「橘諸兄」は、橘氏の第一人者として藤原勢力と対立していた、っていう見方は正しいか? | えいいちのはなしANNEX

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 藤原氏の事実上の始祖・不比等と、橘氏の始祖・三千代はいわば再婚同士で、双方に連れ子がいっぱいいるわけです。不比等と三千代はお互いの権勢をうまく利用して相乗効果で出世していきましたから、二人の連れ子たちはいわば「同じチーム」です。
 橘氏、という藤原氏に抵抗する氏族がいたわけではありません。蘇我氏や大伴氏に比べれば、藤原氏も橘氏もともにできたたばかりの新興氏族ですが、発足の経緯からいっても、この二つは完全に「同体」でした。


 のちに藤原四兄弟が流行病で一斉に死んでしまったとき、大慌てで政府首班につけられたのが橘諸兄ですが、これは「藤原勢力を守るためのピンチヒッター」であって、橘、と名乗ってはいても自他ともに藤原一族の一人と見なされていた、ということです。


 のちに橘諸兄と藤原仲麻呂が対立したりするのは、いわば「一族の内輪もめ」であって、諸兄がいきなり橘の血に目覚めたってわけではありません。光明皇后が、弟から甥に乗り換えただけです。
 藤原氏には「南家、北家、式家、京家、橘家」があった、くらいにイメージしたほうが正解です。