日本というのは何でもアリの大らかな国です。ここに、日本古来の神様と、大陸から伝来した仏様がいたとして、どっちかを選ばなきゃあいけないのか。いやいや、昔ながらの神様も、先進思想である仏様も、どっちも魅力的だから、一緒に拝んでいいじゃないか、そう考える日本人は、お寺の中に神社を建てたりしちゃうわけです。こういうのを「神仏習合」といいます。
でも、もし「仏教」と「神道」がそれぞれ別個な宗教なら、それは両立するはずはなく、必ず対立しなければいけません。そこを「どう理屈をつけるか」で、いろんなことを考えるわけです。その、いろんな考えのなかで、いちばんもっともらしくて人々にウケたのが、「本地垂迹説」です。「説」ですから、ひとつの考え方、ということです。要は「神と仏を一緒に祀っている」ということを正当化するためにあとから考えた「説明」が、本地垂迹、というものです。
「本地」にいる仏様が、日本人を救うために、特別に「神」という仮のかたちをとってあらわれたのである(権現、といいます)。だから仏と神は実は同じものなんだ、という理屈ですね。
本地垂迹はひとつの「説」ですから、もちろん、別の説もあります。「外国の神がおおもとで、ってのは、気に入らないな」という人は、日本の神のほうがおおもとで、仏のほうが「化身」なんだという、反本地垂迹説(または神本仏迹説ともいうそうです)なんてのを考えるわけです。
いずれも、「神仏習合」という実態を、上手く説明しようとする「説」にすぎませんから、「反」といっても別に根本的に対立しているわけではない。「理屈のつけかたが、ちょっと違う」という程度です。
日本というのは何でもアリの大らかな国です。ここに、日本古来の神様と、大陸から伝来した仏様がいたとして、どっちかを選ばなきゃあいけないのか。いやいや、昔ながらの神様も、先進思想である仏様も、どっちも魅力的だから、一緒に拝んでいいじゃないか、そう考える日本人は、お寺の中に神社を建てたりしちゃうわけです。こういうのを「神仏習合」といいます。
でも、もし「仏教」と「神道」がそれぞれ別個な宗教なら、それは両立するはずはなく、必ず対立しなければいけません。そこを「どう理屈をつけるか」で、いろんなことを考えるわけです。その、いろんな考えのなかで、いちばんもっともらしくて人々にウケたのが、「本地垂迹説」です。「説」ですから、ひとつの考え方、ということです。要は「神と仏を一緒に祀っている」ということを正当化するためにあとから考えた「説明」が、本地垂迹、というものです。
「本地」にいる仏様が、日本人を救うために、特別に「神」という仮のかたちをとってあらわれたのである(権現、といいます)。だから仏と神は実は同じものなんだ、という理屈ですね。
本地垂迹はひとつの「説」ですから、もちろん、別の説もあります。「外国の神がおおもとで、ってのは、気に入らないな」という人は、日本の神のほうがおおもとで、仏のほうが「化身」なんだという、反本地垂迹説(または神本仏迹説ともいうそうです)なんてのを考えるわけです。
いずれも、「神仏習合」という実態を、上手く説明しようとする「説」にすぎませんから、「反」といっても別に根本的に対立しているわけではない。「理屈のつけかたが、ちょっと違う」という程度です。
で、家康が「東照大権現」という「神様にして仏さま」、で、天海大僧正という坊さんが作った「日光東照宮」という「神社にして寺院」に祭られてるのは何故か、って話に繋がるわけですが。