来年も天海大僧正が活躍したりするんだろうか(いや、ドラマとかで)。 | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 テレビ東京で、またぞろ「家光は、家康と春日局の子である」というトンデモ説をやってました。

 春日局は明智光秀の親族ですから、家光の光は光秀の光ということになります。

 ついでに、天草四郎は豊臣秀頼の子で、島原の乱の鎮圧を指揮したのは春日局なので(そうなの?)、島原の乱は秀吉と光秀の戦いの「子孫の代理戦争」であり、明智が豊臣に勝った「最終決着」だと・・・うー、そこまで言うかあ。テレ東と東スポは同じ種類のメディアですから、面白ければなんでもいいんですけどね。


 春日局が明智の親族だという話(これはほんと)は、「天海大僧正」の話とセットになってることが多いです。この二人で、徳川時代の「明智の復権」を成し遂げたというはなしですね。うらやましいですね明智光秀、義経ジンギスカン説並みの持ち上げられかたですね。来年のNHK「江」とやらにも出てこないかな、眉毛のない敵役で。


日光東照宮はお寺ではなく神社です。徳川家康は「東照大権現」という神様です。間違いありません。
 と言われても、なんか納得できないでしょう。だって、東照宮を作ったのは「天海大僧正」だと聞いているのに。大僧正というくらいだから僧侶でしょう、それが作ったのに寺じゃないというのは、どういうわけなんだ。
 つまり、こういうことです。東照宮は、元来は神社でもあり寺でもあったのです(正確に言うと、東照宮を中心とする日光山が一大複合宗教デンターだった、ということになりますが)。

 東照宮だけではありません、江戸時代までの日本では、神と仏はフツーに一緒に祭られていたのです。これは、「神様と仏様は本質的には同じもの」という思想(本地垂迹説なんていいます)から来ています。


 天海は、明智光秀が生き延びて変名した者だというトンデモ説はさておき、「天才結界デザイナー」?であったことは間違いありません。江戸の町の神社仏閣を、江戸城が霊的に完璧に守られるように配置したのはすべて天海の仕事である、とまで言われます。その集大成というか、関東のすべてを束ねる「北極星」にあたるのが、東  照宮なのです。
 「東照大権現」という神号も、天海の案といわれます。東照は「東のアマテラス」という意味で、天皇家の伊勢神宮に対抗する「関東武士の祖先神」です。「大権現」というのがオリジナルで、秀吉の「豊国大明神」との差別化を図ったものとされています。「権現」というのは「仮に現れる」という意味で、仏様が神様の姿で出現したもの、です。つまり家康は「仏にして神」なのです。僧侶である天海が、仏教の枠にとらわれず「日本最高の霊的権威」を作り上げようとしたアイデアです。


 「神様」というのは日本人の素朴な祖先崇拝、自然崇拝の気持ちの現われであり、明確な教義をもった「宗教」というものではありませんでした。だから仏教とバッティングすることもなく、フツーに共存できたのです。

 しかし明治時代になり、新政府は「西欧諸国のようにちゃんとした国家宗教を持たないと、バカにされる」と考えました。そこで「天皇を頂点とする、日本古来の神を崇める宗教」というのを急遽整備した、悪くいえばデッチあげたのです。これが「神道」という新国家宗教です。そうなれば仏教とは相容れない別物ということになりますから、全国の宗教施設に「仏教部門と神道部門はキッチリ分離して、別の組織にせよ」という命令が下ります。そこで、東照宮だけでなく全国の寺院が、神社と、寺院に分割され、敷地も分けられました。日光東照宮の隣に「輪王寺」というのがありますが、それです。もとはひとつだったのです。

 ほかにも「比叡山延暦寺」と「山王日吉神社」(山王とはグレイトな山、つまり比叡山、日吉は「ひえい」と読み、日枝とも書きます)というように、大きな寺の隣には必ず大きな神社があるのは、昔はひとつだった、ということです。