するとb方面軍司令官のほうが、格上で華やかに見えますが、aは主君の戦略参謀として、事実上、bに命令を出す立場になりますから、こちらのほうが実は「格上」なんです。

もちろん、これは明確に分かれているわけではなく、aの武将も戦争はしますが、どちらかといえば遊撃隊のような役割で、bの応援のような形で戦い、ヤマ場が終わればまた信長の近くに戻ります。

丹羽長秀は、安土築城の惣奉行を務めていることからもわかるように、「前線での戦闘の働き」よりも「側近としての政治的な活躍」のほうが期待されていたわけです。重臣たちの中でただ一人、信長から「長」の字を貰っているわけですから、丹羽長秀は「側近ナンバー1」であり、家臣団の中でも事実上は格上であることは、誰でも知っています。

ちなみに明智光秀も同じタイプで、人脈の広さや経歴から、外交戦略を主に担当していた、といえます。

しかし、本能寺の頃から、情勢が少し違ってきます。信長のなかで、aの武将の必要性がだんだん薄くなってきた、という感が否めなくなってきたんです。天下統一を間近にし、「面倒な政治外交などなくても、力で押し切れる」という意識が強くなってきたのでしょうか。明智、丹羽の両参謀に「もう俺の近くにいなくていいから、遠征軍に参加して、前線で戦え」ということになったわけです。

きっかけは、明智が担当していた四国外交の「梯子外し」からきています。ここまでの北陸、関東、中国の「三方面作戦」が、四国が増えて「四方面」になってしまった。手が足りなくなった、というのもあるでしょうが、丹羽が四国方面軍の副将(名目では信孝が上)にされ、明智が中国方面軍の副将(先にがんばってる秀吉が上)にされた。これを、本人たちはどう思ったか。

ワンマン・カリスマ経営者によくあることですが、信長は「単なる配置転換」だとしか思っていなかったでしょう。しかし、側近であった者にとっては、方面軍に配置換えは事実上「左遷」なんです。

明智光秀にとっては、自分がやってきた四国外交を潰された上での配置転換ですから、これは明確に身に応えていたはずです。その彼が突発的に何をやらかしかは、皆さんご存知のとおり。

ですから、丹羽長秀だって、「彼は信長の親友みたいなもんだから、信長に不満なんか持つはずがない」って本当にいい切れるのか? そこんとこは、ちょっと邪推したい気持ちもあります。もちろん「本能寺は丹羽が黒幕?」とまで言うつもりはないですけど、ひとつ順番を間違えれば、丹羽だって、衝動的になんかやったかも・・・。というのは、ちょっと悪魔的な魅力のある想像ではあります。

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