「武烈天皇」は架空の暴君であるなら、継体天皇は誰から天皇(大王)位を受け継いだ(奪った)のか? | えいいちのはなしANNEX

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 日本の古代史で、実在しただろう最初の天皇(大王)はというと、崇神天皇くらいとも言われますが、この「でかい古墳を作った大王たち」を河内王朝とか言ったりします。
 この王朝の最後の天皇(大王)が「雄略天皇」ですが、薔薇戦争でいえばリチャード3世みたいな「悪評紛々」の暴君です。
 ものすごく残酷なこと(ここには書きたくないくらい)をいっぱいいした挙句、跡継ぎを残さず死んだ、最悪の大王。ということになってます。
 「日本書紀」では。

 しかし、この武烈天皇、おそらく架空の人物です。
 次の継体天皇が傍系から出てくることの、必然性をつける必要があった。そのため、「極めつけの悪王」の伝説をその前に置いたのです。
 そもそも武烈天皇という名前自体が、メチャクチャ悪い意味だというのは、歴史学上は常識です。中国でいえば「煬帝」と同じ。「悪逆無道の暴君」という意味なんです。これは諡号(オクリナ)というもので、後世の学者が天皇の業績に合わせて考えたものです。武烈天皇は、あまりに常識ハズレの悪逆無道な振る舞いを繰り返し、人心を離反させて皇統を滅亡させたから、ということで、こういう「最低級」のオクリナを奉られた、というわけですが。
 とはいったものの、武列天皇のやった悪事というのが、中国の史書に出てくるような話とソックリな話ばかりで、ある意味、「あまりに類型的な暴君」なのです。だから、武烈伝説は「作り話」であると考えるのが妥当です。

 継体天皇がまったく違うところから出てきて皇位を継いだ、これは事実上の「王朝交代」です。これを正当化するためには、前王朝が「徳」を失っていたことを強調せねばなりません。
 だから、前王朝の最後の天皇は、暴君でなければいけないんです。中国史でも、王朝最後の皇帝は史書でメチャクチャけなされるのは普通です。王朝滅亡の責任を取らされるわけです。
 しかし、いくらなんでも実在の王にこんなヒドイ冤罪を着せるのは、伝説の「作者」にも、憚られたに違いないです。怨霊になって祟られたらたまらんですからね。だから、全く架空の王に全く架空の暴君伝説をくっつけて、崇神王朝を滅ばした最後の王として、継体天皇の前に置いたのではないか、と考えられます。
 武列天皇が「最低最悪」として語られているのは、ある意味当然です。だって、そのために「創作」された人物なんですから。
 余談ですが、日本史上、「傍系が皇位を継いだ」という事実上の王朝交代が、もう一回あります。そのとき悪玉にされたのが、称徳天皇(女帝)と道鏡です。こちらは実在でしょうが、悪行はほとんど捏造です。
 
 古事記は「欠史十代」といって、24代仁賢天皇から33代推古天皇までは系譜のみで、その事績は全く書いていません(推古の摂政という厩戸皇子を含む)。
もちろん、25代武烈天皇、26代継体天皇についても、何も記述がないのです。
これは何を意味するのかというと、私の推測ですが、古事記の原型が成立したのは実はずっと前(雄略天皇の後くらい)であり、それを天武朝になって整備した際に、「原古事記」にない部分を、天皇の名前だけ列挙して埋めたのではないか、ということです。
その際に参考にしたのは、朝廷が公式に作った日本書紀であった、と考えるのは自然です。
つまり、武烈天皇(という諡号は後からついたものですが)が古事記に名前だけでも書いてあろのだから、モデルになる人物は実在したのだろう、とも言えないのです。

 「武烈天皇」はそもそも日本書紀の編集スタッフ(藤原不比等を中心とするグループ)が、ある必要から「でっちあげた」存在であり、それを名前だけ書き写したのが現存の「古事記」である、という推測ができます。
 となれば、武烈の前の仁賢天皇も実在したかどうか怪しいです。一応、英雄とされエピソードも豊富な雄略天皇の「直系の子孫」にこういう暴君を設定するのもナンなので、ということで、これも架空かも知れません。
 もう、このへんくると、推測に推測するしかないんで、真相は分かりません。案外、継体から王位を簒奪された「河内王朝最後の王」は雄略で、武烈は雄略の「悪い部分」を分離したキャラクターなのかも知れません。
 以上全部、私の憶測です。なんにも証拠はありません。

 系図を見ると、 仁徳天皇の子孫はいくつもの家系に分裂して、相互に攻撃したり滅ぼしたりして、王位を取り合っている感じですね。「日本書紀」はあからさまには書きませんが、この時代の大王家は複数の王家が並立して、のちの「南北朝時代」みたいな内戦状態だったのではないか、という推察もできます。まあ後世からみれば狭い機内のコップの中の争いだとしても。
 その混乱に収拾がつかなくなったおころで、越前から継体が乗り込んできて大王位をかっさらった、というような成り行きが想像できます。もちろん継体は「跡継ぎがいなくて困ったので、頼んで来てもらった」なんていう平和でおめでたい経緯で天下を取ったわけではないでしょう。
 これも、想像ですけどね。