秀忠は、なぜ上田城攻撃にこだわったのか。無視してもよかったんじゃ? ・・・そうはいかない。 | えいいちのはなしANNEX

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 「真田丸」第三回、真田昌幸(草刈正雄)のトリッキーな曲者ぶりが益々、ありあまっていますな(笑)。とんでもない策士です。まだ信長も出さず、昌幸の政略だけでドラマを引っ張ってる三谷脚本、たいしたもんです。畏れ入りました。だって、面白いし。
 のちに関ヶ原の戦いの際に、中仙道を進んだ徳川秀忠軍は、上田城の真田昌幸を攻撃するも、昌幸の戦略に引っ掛かって日数を喰ったため、決戦に間に合わず、家康に大目玉を食っています。「真田丸」中盤の大ヤマになるはずです。
 実はこの前にも、徳川軍は、上田城の真田昌幸を攻めて失敗したことがあります。昌幸の曲者ぶりは知っていたはずなのに、なんで秀忠は、またひっかかったのか。
無能だから? 真田なんかほおっておいて関ヶ原に向けて前進すりゃあいいのに?

後世の、歴史を知ってる我々が、そういう岡目八目なことをいうのは、反則です。
 中仙道軍は、沿線の敵対勢力を丁寧につぶしながら前進するのが任務ですから、上田攻めは当然の任務を遂行していたといえます。
上田をほおっておいて前進したら、秀忠軍が背後から突かれるとか、江戸との補給を遮断されるとか、面倒なことおびただしいです。
 ですから、小さかろうが大きかろうが、敵を放置したままはまずい。前進するなら、相応の抑えを残さなければなりません。家康が、上杉への抑えに次男の結城秀康を関東に残してきたように。
 秀忠が、それは無駄だと判断しても無理はないです。現実、目の前の真田は、上杉とは比べものにならない小勢なのですから。

 関ヶ原で秀忠が「遅参」したことが「大失態」であったかのように一般に言われますが、そもそも関ヶ原で何月何日に決戦があるから、必ず遅れないように来るようにと言われて別れたわけではありません。
 どこでいつ決戦になるのかなんて、直前になるまで誰にも分からなかったんです。
 それがいきなり「早く来い」と言われて、慌てて急いだけど間に合わなかった、これで怒られたら秀忠は気の毒です。
 でも、秀忠は、むちゃくちゃ怒られました。つづきます。