えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

日明貿易で「日本国王」と名乗った足利義満は、「自分は天皇より偉い」とアピールしていたのか?

足利義満が作った(通称)金閣は、鹿苑寺の「舎利殿」、つまり釈迦の遺骨を納めたカプセルが屋根の上に載ってる(とうテイの)建物です。

三層になってますが、一階が平安貴族の住んだ神殿作り、二階が鎌倉以降の武家作り、そして三層が禅宗仏殿造で「究竟頂」と呼ばれ、その上に仏舎利カプセルがあり、それに乗っかる形で、聖天子が出現した世に現れる「鳳凰」が飾られています。

このうち、金箔が貼られているのは、二階から上だけです。

深読みすると「貴族より武士が偉く、武士の中でも出家して仏僧になった自分(義満)が偉い、その頂点には鳳凰が乗っているのだから、自分こそが聖天子であり釈迦の生まれ変わりである」って言ってる、わけです。

いや、そこまでは言ってないでしょ、いや、言ってますね。

つまり金閣は、自分こそが理想の君主であり、今こそ理想の政治が行われているいい世の中なんだ、みんな喜べヨロコベ、っていう代物です。

南北朝の争乱を収めて自信満々の義満の顔が浮かんでくるような、あんたトランプですか?っていうような、金ピカな建物です。

この金閣の構造が「日本国」のメタファーで、鳳凰こそが義満であるのなら、天皇はどこにいるのだろう?

いません。

つまり「日本には自分という聖天子がいるのだから、天皇などは不要だ」と言っている、ようなものです。不要と言っても滅ぼそうとかいう意味ではなく、神棚にでも飾っておけばいい、という程度の意識でしょう。

あるいは、仏舎利カプセルが天皇、という解釈もできます。であれば、その上に乗っている鳳凰=義満は、暗に「自分は天皇より上に立っている」と宣言しているようなモノです。

義満は「准三后」となり、皇太子を猶子とし、つまり「天皇の父親」とも言える地位を既に得ています。「太上天皇」の地位を望んでいた、とも言われます(義満が死に、息子の義持が固辞したため、実現はしませんでしたが)。

ここから「義満は足利家による皇位簒奪を狙っていた」という説もありますが。それは現実的ではない、と思われますが。

義満は「天皇家は、自分の保護下にある」という事実を、陰に陽に、皆に示してしています。「俺は天皇より偉いんだぞ」とアピールしていた、と言っていいと思います。

「見はらし世代」

凄い映画だよ、これ。


パンフレット(てゆうより、豪華写真集みたいな)に、団塚唯我監督のサイン貰った。そんくらい、感動した。

いやあ、びっくりした! 終盤でいきなり映画のリアリティーラインがドカンと・・・ああ、ネタバレになるから、よそう。

「カンヌ監督週間」(新人の登竜門みたいな?)に日本から選ばれて出品したものの一つ。

ランドスケープ・プランナーの遠藤憲一 は、仕事で多忙のため家族と心が離れ、妻の井川遥は心を病んでいる。

十年後、妻は既に亡く、娘(木竜麻生)と息子(黒崎煌代)はそれぞれ懸命に暮らしているが。ずっと海外で活動していた父が、帰国して展示会をやることを息子が知り・・・。

この、遠藤憲一サン演じる建築士が設計した大プロジェクトというのが、この映画館の目の前の、宮下パークなんだわさ。これはびっくり。まさに、ここで観るべき映画。

映像には、ホームレスを排除して再開発が進む様子なんかも描かれたりして。

まさに「家族の物語」なんだけど、この遠藤憲一サンが、なあ。染みるんだわ、これがメチャクチャ。人生黄昏な俺世代には、なかなか厳しい話だなあ、と思って観ていた瞬間、ええー!

この上映会主催のELLE編集長さん、プロデューサーさん(遠い山なみの光、も制作してるそうな)、そして団塚監督のトークイベント。これが若いんだ!26とか7とか、初の長編映画だというのは、驚く。

最期に質問、という言葉が終わらんうちに手を挙げまくって、質問しました。渋谷の住人だけに。

「私、渋谷の宮下公園ってとこが、それこそ昭和のあたりはどんな所だか知ってる世代ですが、それがいま最先端の建築になってるっていうのは感無量というか。監督は、世界に発信するなら渋谷だ、という意識があってかも知れませんが、渋谷という街の変化について、実感としてお持ちなんでしょうか」

そしたら、驚いた。

「宮下パークをデザインしたのは、僕の父なんですよ。僕はこの近所の育ちで、スケボー場の隣にホームレス小屋が並んでる公園で遊んでいた子供だったんで、この街が変化していくっていうことの感慨は誰よりもあるっていうか・・・」

あああ、凄く分かった、監督にとって、渋谷の街は自然に、家族のメタファーなんだな。

プロデューサーさんは、東京の街を世界に発信していくなら、渋谷だ、という意図はあったというけど。

監督は、ごく自然に、家族の崩壊と再生を、街のスクラップアンドビルドに重ね合わせているんだなあ、って。

と、そういう理屈はおいといても、独立系の制作映画らしい(つまりテアトル系らしい)なかなか見事な映画です。話し口調はまだ若いけど、この団塚監督、剛腕だ。

シネマ歌舞伎「阿弖流為 アテルイ」トーク付き上映、脚本家中島かずき氏が登壇! 

これは是非モノだ、ってんで、東劇に行ってきましたよ。

この舞台、てゆうかシネマ歌舞伎が、好きなんだよなあ俺。たぶん6回目くらいだ。新感線芝居の歌舞伎翻案なんだけど、これがねえ。カッコいいんだ、男どもが。

市川染五郎(現・松本幸四郎)、中村勘九郎、中村七之助。このねえ、七之助さんが凄いんだ。中村かずきさんが「女形というのは、化け物ですよねえ」と感心していた、くらいの。

 

あとで詳しく書きますが。片岡亀蔵さんの演じる「蛮甲」は、もちろんシェイクスピアの「マクベス」から取った名前だと思ってたんだが!って話。

この話、つづきます。

来年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」では、小栗旬が織田信長です。
おお、十年前のドラマ「信長協奏曲」以来、ですな。
となると、豊臣兄弟の信長も、あんな風な明るく楽しい信長になるのか?
多分、なりません。
「鎌倉殿の十三人」の北条義時が、序盤の好青年が終盤には真っ黒な政治家に変化したように、小栗旬はここ十年でとんでもなく成長していますから。

「信長協奏曲」は、そもそも原作が「少女漫画」です。いや、レディースコミック、かな。

この漫画の作者が、現代の高校生がタイムスリップして、ホンモノの信長と出会い、入れ替わったり、時々戻ったり、協力して天下統一していくという「さわやかBL?歴史劇」です。
この初期設定を成立させるために、筆者が歴史を「曲げた」ポイントはいくつかあります。
まず、信長と明智光秀が、同じ年恰好だということとが最大のポイント。
このへんは、20~30年前には普通に「そうだ」と思われていたところなんですが。
最近の研究はどんどん進んでいるのは御存知の通り、少なくとも明智光秀は信長より6歳ほど上です。ときどき入れ替わるには無理があります。

もうひとつが「濃姫(帰蝶)が信長の愛妻である」ということです。漫画とドラマではかなり印象が違うのですが、何にせよ最終的には信長と濃姫は最後までラブラブです。

しかし史実では、濃姫は美濃征服のころ以降、記録に一切出てきません。一説には早死にしたとも離縁
されたとも言われますが。
だから「麒麟がくる」で川口春奈の帰蝶は、ずっと別居状態ということで、後半めっきり出番が減ったのは、むしろ史実に近い、と言えます。
「信長協奏曲」の原作者は、おそらく司馬遼太郎先生の「国盗り物語」の歴史知識から進歩していない地点で書いてるな、と思わせるものがあります。

もっと大きな嘘としては、ホンモノの信長が「私は幼い頃から身体が弱くて、家督を継いでやっていく自信がない、だから代わってくれないか」ってところでしょうね。
信長の「ガキ大将」的なエピソードは、いろいろ伝わっています。配下の子供を二手に分けて石合戦をやるのが大好きだったとか、池のヌシが見たいといって皆で潜って探したのに見つからなかったんで怒って池の水を全部抜かせたとか。
もちろん、吉法師うつけ伝説は、のちの信長の活躍というか暴れん坊ぶりから逆算して脚色された部分があるかも知れませんが。それにしても「幼い事から体が弱かった」という話は、実際には全くありません。

「信長協奏曲」はフィクションです、って、現代の高校生がタイムスリップする時点でもう大嘘、ホラ話に決まってるんですけど。それにしても「信長と(現代の高校生)三郎が入れ替わる理由」ってのが何かないと話が始まらないので、「実は信長は気弱で、今の自分の境遇から逃げたがっていた」という設定を、わざわざ創作したわけですよね。
なんだかやけに現代的な、高校生のモラトリアム願望みたいな話ですけど。
そうなんすよ。信長協奏曲に出てくる人物たちは、おしなべてみんな「現代の若者のような」思考形態をしてます。大人たちも、現代のサラリーマン的な思考です。
三郎君の組織運営はみんな楽しくのイベントサークルみたいな感覚です。
現実にあんな楽しい企業だったら、反逆者が次々にでてくるはずがないんで。歴史上実在の信長軍団は、過酷なブラック企業であり、家臣たちは常に強烈なストレスに晒されていた、というのは確かなはずです。
いちばん大きくて本質的は「漫画の嘘」は、ここにあります。
楽しい仲良しサークル漫画である信長協奏曲としては、ブラック経営者の信長を描きたくない。主人公はホワイトに描きたい。しかし物語の要請として、本能寺の変に到るように、織田軍団を崩壊させなければならない。
そこで、秀吉が「織田家に深い恨みを抱く、忍者の出身である」という、バクダン設定を仕込んであるわけです。漫画が歴史といちばん違うのは、ココです。
つまり、「信長はブラックだった」という史実を曲げても物語を成立させるためには、「秀吉がブラックである」という架空の設定を入れる必要があったんです。
「信長協奏曲」には、ドラマでは省略されていたものの、原作漫画版には小一郎(秀長)も登場します。常に薄笑いしている、秀吉よりヤバそうな男です。やはり忍者らしいが、どうやらホンモノの兄弟ではなく、後から強引に割り込んできて、秀吉に協力する、というか悪事を唆す、あるいは監視している、不気味な存在です。
この「偽兄弟」が、織田家におけるサークルクラッシャーの役割になるわけです。

「豊臣兄弟」では、まさか主人公兄弟がこんな役回りになるはずがないんで。
となれば、信長も「同じ小栗旬が演じているとは、到底思えない」ものになることが予想できます。
染谷将太、岡田准一と、かなり「とんでもない」信長が続いたところで、さて小栗旬はどう出るか?なんか、物凄く期待しているところではあります。

それはそうと、蜷川幸雄も良かった!「もしも世界が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」

天海も、凄かった。

「ズートピア2」感想!

ディズニーは、こういうの作っていくのが、絶対にいいでしょう。
社是として「多様性」を社会に訴えていかなければならない、という使命感があるってことは、よく分かりました。トランプの推進するような差別政策に命懸けで反対し続けようとする姿勢には、実に尊敬に値します。
しかし、だからといって、人間が演じる物語でソレをやろうとすると、「ウィッシュ」や「白雪姫」のように大滑りして、俺たちの求めているのはコレじゃない、って反発を食います。
だから、原点に戻って?「動物を登場人物にする」べきです。動物の種族の違いを人種や民族のメタファーにする、というのが、ミッキーマウスやドナルドダックで売ってきたディズニーの得意技です。

以下、ネタバレかも知れませんが、予告編見れば、まあそうだろうな、って話ですのでご容赦を。
今回の「ズートピア2」、素直にめちゃくちゃ面白かったし、アニメーション技術的にも「さすがアメリカさんには勝てないや」っていう圧倒的な物量?による到達点がありました。
動物たちの楽しい活劇、という外ガラのなかで、ニューヨークという移民都市が、後発移民の住む貧民窟を潰して発展した歴史、アメリカという総移民国家がネイティブアメリカン(インディアン、って言ってもいいことになってるんですか最近?)から土地と生存権を強奪して成立しているという「原罪」をきっちり告発している、っていうのには、圧倒的に賞賛したい。
というわけで「絶賛のうえにも賛」であることは、勿論なんですが。

私としては、若干の違和感はあります。
以下、完全にネタバレです。
十年ぶりの続編、ということで、予告編のグループセラピーのシーンなどからも、私は「十年、とは言わぬまでも、このウサギとキツネが夫婦になってしばらくして、倦怠期というのか、生活観の違いが徐々に明らかになって、関係が危機に陥っている」的な展開を期待したんですが。
しかし、このズートピア2、前作の直後から物語が始まっているんですね。
二人はまだ「バディ」になったばかりで、共同生活もしてないし。
あのセラピーの場面も、夫婦ではなく「バディ」の関係修復のためだとか。
なんか、肩透かしです、私のような歳の人間は、「人生のその後」が見たかったのに。

というか、あれ? 物語を通じて、この二人は「バディ」「仲間」としか言ってないんですよね、画面を観れば、明らかに恋人同士なのに。
待てよ、そういえば、このズートピアでは、異種間の婚姻は認められているのだろうか、というか、あり得るのだろうか?
そう気が付いてみてみると、この物語には、異種間の夫婦とかは一匹も(一組も)登場していないんですよね。
たぶん、ズートピア1を作ってるときには、ウサギとキツネが「パートナー」となってめでたし、という先のことなんか、考えてなかったと思うんです。

そもそもディズニーの世界では、ネズミとアヒルとイヌがほぼ同じ身長で生きていて、友達なのがアタリマエ。だけど、ネズミの彼女はネズミで、アヒルの彼女はアヒルです。
しかし「ズートピア」では、動物が種族別にリアルな身長で生きていて、しかもそれぞれの生態に合わせた環境に分かれて生活している、というメチャクチャリアルな世界を創造してしまった。

1がヒットして、2を作ろうとなれば、どこかを目にみえてグレードアップしなければならない。すると「なぜズートピアには哺乳類しかいないのか?」「爬虫類が先住民族だった、っていうのはどうだ?」という方向に世界がよりリアルに拡大していった。それは、いいことです。面白いです。
しかし、そうなると「ズートピアは、人間社会の(ニューヨークの、アメリカの)メタファー」という設定に無理が出てくるでしょう。
すでに3の制作がプランに上がっているとか、「こんどは鳥類が出てくるよ」という暗号が作中に仕込まれているとか。
すると、どうなるんだろう。「動物は、人間のメタファー」では収まらないことになるんじゃないか?
ニックとジュディは「ズートピアではじめて、異種間婚姻をするパイオニアになる、ってことか?生まれてくる子供はウサギとキツネのミックスになるのか?なんか、2,3といくに従い「話にう無理が出てくる」のは否めないでしょう。

いつまで子供向けに「恋人ではなく、友達」「パートナーではなくバディ」という「誤魔化し」が通用するのだろうか?
いまんとこ、そこが心配、というようりも、「まさか、そこをやってくれるのかディズニー?」という無茶な期待を抱いてしまっています。

水戸黄門は、というのが、「テレビドラマに出てくる、あの・・・」ということならば。
あの、一時期「天下の副将軍」と自称していた、水戸の御老公は、「架空の人物」です。残念ですが、「天下の副将軍」なんていう人物は実在しません。


ドラマの世界では、水戸の御老公は無敵です。どこの大名家にも手を突っ込んで家来を勝手に成敗する、まさに天下御免です。時代劇の主人公ですから。桃太郎侍や暴れん坊将軍と同じです。
もちろん、あれはドラマだから、です。
現実には、御三家だろうが将軍だろうが、他の大名家の家臣には命令権はありませんし、勝手に処罰をすることなど論外です。「藩」というのは半独立国家のようなもので、幕府だろうが将軍だろうが、内部に手を突っ込むことは出来ない、そういう仕組みになっています。これを「幕藩体制」といいます。

では、実在した三代目水戸藩主・徳川光圀は、どれくらい「偉い」のか?ですが。

よく「水戸家は、御三家のなかでは一番下、3番目」という人がいますが。必ずしもそうとは言えません。
「家」の格は確かに尾張、紀州、水戸の順ですけど、水戸黄門という「人」は、御三家を含む徳川一族の中でも将軍の次に偉い、という時期が長かったんです。

まず、江戸時代の大名が「偉い」順番ってどういう基準で決まるか、を確認しましょう。
日本では、エライさんの序列は「官位、官職」で決まります。これは公家でも武家でも同じ。
官位が同じであれば江戸城内での席順で偉さが決まりますが。
この席順は、同じ位ならば「任官順」になります。つまり、同じ権中納言ならば、先になったほうが、平たく言えば大抵は年長者のほうが上席になります。
尾張と紀州は極官が従二位権大納言、水戸が正三位権中納言、とされますが、これはあくまで「長生きすれば、その位まで昇れる」ということになっている、というだけであって。
御三家の当主は、藩主になった時点で参議に任官し、期間がたつと中納言に昇進します。だからもし、ある時点で尾張、紀州、水戸の藩主がみな参議であれば、なった順に上座(将軍に近い場所)に座ることになります。

次に「水戸黄門って誰、っていうか何?」って話をしましょう。

黄門は、「中納言」の唐名(本場中国風のカッコいい呼び名)ですが。
光圀は、水戸藩主の時代には参議(四位)で、藩主を譲って引退したとき権中納言(三位)に昇進しました。
やめると位が上がるってのも変な話ですが、参議だ中納言だは実際にその仕事(京都で閣僚)をするわけじゃない、単なる称号、身分ランクに付いてくる「おまけの称号」に過ぎないのだから、いいんです。
これが先例となり、水戸藩主は隠居すると権中納言(黄門)になるという慣例になります。「水戸黄門」はイコール水戸のご隠居の意味で、幕末までの間に六人だかの歴代水戸黄門がいます。

それは、さておき。
水戸黄門は藩主をやめた御隠居でも、権中納言であり、尾張や紀州の従兄弟たちが先におなくなりになれば、若造の尾張藩主、紀州藩主よりも上席、徳川一族のなかで一番位が高いことになります。
つまり。将軍の次に「偉い」んです。
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水戸黄門が「天下の副将軍」と自称していた、というのは、後世のフィクションですが。
実際、水戸光圀は肩書上は将軍の次に偉かった時期があるわけです。
もちろん実権があるわけでは全然ありません。

徳川家の「親藩」は、幕府の職には一切つきません(つけません)。

政治なんていう汚れ仕事は家来どもがやるものであって。将軍サマの御親族は徳川家のバックヤード(帳場や台所)には入れません。
大老だ老中だ、という仕事は、すべて譜代大名(もともと徳川の家来だった家柄のもの)が交代で務めます。
御三家といえども、幕府に正式な肩書はありませんから、仮に水戸藩主が幕府の政治に意見があっても、老中を呼びつけてネチネチ文句をつけるだけで、老中に命令する権限はないんです。
将軍の次に「偉い」とっても、それは「格」とか「位」の話だけで、幕府政治の決定権は全く持っていないのです。
そりゃあ、ストレスも溜まるし、ほっぽりだして諸国漫遊もしたくなる、って話です。

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では「べらぼう」の松平定信はどうなんだ、彼は歴とした吉宗の孫だろう?

彼は(一橋や田沼の陰謀で、かどうか知りませんが)「白河(久松)松平家」という譜代大名の家に養子にやられた、「家来」の家柄になり、おかげで老中首座に就任し「寛政の改革」が出来たわけです。

いっぽう一橋治済は徳川一門の一員ですから、将軍の父であっても、幕府での肩書はありません。だから隠然たる影響力で、陰で人を操るしかない。「闇将軍」と呼ぶにふさわしい立場なわけです。

水戸黄門(光圀)の話に戻ると。
水戸光圀は、若い頃は滅茶苦茶グレていて、辻斬なんかも平気でやってた、といいます。
歳とってから、回想録で「昔はヒドイことをしたもんだ」みたいなこと言ってるそうですが。
この台詞、真剣に反省しているようには感じられません。むしろ「俺も若い頃はワルかったんだぜ~」という、元ヤンのおっさんの自慢、いわゆる「武勇伝」にしか聞こえない。「可愛そうなことをしたもんだ」なんて、本気で後悔してる人間の台詞じゃないですよ。
人間の本性なんて、変わるもんじゃありません。三つ子の魂百までって言いますけど、光圀って、ジイサンになっても「そういう感性の持ち主」だったように思います。つまり、武士は強くあれ、強さは正義、面倒くさいものは叩ききればいい、そういう人だったのではないか。いや、テレビドラマの水戸黄門の印象で語っているわけではないつもりですけどね。

そんな光圀が見るところ、将軍綱吉は「軟弱な若造」でしかないでしょう。「生類憐みの令」という名前の法令はなくて、綱吉が次々に発令した「あれを守れ」「これを守れ」「これはするな」「アレも駄目だ」という命令の総称なわけですけど。

「弱い者を守れ、守れ」という綱吉を、光圀が相当苦々しく思っていたことは間違いありません。だってこの若造、自分が若い頃にしたことを悉く非難して否定してくるわけですから、面白いはずがない。皮肉も言いたくなるでしょうし、反抗もしたくなるでしょう。
自分は一族の長老だから、何を言っても罰せられまい、という「上から目線」の驕りがあったとも思えます。

大陸で明が滅亡して、多くの遺臣、儒学者が日本に亡命してきます。光圀は彼らを保護し、「幕府が、明を助けて大陸に出兵すべきだ」と主張したと言われています。バリバリの武断派です。もちろんそんな案は通りません、時代が違うのです。光圀は亡命儒学者を水戸で保護し、彼らの指導で中華ソバを作って食い、彼らの思想「尊王攘夷」(漢民族の王を担いで、異民族の侵略を退けろ)に感化されて「大日本史」の編纂を始めました。過激思想のカタマリの歴史書です。
史実に実在した徳川光圀は、絶対に「温厚なご隠居サマ」ではありません。むしろ、暴走老人です。そうであれば、いきなり家老を斬り殺したという「藤井紋太夫事件」も、さもありなん、と思われます。

水戸黄門漫遊記を世間に広めたのは、幕末の水戸黄門こと徳川斉昭サマと、そのシンパです。
御先祖光圀サマが作った水戸学を振り回し、攘夷、攘夷と騒ぎ立てて幕府をひっかき回し、ついに大老井伊直弼にガツンとやられて強制隠居させられた、あのお騒がせ老人です。

ああ腹が立つ、アイツなんか徳川の家来にすぎないじゃあないか。こっちは葵の御紋をつけた徳川家の御親族だぞ、なぜ大老なんぞから、上から目線で罰せられるのだ。
という鬱屈を晴らすため、ウチの先祖はこんなに立派だったんだ、日本中で尊敬されてたんだ、大老格だとかいって威張ってた柳沢吉保だってギャフンといわせてたんだ、みたいな話を創作して、講談の形で日本中に広めたんです。
そういうときは、江戸城の中の政治抗争の話より、単純な悪代官退治のほうがウケるんですよ。光圀サマはあなたの街でも活躍したんですよ、って話をつくってやれば、どこの街も喜ぶじゃあないですか。

幕府に副将軍という役職は最初から最後までありません。
大老と副将軍は、どっちが上なんですか、なんて質問が、時々ありますけど。
副将軍なんて役職は通称、または水戸が自称してるだけで、本当はそんなものはないんです。
だから「天下の副将軍・水戸黄門」も、大老の命令で隠居謹慎させられたりするわけです。

格さんが印籠を出すと、介さんが口上をかまします。
「ここにおわすお方をどなたと心得る、畏れ多くも前(さき)の中納言、天下の副将軍、水戸光圀公で在らせられるぞ、控え控え、控えおろう!」
この言い方はつまり、黄門様はすでに水戸藩主を退いている御隠居ですが、それでも今現在「天下の副将軍」だって言ってるわけですよね。
つまり、関白を引退しても太閤と呼ばれるように、水戸藩主を引退しても、依然として天下の副将軍である、ってことになります。
てゆうか、藩主を引退してフリーハンドになった立場が「天下の副将軍」なんです。そうなるんですよ、ドラマの名口上をちゃんと分析すれば。
副将軍てのは、地位とか役職とかではなく、二ツ名ってやつ、カッコいいキャッチフレーズなんだ、ってことです。「霊長類最強」とか「オシャレ番長」とか「銀幕の女王」とか「ミナミの帝王」とかと同じようなものです。

幕府の政策を批判したせいで強制的に隠居させられた幕末の黄門様斉昭にしてみれば、やはり幕政に参加できず鬱屈を抱えて諸国を放浪、じゃなくて漫遊していた?御先祖、光圀公は、まさに親近感湧きまくり、の存在だったことでしょう。
講談で漫遊する水戸黄門は、決して殿様を断罪しません。悪いのはつねに家老や代官です。つまり「悪いのは家来、殿様は正しい」というイメージが刷り込まれるように出来ています。
黄門さまは、日本全国の悪家老をやっつけて回ります。おそらく最後にやっつける巨悪は、江戸にいる将軍サマの家老、つまり「大老」ということになる。これを庶民は期待することになるでしょう。
井伊大老が攘夷をやめて異人を国に入れたせいで、物価は高騰し伝染病は流行り、江戸庶民の生活は滅茶苦茶になった。誰が悪いんだ?
いずれ必ず「正義のヒーロー」水戸の御老公が、悪政の親の大老を成敗してくれる。御老公が幕府に罰せられて死んだとしても、浪士となったその家来たちが遺志を継ぎ、必ず大老を討ってくれるはずだ。
と、いう世論を、日本中に醸成したのが、水戸黄門漫遊記なんです。

そして、それは現実となります。桜田門外で。水戸の浪士たちが、井伊大老を討ったんです。大願成就、ドリームズカムトゥルー、庶民は大喝采です。
つまり、水戸黄門漫遊記は「第2の忠臣蔵」なんですよ。

いや、粋だねえ。

九郎助稲荷が出てきた途端に、悲惨な病気の話のはずが、なんか落語噺みたいになっちまった。

お見事です。

一橋治済さん、もうひと山あるとは。まさにラスボスの最期に相応しい?壮絶な落雷、平賀源内も幽霊で出たし、最終回に相応しい、ついでに「いまの花の井(瀬川)」も後ろ姿で出た?し、教科書級の大物本居宣長まで出たし(北村一輝さん、この人こそラスボス感満点だ)。

東洲斎をひっくり返すと斎藤十、これは、やられました(笑)。

山程、感想はありますが、「聞こえねえよ、柝(キ)が」、チョン、で幕引き、カッコイイ、お見事でした。

蔦屋重三郎は「脚気」に罹って若死にする、という史実を、「べらぼう」はやるのかな、それともそこはやらずに明るく終わる手もあるのかな、と思ってたんですが。

最終回、やるようですね臨終シーン、おもいきりがっつり、感動的に。

横浜流星さん、今年は大役で二度も、病気で若死にするわけだ。

(以下、あの大作映画のネタバレを含みます。公開から半年経ってるし、まあまあ、もういい加減、お許しいただきたく)。

映画の「国宝」の終盤最大の盛り上がりは、「あの病い」で脚が壊死した俊介(横浜流星さん)が、それでも踊り続け、遂に演じ切った、あの歌舞伎座の舞台です。

「あの病気」は、父の半次郎(渡辺謙さん)の死因と同じものです。つまり俊介の「血」だったんです。

この物語的な成功は、「血」(血統)の問題を常に意識させたことではないか、と思っています。

「俺はお前の血を飲みたい」っていう台詞が、同時期に公開されていた同じ吉沢亮さん主演の映画「ババンババンバ バンパイア」とあいまって(企まずして、最高のコラボ?でしたが)、とてつもなく印象に刻まれます。

これは勿論、李相日監督が自身に刻まれている現実が、強く反映されているのは間違いないでしょう。「生まれついての『血』の宿命は、どうにもならずに、一生ついて回る」という映画は、李監督にしか撮れなかったでしょう」。

ところが、その「血の宿命」は、皮肉なことに、実に皮肉なことに、主人公の喜久雄にではなく、ライバルの俊介に襲い掛かる、父と同じ病気によって、脚が腐り、命を落とすわけです。

病気と遺伝のことを軽々に語ることはつつしまなければなりませんが。

俊介は若い頃に派手に遊んでいる描写がありました、そのツケが人生の後年に来たんだ、と多くの観客は思ったかも知れませんけど。

違うんですよね。父・半次郎も同じ病気で、舞台で血を吐いて倒れて死んだ、その「血」の運命を、俊介は受け継いでしまったんです。

喜久雄が、あんなに羨ましがった「血」で。

このへんのところ、映画ではハッキリ言わないところが、この映画、深い、と思った最大の点です。李監督、ここは敢えて断言せずに、解釈を観客に委ねているのが、ウマイと思ったわけです。

こういう病気や体質の話って、このトシ(高齢者)にならないと、実感として分からないモンなんですよね。劇場で映画観てる若者の多くは、少なくとも映画観ている間は、気が付かないんじゃないでしょうか。

喜久雄は、半次郎の「血」を受けつがなかったおかげで辛酸を舐めたが、「血」を受けつがなかったおかげで、長生きして国宝になれた。

凄い話だ、と思います。

「べらぼう」の最終回でも、蔦屋重三郎を演じる横浜流星さんには、壮絶な最期が用意されているんだろうか。

 

「エディントンへようこそ」
アフター6ジャンクション コラボ試写会に行ってきました。

ライムスター宇多丸師匠、宇垣美里総裁、映画ライター 村山章さんのがっつりアフタートークつき。
「ミッドサマー」「ボーはおそれている」などの、アリ・アスター 監督の最新作、2時間半の大作で意外の斜め上をいく怒涛の展開、宇多丸師匠が「全く、こんな宣伝しづらい映画を〜」、宇垣総裁は「もう、困惑しかない!」というくらいの、なんかとんでもない映画ですが。
これが、話を聞いているうちに「なるほど、そっちかあ!」と段々面白かったと思えてくるから不思議、ふしぎ。
アメリカ社会の分断をテーマにした社会派ドラマ?と一瞬、見えるんだけど。これがねえ、やっぱりアリ・アスター監督なんだよ、ホアキン・フェニックスが、どんどん暴走して、もう収拾つかなくなって。

アリアスター監督特有の、不穏な雰囲気の不可思議ホラー映画、が期待するところ、ですが。

「コロナ渦の時代、ニューメキシコの小さな街。マスクしろ派の市長に、マスクは嫌だという保安官が反発して、自分で市長選に立候補して、ちっさな町を二分する大騒動が巻き起こる・・・という(三谷幸喜的な?)社会派ドタバタ喜劇を予想する、ところですが。

この保安官、ホアキン・フェニックスです、あの「ジョーカー」ですよ。

何をやっても上手くいかない、どんどん、精神的にヤバイ方向にハマリこんでいき・・・っていう過程が、いかにもリアルで。

で。

公開前でネタバレしちゃいかんので、抽象的な言い方になるけど。

自分にも、似たような面がある、って思うことはありませんか? 俺は・・・いや、あるかも知れない、ってだんだん思えてきた。こういう事って、このトシにならないと分からない、って気がするんだ。

この保安官は、いかにも「ちいさなトランプ」っていう感じの、自分は立派な人間で、周囲から好かれいると思い込んでいる、実のところマチズムのカタマリみたいな、客観的には、ウザい人間なんだよ。

そういうヤツに限って、おまえはそういうウザイ人間だ、と指摘されても、反省できなくて、キレるんだよ。

そんなにキレるかよ、って茫然として、ある人は笑い、ある人は怒る、そんな映画なわけだけど。

まさに、自画像を突き付けられてるような気分になるんだ、これが。詰んでる、とか、閉じてるとか、八方塞がり、とか、そういう言葉が飛び交うよな映画です。

つまり。

アメリカ社会の分断をテーマにした社会派ドラマ?と一瞬、見えるんだけど。これがねえ、やっぱりアリ・アスター監督だなあ、ってところなわけです。

うああ、刺さった! という人と、何が何やらわからんかった、って人に分かれる、とは思う。刺さった人は、俺の仲間です。

明後日の公開です。観た方がいい。

扉座「つか版忠臣蔵2025」の新宿紀伊國屋公演が始まってますね。今週末まで。紀伊國屋は当日券も若干出るみたいですし。ちなみに私は土曜の夜に行きます。

この舞台は、宝井其角と近松門左衛門がほぼ主人公、ってことなので、赤穂事件を忠臣蔵に仕立てたやつらの物語、ってことになるのでしょうか。

というわけで、関係なくて恐縮ですけど、忠臣蔵関係で、昔書いた話を再録します。

吉良上野介は、地元では名君っていわれてるそうだけど、どうなん?という話です。

忠臣蔵もののドラマなんかだと、吉良邸討ち入りのクライマックスで、墨小屋に隠れていたのを引き出された吉良上野介が、大石内蔵助に「吉良少将様とお見受けいたす」と言われます。

上野介様ではなくて、少将様なんです。

吉良は、四千石の旗本ですが、上野介のほかに左近衛少将の肩書きを持っており、位は従四位上です。いっぽう浅野内匠守は五万石の大名ですが、従五位下です。

人間を格付けするために官位というものがあり、吉良のほうがぐんと格上だから、浅野も威張っていられるわけですが、領地の大きさは、浅野のほうが十倍以上も大きいわけです。

しかし、この「石高」の数字の意味は、浅野と吉良とでは全く違います。

浅野が五万石の大名だというのは、五万石分の領地をあずかっていて、五万石分の兵士をつねに養っておき、いざ戦争というときは五万石分の兵隊を引き連れて駆けつける義務を負っている、ということです。

「高家」というのは、それとは全く違います。殿中の儀式典礼を取り仕切るのが仕事であり、その仕事を遂行するために四千石の領地を貰っているのです。

いざ戦争というときに戦力になることなど、まったく期待されてはいませんから、兵士を養う義務もないから、何万石もの領地は要らないのです。

浅野のような小大名と、吉良のような高家旗本、どっちが財政が楽がといえば、それは「高家のほうが楽」に決まっています。

浅野のような大名は、いざ戦争というときに備えて五万石分の兵士を常に養っておかなければなりませんし、将軍への忠誠儀式と軍事演習行軍とを兼ねた「参勤交代」をしなければなりませんし、ときどき「勅使饗応役」なんていうお役目を割り当てられて、それを自費で努めなければなりません。そのうえ、領内の治水工事なども勿論やらなければならない。これらの費用は全部、領内の農民からの年貢で賄われます。塩という特産品を育成するのも、藩財政はつねにギリギリだからです。小さな大名ほど、領民をギリギリと搾り取らなければならない、というのが宿命です。

ちなみに、って話ですが、織田信長の次男・信雄の子孫が、(将棋の駒で有名な、あの)天童二万石の大名になっています。紅花という特産物で売ってましたが、領民を収奪してひどく恨まれており、「紅花をいくら作っても織田が根こそぎ奪っていきやがる、あー因果因果」という民謡まであったそうです。この程度の石高の小さな大名がいちばん財政的に大変だ、ってことです。

では、吉良のような高家はどうか。戦力として期待されていませんし、参勤交代の義務もありません。儀式の教授で浅野のような大名から付け届け(授業料)を貰えるという副収入もあります。四千石の吉良の領地の農民からゴリゴリ収奪する必要はないんです。

ごく小さい領地ですから、治水工事も楽でしょう。ひとつ堤を作れば「名君」ということになります。領地が大きければ大きいほど、政治家としての力量が要求され、すべての領民にまんべんなく恩恵を施すなんてことは難しくなるんです。

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大名としては地元で名君と言われていても、老中になって日本全国の政治をしたら失政ばかりでポンコツ、という例は、教科書に載ってるような有名人でも、結構います。たとえば松平定信とか、って言い切っちゃ悪いんですが。

吉良義央が吉良の領地に帰ったのは、生涯で数回だけです。彼にとって、吉良の領地を治めることは主な仕事ではないし、四千石というのはそれで済む程度の規模です。実際、何か熱心に領地経営をした形跡はありません。

吉良の地元の人が、「うちの殿様は名君だ」ってのは、まあ、かなり身贔屓が入ってると言えるでしょう。

いっぽう、浅野が改易されたとき、領民たちは大喜びして餅をついて祝った、という話もあります。それだけ「圧政」だったってことですけど。これは、領民を搾り取らなければ破綻してしまう普通の小大名の宿命、みたいなもんなんです。

しかし「忠臣蔵」の物語は、浅野内匠頭が「いい殿様」でなければ成立しませんから、こんな事実は無視されて、語られることはあんまりありません。