江戸幕府の(いわゆる)鎖国政策は、悪政だったのか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

江戸時代といっても長いです。「江戸時代の日本経済」と言ったって、家光のときの日本と、家茂のときの日本では、まるきり状況が違いますから。
あらゆる政策というのは、始めたときは始めるなりの必然性があるものです。誰だって「いい」と信じるからその政策を取るわけで。それが上手くけばその政策も、政権も、長持ちします。


しかし、時代が百年、二百年とたてば、あたりまえですが状況は変化します。政策も、始めた頃のようには有効でなくなっています。時代に合わなくなったならば、やめるしかありません。
いわゆる「鎖国」という政策も、そういうものです。この政策が成功したからこそ、江戸幕府は二百六十年続いた。そして、この政策が社会に合わなくなったから、江戸幕府は倒れた。

まず、日本は「鎖国」してはいません。が、幕府が海外交易を独占し、海外交流を大きく制限していたのは確かですので、ここでは「いわゆる鎖国」と言っておきます。
 江戸幕府が、どうしてそういう政策を採ったか。それは、徳川氏が天下を取ったときのマニフェストだったからです。
 朝鮮出兵の失敗をうけて、秀吉なきあとの「日本の進むべき道」をどうするか、二つの「政策」が対立していました。
ひとつは「成長派」。これに懲りずに、経済発展を続けて、みんなでドンドン豊かになろうよ。
ひとつは「安定派」。身の丈にあった経済規模を維持し、エコにロハスに穏やかに生きていこうよ。
 貿易を発展させ、経済が成長すればするほど、不労階層である武士は相対的に苦しくなります。それを解決する方法は、武士の雇用を維持する、つまり「戦争し続ける」しかありません。これがA案。
 経済成長を抑え、農業中心の国で、ムダなくムリなく争いなく、エコに生きる。商業発展を押さえ込んで物価があがらないようにする。限られたパイを奪い合うのでなく分かちあう。これがB案。
A案とB案が争って、結果、B案が勝ちました、というのが、「関ヶ原の戦い」です。みんな「朝鮮で懲りていた」のです。地の果てまででも行けるところまで行き、富を増やせ、という行きかたは「ムリだ」と考える者が多数を占めたから、みなが家康に付いた、三成は支持を集められなかった。
この「選挙結果」により成立した徳川政権ですから、「内政重視、インフレ阻止、産業構造の転換」、そして「武士を軍人ではなく官僚化すること」が、マニフェストです。江戸幕府は、こちらの方向に舵を切るのだ、ということが、成立したときから決まっていたのです。「みんなで競争して、海外貿易を盛んにしよう!」という政策を、国民の多くは望んでいません。貿易縮小、段階的廃止は、当然の政策です。
 海外貿易というのは、丸腰の商船がのこのこ出かけていけば、どこでも歓迎されて、平和に大儲けできる、というものではないんです。軍事力の裏づけが必要です。イングランドやイスパニアの商戦が海軍と紙一重なのはご承知の通りです。
つまり、「海外進出する」ことは「武士を軍人のまま雇用維持する」ためには、いいかも知れません。でも、そういう生き方はつねに「右肩上がりの成長」が要求されます。そういう「疲れる生き方」は、しばらくは御免だよ、というのが、日本国民の総意だったわけです。
江戸幕府というのは「農業絶対主義政権」です。日本国内で生産されるコメを食って平和に生きていけばいいではないか。商業で発展しなくてもいいじゃないか。豊かにならなくてもいいじゃないか。
大名が競争して貿易しれ力をつければ、必ず喧嘩を始めます。幕府を脅かして戦争を始めるでしょう、そんな内乱で死ぬより、鎖国のほうがいいじゃないか、そうじゃないかえ皆の衆。
でも、人間は豊かになりたがる存在であり、商業経済はほおっておいてもどんどん発展します。豊かになった江戸時代人は、悲惨な戦争はもうゴメンだ、と考えた昔のことなど知りませんから、「どうしてこの国は海外と貿易して、もっと豊かになろうとしないんだろう、幕府ってバッカじゃないのか、これは悪政じゃないのか」と考えます。
社会が変化すれば、国民の欲求も変化します。
ある時代に「当然の制度」が、時代が変われば当然でなくなる、これはつねにそうです。そして、時代に合わなくなった制度は崩れます。逆にいえば、どんなに「間違った制度」に見えるものでも、出来たときには出来たなりの妥当な理由があったのです。幕末の視点だけで「江戸時代はずっと間違っていた」と考えるのは、間違っています。

 

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