「桶狭間の戦い」が、天才・信長の見事な奇襲、という「ことになっている」のは、何故か? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

「桶狭間の戦い」で、織田信長は、今川義元の首だけを狙って、一直線に奇襲をかけた、というのは日本人の「常識」です。私の子供の頃は学習マンガでも大河ドラマでもみんなそうなっていましたから、当然そう信じていました。
 しかし、この常識は、近年、否定されつつあります。

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 そもそも、この「奇襲」というストーリーは、「信長記」にもとづくものです。作者の小瀬甫庵は、信長を直接知りません。なので、多くの部分を信長の家臣だった太田牛一の書いた「信長記」に基づいて、あからさまに言うとパクって書いたものです。

 太田牛一のものは記録文書の意味合いが強く、小瀬甫庵のものは脚色が多く、エンターテインメント性が強かったので、区別のために前者を「信長公記」、後者を「信長記」と呼びます。

 で、世の中に流行したのは、圧倒的に後者のほうだったわけです。


 では、「信長公記」は客観中立な書物かといえば、どうも、そうとばかりはいえません。

 最大の問題は、「桶狭間の戦い」についてのウソ。今川と織田の兵力差を、二千対四万五千などと、とんでもなく誇張して書いているのです。 


 信長公記は「実際に見知った人間が書いた一級資料だから、間違いない」と思われがちです。でも、どんな一級資料だって所詮は結果が決まっている事柄を、後から辻褄を合わせて、信長がなるべくかっこよくなるように「編集」されているものであって、リアルタイムの報道ではないんです。
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 実際には、織田と信長の兵力差は、そんなに言われるほどはなかった、と思われます。詳しくは、ここを。
 義元はこのときは、国境付近の砦をいくつか奪取して、尾張に大きく進出しようという以上の意図はなかったものと思われます。清洲城を攻略して信長の首を取ろうとまで考えていたかどうかも疑問です。大将同士が激突する事態をまったく想定していなくても当然です。だから兵力を各砦攻撃に分散し、自身は「桶狭間山」(谷間ではなく丘陵地)のうえに本陣を張っていました。
 信長は、砦の守備にロクに兵をさかず、主力を集めて義元の陣の正面に強襲をかけたのです。これに前線部隊が慌ててしまい、後方に退却する際、本隊を巻き込み、混乱に陥れてしまったのです。
 織田軍にしてみれば、今川軍を押し返せればそれでよかったのに、前線を攻撃してみたら意外とぐんぐん進めて、いつのまにか義元の本陣に到達してしまった、というところが真相ではないかと、最近は考えれられています。

 しかし、太田牛一は、この勝利を「ラッキー」のせいにしたくなかった。天才・信長が逆境を跳ね除けて奇跡の勝利をおさめる、そういう話にしたかったのです。だから、敵味方の兵力差を極端に誇張してみせたのでしょう。「信長天才、信長バンザイ」というふうに、桶狭間の戦いを「美化して脚色」してしまっていることは仕方ありません。最初から天才・信長がすべて計算していたかのような「脚色」が為されたのです

 つまり、信長は「いちかばちかの大博打」を打たなければならないような状況でもなかったし、義元の首を一気に取ろう、とも考えていなかったのです。

 これをさらに小瀬甫庵が脚色します。こんな兵力差でまともに正面攻撃で勝てるわけがない。だから「迂回奇襲」作戦というのを「創作」したわけです。これが日本人のスタンダードになってしまったのです。

 「信長記」と「信長公記」は、桶狭間についての記述は正反対なのですが、「信長偉い」というのが最優先、という意味では一緒です。そういうバイアスのかかった物語を、日本人はずっと信じてきたのです。

 義元が上洛を目指していたというのはウソ、織田と今川の兵力差も誇張、義元が油断して谷間で宴会していたというのも、根拠のない誹謗中傷です。
 冷静に、客観的に、公平に考えれば、今川義元がそんなにバカなはずもないし、信長がそんなに確信持ってイチかバチかの勝負ができる大天才のはずもないのです。

 いきなり今なんでこんな話をしてるかといえば、すべての「資料」は、それを誰が書いたか、をまず考えて読まなきゃいけない、ってことです。文学だろうがジャーナリズムだろうが。

 完全に客観公正な物語、なんてのは、ないんです。必ず、書いた人間の「価値観」というのが、そこに反映されています。

 というはなし、続きます。