いわゆる大化改新をやった主役は中大兄皇子(のちの天智天皇)ですが、この時期同時に「古人大兄皇子」というひともいました。
大兄って、皇太子って意味じゃないの? どうして皇太子が同時に2人いるの?
まず、大兄は皇太子ではありません。
大王は「健康で優秀な成年男子」であることが大前提であり、なおかつ大王は終身である(死ぬまで大王)なので、「前の大王が死んだ時点で、次の大王に相応しい者を皆で選ぶ」という継承方式でした。つまり、「王の嫡男が、自動的に次の王になる」という「太子」の制度はなかったのです。
「大兄」というのは、同母兄弟の長男に与えられる、次の大王の有資格者という程度の意味の称号です。当時の「大王」は兄弟で相続されることが多かったこともあり、、「大兄」は同時に何人もいました。その候補者中から「いざ」というときにはじめて「誰を大王になってもらうか」を皆で選ぶわけです。
候補がみなオビに短しタスキに長しという場合は、とりあえず妃が大王位を継承します。推古、皇極はこのケースです。
「大王」が「天皇」になったのは誰のときからか、というのは諸説ありますが、少なくとも天智天皇が「中大兄」だった頃には、まだ「大王方式の継承法」であったといえます。
では、聖徳太子こと厩戸王は、どうして「厩戸大兄皇子」と呼ばれていないのか?
答えは簡単、聖徳太子が架空の人物だからです。
と言うと、「そんなムチャな」とおっしゃるでしょうけど。なんで「厩戸大兄皇子」じゃないんだという説明は、これしかありません。
当時は「皇太子」という存在はない、というのはよく言われます。ですから「聖徳太子というのは後世につけられた名前だ」というのは、ここまではいいですね。
でも、モデルになる「厩戸王」というひとは実在したはずだ、と。でも、このひとが大王の後継者的なポジションにいたなら、大兄王子と言われていなければおかしい。でも、そう呼ばれてない。
同じ時代に「押坂彦人大兄皇子」という人が実在するんです。天智の祖父にあたる人ですね(このひとは、大兄といいながら、推古が長生きしすぎたために大王になれなかった)。
となると、厩戸は? 可能性はふたつ。
1、厩戸王は並の王族のひとりにすぎない、政治の実験なんか持ってない。
2、厩戸王というのがそもそも架空。
つまり、「後世に聖徳太子という最大級の称号を与えられる業績を挙げた聖人政治家・厩戸王」というのはフィクションである、ということです。
日本書紀は、「厩戸王」という聖人をやたら持ち上げるけど、その実、大兄と呼ばれる地位だったのか、どの程度の政治権力をもっていたのか、なんで天皇になれなかったのか、他の大兄との闘争はなかったのか、といった生臭い話は一切書いていません。厩戸という名前自体が、日本書紀の創作ではないか?と推測させる余地が充分にアリじゃないか、と思わせる所以です。
あ、これ、ここだけの話ね。猛然と怒るヒトがいるから。日本会議とか。