平清盛はなぜ福原に遷都しようとしたのか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

平清盛が「貿易立国」を目指したからです。
清盛の生涯をかけた大事業が「大輪田泊」の建設。現代の神戸にあたる場所に大貿易港を建設し、ここを拠点に宋と貿易し、その利益をもとに日本の商業活動を活発にして日本中を豊かにしよう、という、理想に満ちた国家改造プランです。
これを推進するためには、建設中の大輪田泊(港)のすぐ近くに根拠地を定めたほうがいいに決まっていますし、いざ貿易が軌道に乗れば、港と大消費地(=都)の距離が近いほうが有利に決まっています。
壮大な国家計画に基づく福原遷都だったわけですが、この理想を理解できる貴族はほとんどいなかったのは当然です。彼らは「いままで通り、地方の農民を収奪すればいいじゃん」という発想しかなかった。なんか新しいことをやって自分たちの既得権益を侵そうとする平家政権への反発が強かった。なので福原遷都は一向に進まず、やがて挫折します。彼ら旧貴族層がのちに作った「平家物語」のおかげで、清盛は気まぐれの暴君とされ、福原遷都も清盛の我儘、驕慢のひとつと伝えられてしまったのです。
もし都が福原に無事に遷都し、貿易が盛んになったら、平家政権が続いたか、というのは別の問題です。私は、清盛の政策が「時代のニーズに合わなかった」から、平家政権はつぶれた、と考えています。
本来の支持基盤であるはずの全国の武士階級は、本質的に農場経営者であり「土地が絶対、農業が絶対」という価値観の持ち主です。彼らの利益を第一に考えた政策をとれなければ、それは「武家政権」とはいえず、やがて武士層の支持を失うでしょう。
それはまた、別の話ですが。