「真田幸村」が英雄になったのは、何故か。そこには「あの家」の陰謀が・・・というはなし、再録です。 | えいいちのはなしANNEX

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「権力には逆らいたい」という庶民感情は、いつの時代にも、大なり小なりあります。

江戸時代にも、それにのっかった物語が多数つくられた、そのなかで、「真田幸村」を主人公とする講談が、いちばんよくできていた、ということですよね。
大坂夏の陣の当時、リアルタイムで彼の活躍が庶民のあいだで有名だったということではないはずです。
だって、本名すら知られていなかったんですから。


本名は「諱(いみな)」ですから、生きている人間に対しては、めったに使いません。彼の祖父は「幸隆」、父は「昌幸」、兄は「信之」。諱は魂と一緒」という信仰の名残で、この諱で生前呼ばれることは滅多にありません。
ですから、彼が大坂の陣で活躍したとしても、当時の民衆は「真田左衛門佐とかいう浪人の大将が、大坂でスッゲエらしいよ」というふうにしか知られなかったのではないかと推察されます(左衛門佐というのは官職名で、普通はこちらで呼ばれます)。
大名家の当主であれば、のちの諱もキッチリ書き残されるところなのですが、次男以下の、当主にもならず、兄に逆らって敵方についた謀反人として消えていった弟の諱なんかは、実はなかなか分からないものなんです。

ちなみに、真田家が、どちらが勝っても家名が残るようにと、わざと親子・兄弟で敵味方に分かれた、というよく言われる伝説、あれってホントかなと、私は疑問に思ってます。実は身も蓋もない身内同士の相続争いだったのを、後世の講談師がもっともらしい話にした、というのが実はアタリのような気もします。
となれば、真田幸村は、いや、左衛門佐信繁は、真田家にとって、単なる「兄に逆らって大坂方についた、迷惑な謀反人」に過ぎません。
そういえば、織田信長の弟も一般に「信行」と言われていますが、実は生前こう名乗っていた形跡が全くなく、どうやら死後に作られた諱らしいのです。近年になって、残っている手紙などを研究した結果、ようやく「彼は生前、信勝などと署名していた」ことが分かってきたのです。
つまり、真田信繁の場合も、当時大活躍して有名になっても、世間一般は、彼が信繁という名前であることを知らなかった、と考えられるわけです。知らなくても一向に構いません、前田慶次や坂本龍馬のファンは、彼らの諱を知らない人のほうが多いでしょう。知らなくても別に困りません。
真田左衛門佐が、仮に華々しく奮戦しても、「信繁」という諱を知られることなく散っていったわけです。

さて、江戸時代になって、「徳川家康を、あわや討ち取りかけた男」を主人公にした講談を作ろうとする男がいます。
ところが、曲がりなりにも大名の息子である主人公の諱が「不明」というんじゃあシマラナイ。そこで、祖父・父の諱から類推して、真田左衛門佐の諱を「創作」してしまうのです。
真田は代々「幸」という字を継いでいるらしいからキマリ。では、もう一字の「村」は、どこから持ってきたのか。
彼の子孫は実は生き残って、仙台伊達家に仕えています。講談が作られたと推察される、四代将軍家綱の頃の当主は「伊達綱村」、それ以後は代々「村」の字を継ぐことになります。
ここから大胆に推理すると、「真田幸村」が徳川を向こうに回して大活躍する講談が成立した背景には、「徳川だって無敵じゃないぞ」というイメージを流布させたいと密かに願う勢力の代表格、仙台伊達家の後ろ盾があったのではないかと考えられます。
ここに、伊達の殿様から一文字いただいた「真田幸村」という英雄が誕生します。彼が物語で活躍すればするほど、「家康はあわややっつけっれたかもしれない、徳川でない家(たとえば、伊達とか?)が将軍になっていたかもしれない」と、庶民は密かに溜飲を下げることができるわけです。

つまり、「真田幸村」が英雄になったのは、四代将軍家綱の時代以降、ということになります。リアルタイムではなく、ずっと後から、物語の中の人物として有名になったんです。