えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

伊達政宗が支倉常長をローマまで派遣したのは、旧教国イスパニアの支援で天下を取ろうと考えていたからだ、という説があります(文春新書参照)。

バチカンには、政宗の「私を日本におけるカトリック王に任命してください」みたいな文書が残っています。つまり、カトリック国イスパニアに、日本征服のために軍隊を出してくれ、ってことです。


しかしこれ、イスパニアにとっては、コスパの悪すぎる話です。

伊達政宗がどこまで期待していたか分かりませんが、はるばる日本まで遠征したとしても、インカ帝国みたいに簡単に領土を取れるわけではないのは、いろんな事前調査(それこそ、イエズス会宣教師からの報告とか)からわかっていたでしょう。

イスパニアにせよポルトガルにせよ、距離の近い中南米はさておき、アジアでは「点」しか確保していません。つまり、港湾都市を抑えて貿易の利潤を上げる、ということで、「面」を支配して植民地を経営するほどの戦力をアジアまで送ることは、していません。

伊達政宗が望んでいたのは、その程度の話ではないはずです。イスパニアの兵力をバックに日本全土を乗っ取って、日本の王になりたいのであれば、中途半端な支援では何の役にも立ちません、ただ謀反人として幕府に討伐されるだけです。やめといたほうがいいでしょう。

政宗にしてみても「試しに言ってみただけ」くらいじゃないかな、という気がします。まあ、世界の広さとか距離感を実際に認識ていたわけでもないだろうし。たとえて言えばイスカンダルに救援を求めるくらいの気分かな、と(いやに例えが古い)。

なんにせよ、中途半端に来てもらって駄目なら放っぽって帰られる、っていうんじゃ困るんで、この話はどっちみち成立しないだろうな、とは思います、夢がない話ですが。

あなたもスタンプをGETしよう

大久保利通を襲撃して殺したのは「石川県士族島田一郎」ほか、計6名の不平士族です。

「廃藩置県」を主導し、中央集権国家の建設を推進した中心人物が大久保利通です。つまり藩を潰して県にし、中央政府から派遣された役人たちに治めさせる。これは、地元の藩士たちの多くを失業させることになります。彼らは従来の禄を奪われ「士族」という称号だけ与えられて放り出されたわけです。

これが「不平士族」です。

彼らの救済策として持ち上がったのが「征韓論」だとも言われています。つまり、朝鮮に出兵するとなれば、不平士族たちに再雇用の道がある、実際、これに期待する士族も多かったようですが、結局、征韓論も大久保に潰されました。征韓論を主張した西郷や江藤新平らは政府から追放され、故郷に帰ると不平士族たちに担がれ、新政府に反抗して決起し、鎮圧されました。「佐賀の乱」と「西南戦争」です。これに似た反乱はほかにもいくつも起こっています。

彼ら不平士族の不満の対象は、新政府の中心であり、中央集権を推進する大久保利通に向けられました。あいつが廃藩置県なんかやったせいで俺たちは誇りも収入も奪われた。挙兵しても新政府に潰されるだけなら、大久保を直接襲って暗殺するしかない、でないと俺たちは浮かばれない。こうした動機で、大久保は命を奪われたわけです。

あなたもスタンプをGETしよう

藤原不比等は、いわば曹操です。

彼はあくまで漢皇帝の庇護者の立場を堅持し、自分が皇帝になろうなどとしませんでした。たとえ禅譲されたとしても、周囲は簒奪と見ます。悪名をかぶるより、実を取ればいい。これが「大物の態度」です。しかし、その息子は安心できず、ついに自分が皇帝になってしまいます。

古代においては、皇后には皇族しかなれない、というのは鉄の掟でした。皇后は天皇と並んで祭祀をし、天皇に万一のことがあれば代理に女帝として立つ必要があった。つまり、天皇に妃は何人いてもいいけど、皇后だけは男系の皇族女性を立てなければならなかったんです。

不比等は、宮子を文武天皇に嫁がせ、宮子は男子を産みます。この男子を確実に次の天皇にするため、文武天皇には皇后を持たせず、宮子以外の妃を全員降格して宮廷から追い出すということまでしました。じつに権力者の横暴みたいに見えますけど、しかし不比等は「鉄の掟」には手をつけませんでした。つまり、皇族でないと皇后になれない、というルールは神聖で絶対で、これを侵せば強烈な批判を食うからです。肝心なところでは横車を押さない、これが正しい大物の態度です。

宮子の息子は聖武天皇となり、その妃にはまたも不比等の娘、宮子の妹でもある安宿媛(あすかべひめ)がめあわされました(宮子と安宿媛は母が違うので、この時代ならぜんぜんオッケーです)。しかし、安宿も皇后にはなれません、例の鉄の掟がありますから。時代は、不比等の息子、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の世代になっています。この息子たちは、四人合わせても父親一人より小物でした。安宿以外の妃が生んだ息子に天皇位をさらわれたくない。そのためには、例の「鉄の掟」に手をつけて、安宿を皇后にしてしまえばよいではないか。

これは、いくらなんでも反発を食います。しかし、敵を作ってでも、権力を固めてしまいたかった。臣下を天皇にすることに反対した長屋王を強引に謀反の罪で粛清してまで、「臣下初の皇后」を実現してしまいました。これが「光明皇后」です。

これ以降、臣下出身の皇后はアリになりましたが、そのかわり臨時の天皇として即位することはできなくなりました。当然です、アマテラスの男系子孫ではないのだから。


しかし、こういう強引な手段をとると、たいていロクなことがありません。光明皇后の生んだ男の子は早死にし、ほかの男子に皇位を渡さないために、前代未聞、女の子を皇太子にすることになります。これが孝謙(称徳)天皇です。

母の我侭のおかげで一生独身を強いられる羽目になった女帝です。このひとは母や親類の強引なやり口に嫌気がさして、皇位を藤原氏とぜんぜん関係ない有徳の僧に譲ってしまおうとして大騒動を起こします、これが道鏡事件です。

天武天皇の血筋は、この称徳天皇で断絶することになります。曹操の息子が皇帝になってできた魏が、すぐ次の代で司馬氏に簒奪されてしまうのと、とてもよく似ています。

藤原氏は、しかし、天武朝が滅んでも、しぶとく生き残って繁栄します。不比等の孫たちはさらに小物でしたが、小物なりに頑張って、波を上手く乗り換えました。

あなたもスタンプをGETしよう

「美女と野獣」に続いて「アラジン」、ディズニーはますます、攻めてきてます。物語思想的に。

誰でも言ってる話ですけど、ますます女性が前面に出てきています。もはや「王子に守られるお姫様」なんか、ディズニーランドのどこにも生息しない時代になった、ということですね。

今回はもう、ジャスミンが主役と言ってもいいくらいの物語構成になってます。彼女はお姫様ではないし、いいとこの王子様に嫁ぐつもりはありません。いずれ(王妃ではなく)女王としてアグラバー国を統治する意志が満々です。

このジャスミンは「ローマの休日」の王女ではない。自由を求めて城を抜け出したのではなく、国情を視察するためにお忍びで市場に出てきている。最初から心構えが違ってます。むしろハル王子に近いキャラです。

ジャスミンが魔法の絨毯で歌う「ア・ホール・ニュー・ワールド」を聞いて、私、震えましたね。涙出たね。ただ空を飛んだから嬉しいんじゃないんです。彼女はこのとき、自分の国の全体像を見たんです。これから自分がどこに進むべきか、彼女はこのとき確信したんですよ。これは恋愛ドラマではない、国とは何か、王たるべき者とは誰か、そういうドラマなんです。

このドラマのアラジンは、お気楽です。美人の王女様と結婚できればゴール、くらいに思ってませんか、おまえのほうがプリンセスかよ、とツッコミたくなるくらいです。

ジャスミンの要求しているのは、カッコイイ色男なんかではなく、、国家統治のパートナーになれる能力と徳を備えた男です。

ケネス・ブラナー監督の「シンデレラ」は、実にシェイクスピアっぽい映画でした。王子は父の死ととも王となり、この国を統治しなければなりません、そのパートナーたり得る「徳」を備えた女性こそ、王妃の座に就ける、そういうドラマでした。

美女と野獣も、要するにそういう物語といえる。野獣の王子が、「国民を愛し、国民に愛される王」たり得たか、その瞬間に呪いが解ける。

このアラジンは、シンデレラと相似形です。もちろん、シンデレラ=アラジンで、王子=ジャスミンです。

ディズニーは、もはや、王子と姫の色恋の話ではなく、「国家の統治はどうあるべきか」というステージに足を踏み込んできてる、と見ました、

さあ、「アナと雪の女王2」は、どうなるのか? なにしろエルサは、この雪の王国を治める女王なんですから。

 

 

 

 

あなたもスタンプをGETしよう

 

開国は確かに幕府崩壊の大きな原因のひとつであることは確かですが、それは勅許がどうの、屈辱がどうの、という観念的なことが主ではない、と私は考えます。


簡単に言うと、開国によって欧米のモノとカネが流入したことで、物価騰貴、インフレが起きてしまったんです。いままで海外貿易ということをまったく前提にしていなかった幕府の経済政策、特に通貨体系が、開国により矛盾を露呈してしまったんです。
これは幕府の「失政」であり、このため人心が幕府から離れた、といえます。


幕藩体制というのは、基本的に国内での自給自足を前提にした体制です。しかし、否が応でも外国と商売していかなければならないなら、日本が多くの藩に分かれている体制では、とてもじゃないけど外国と競争できない、という現実が露呈した。
だから、封建制の原理をひきずった幕府ではもう駄目で、天皇中心の中央集権国家を作らなければ日本の未来はない、ということになったんです。


尊王思想とかは、所詮、方便です。

新しい政府は「廃藩置県→中央集権→富国強兵」という方向に進まざるを得ません。

そのために看板として掲げるのにふさわしいのは将軍ではなく「天皇」なんだ、ということです。

 

あなたもスタンプをGETしよう

 

薩摩藩は尊王攘夷で倒幕派のはずなのに、どうして寺田屋事件で同じ藩内の尊王攘夷の藩士を粛清したり、同じ尊攘派の長州藩と戦って京都から追放したりするの?

というひとがいますが。

最初から倒幕藩だった藩なんか、ありません。

薩摩でも長州でも土佐でも、どこでも一緒ですけど、藩主や上層部は、とにかく今の藩を守りたい。現在の秩序を守りたい、ですから、幕府寄りです。最初っから「天皇を担いで幕府を倒そう、天下をひっくり返そう」なんて過激なことを考えるはずがありません。

しかし、下級藩士たちというのは現状に不満ですから、流行の尊王攘夷思想に触れれば「幕府なにするものぞ、オレたちが天皇がトップの世の中を作ろう」みたいな思想にカブれていくことになります。幕府寄りの上司なんか押しのけて、自分たちが表舞台に出ようとします。これは藩の秩序を乱す行為ですので弾圧されます。そういう事件は、どの藩でも起こっています。土佐でも「勤皇党」は弾圧され武市半平太らが殺されています、どこにでもあります。
そういう藩内抗争がいろいろあって、藩論がだんだん変わっていくわけです。


長州は全体に過激でそのスピードが速く(吉田松陰の力が大きいです)、薩摩はそれに比べて遅かった、そのタイムラグが「禁門の変」のように「薩摩対長州の対決」を生むわけです。
「薩摩って、途中でコロッと公武合体から倒幕に変わるのね、なんかヘンだよね」というふうにいうのは、ものごとを単純に分けたがるからです。
幕末でも関が原でも応仁の乱でも源平でも、みんな一緒、最初から「赤組」と「白組」に分かれてるものではありません。

あなたもスタンプをGETしよう

オリンピックって、ほんとにやるんだねえ、いまだに信じられない(笑)。

 

 

山寺宏一がいまTBSラジオで喋ってる。

夢は還暦パーティーにハリウッドスターを集めて「おまえのお陰で日本でも売れたよ」と誉められることだそうな(冗談)。

しかし、ジーニーは山寺宏一でなければならない。オリジナルがアニメだろうがウィル・スミスだろーが。ジーニーは山ちゃんだ。絶対だ。


なわけで。「アラジン」は吹き替えで見ないと駄目だ、と俺は言うね。両方見てもいいけど。青い奴が現れて山寺宏一の声で歌い出した瞬間に、俺は泣いたね。




あなたもスタンプをGETしよう

湖畔限定ならば坂本城ですかね。石垣が湖の底まで続いていて面白い。なにより明智光秀の像がある。銅像があると例外なくアガる。
長浜城、も捨てがたい。もちろん天守はバッタモン(再建)で中は博物館だけど。あのフォルムはちょっと風変わりでカワイイ。私は大好きです。やっぱ湖をバックにすると綺麗・

湖から少し離れていいなら、ぜったい彦根城。なにせ国宝。天守閣をはじめとして、櫓やら門やら橋やら、いっぱい残ってる。石垣や土塁、空堀だけで興奮できるのはディープな城マニア。普通の歴史ファンには、やっぱり建物が残ってたほうが絶対に面白いでしょう。そして何よりアガるのが、この彦根城はあらゆる歴史ドラマ、歴史映画のロケで使われている、ということ。姫路城はすばらしいけど、あれ立派で綺麗すぎて、ちょっと戦国時代に見えない。そこへいくと、彦根城はいい具合に無骨で、いい具合に小規模で、いい具合に構造が立体的。あなたが見たであろうどんな歴史映画でも、必ず彦根城のあの場所この場所が使われている。「あー、ここだ、この角度だ、ここに岡田准一が立ってててさあ・・・」っていう風景が続出。聖地巡りどころの騒ぎじゃない。ひこにゃんには逢えたらラッキー程度。
あと、城じゃないけど近江八幡の「八幡堀」も必ず見てください。ここも、あらゆる時代劇でロケに使われている。「あー、あー、あー!」の連続。

穴場、佐和山城址。ただの山登り。登山口に小さな石田三成の銅像があるけど、あとは土塁と石垣跡のあいだを登る登る。登りきった頂上が、絶景! 琵琶湖を一望、なんか天下取れそうな気がしてくる。足元を新幹線が走るのも楽しい。

安土城は、通むけ。
安土城に行くときは、その前に近所にある「安土城郭資料館」「安土城考古博物館」「安土城天主 信長の館」を見てから行ってください(いきなり行っても石垣しかないので、まず再現ビジュアルを見といたほうがいい)。
信長の館の、セビリア万博に出展された「天主のてっぺんだけ再現1/1モデル」が必見。

ひとことでいえば、将軍というのは「鎌倉のミニ天皇」だからです。

平安時代、藤原氏が決して自分が天皇にならなかったのと同じように、北条氏も、自分が将軍になろうなんてしなかった。なる意味もなかった、ということです。

なぜなら将軍というのは象徴君主であり、京都生まれの「貴種」でなければならないんです。征夷大将軍というのは、「鎌倉幕府(と後世呼ばれるようになる組織)が成立するために必要な装置」のひとつであるにすぎません。そして、それは原理上、関東地生えの武士ではイケナイ、ということです。

そもそも「鎌倉幕府って、何だ」というと。

鎌倉幕府といのは、いわば「関東武士の独立自治政府」です。「いわば」ですよ、あくまでモノの喩えですけど、つまり、いくら努力して農場経営しても、名目上の土地所有者である京都の大貴族に支配され「年貢とられ放題、上前はねられ放題」だった関東武士たちが、「自分の土地で稼いだものは、自分のものだ、って保障してくれる、オレたちの自治政府が欲しい」という根源的要求から生まれたのが、のちに「鎌倉幕府」と呼ばれるようになる、協同組合です。


だから、主体は最初から関東武士なのです。ただ、彼らには「平将門」の苦い経験があります。もし、自分たちの中からリーダーを選んで「我々は自分たちの政府を作ります」と言ったら、京都はそれを「叛逆」とみなして討伐するでしょう。京都と全面戦争をするのは、勝つにしろ負けるにしろ、多大なエネルギーの無駄です。

そこで、彼らは自分たちの中から「王」を選ぶことをせずに、京都生まれの貴種に「王」の役をやってもらうことにしたのです。たまたま関東にいた源頼朝を担ぎ、「われわれは、この頼朝公の家来です、朝廷に叛旗を翻したわけではありません、今後ともよろしく」という体裁を整えたのです。

 源氏の嫡子である京都生まれの頼朝に「京都から派遣された遠征軍の長官」という肩書きをもらって、ずうっと遠征中なんです、という名目で鎌倉に政府をこしらえた。これが鎌倉幕府です。

つまり、将軍というのは、最初から表看板であり、御神輿なんです。

御神輿というのが聞こえが悪ければ「代議士」とでも言い換えてもいいです。あるいは「外部招聘社長」(カルロス・ゴーンみたいなもの)です。オーナー社長ではなく、経営手腕を買われて迎えられた存在なんです。


鎌倉の将軍の最大の仕事は「京都向けのカオ」であり、重要なのは京都と上手くやる政治力です。

源頼朝は、単に「誰かの子供」「血筋がいい」という存在ではないんです。子供の頃に(母親のコネで)後白河法皇の姉のもとに出仕して、その聡明さでものすごく可愛がられていた、正真正銘の貴族です。この「京都朝廷にいた経験が、実際にある」という実績が強みです。流人になったとはいえ、現在でも京都に「昔の人脈」があります。そのうえで、長く関東で暮らしていて、武士たちのニーズが骨身に滲みるほど分かっている。政治家として京都と交渉してもらうには、これ以上ない、うってつけの人材だったのです。

 頼朝は、自分が関東武士団の利益代表の仕事をする「雇われ社長」であることを認識していました。だから、その役を完璧にこなすことができたのです。


しかし、その子の頼家、実朝は、残念ながらそのことを自覚できなかったようで、なんか勘違いして、上手く「御神輿」の仕事をこなすことができなかった。貴種といいながら「実は京都在住経験がない」というのもネックです。

だから、二人とも殺されたのです。これは鎌倉御家人全体の意志です。北条氏だけの陰謀ではありません。


 源氏の将軍がいなくなってしまったら、代わりの人材を、誰でもいいから京都から連れてこなければなりません。でないと「遠征軍の現地臨時政府」という体裁が整わなくなってしまうのです。

関東地生えの者がトップになってはいけません。そうなれば、関東政府を目の敵にしている京都朝廷から「ほらみろ、うまいこと言ってたくせに、やっぱりヤツラ、地方の叛乱勢力じゃないか」と言われかねないのです。

せっかく、みんなで考えた「上手いことやっていくカタチ」を、台無しにしてしまうんです。

あくまで京都とうまくやっていくためには、京都から、子供でも何でもいいから、身分の高い「征夷大将軍」を派遣してもらわなきゃいけないんです。

その看板がないと、自分達が「夷」になっちゃうわけです。


 源氏が三代で滅びたので代わりに、北条氏が「執権」になって権力を握った、というのは、違います。源氏の将軍がいなくなったあとも、幕府は京都からエライひとを呼んできて「将軍」に立て、みんなその家来ですよ、という体裁を整えて政治運営をしていたのです。

つまり、源氏将軍がいた時もいなくなった後も、やってることは全く同じなんです。

もし「北条氏が、陰謀で源氏を滅ぼして、権力を奪った」みたいな言い方をするヒトがいたら、それはキッパリと誤りです。


 「執権」という言葉は、「家来のなかで第一の者、主人のかわりに家のなかのすべてを宰領する者のこと」を指す言葉です。つまり「執事」のことです。

 鎌倉幕府においては、鎌倉殿(将軍)がご主人様であり、御家人たちが家来です。この御家人たちの代表、という意味で、いわば「筆頭執事」とでもいう意味です。

 「執権」という単語を、現代風に「独裁者」と解釈すると、誤りです。「権力を執行する者」という意味ではありません。「権」という漢字の元の意味は「仮」という意味です。つまり「代理」「代行」です。(たとえば、水戸黄門は権中納言、ごんちゅうなごん、です、これは中納言と同じ職務をすることができる地位、ということです)。

 「鎌倉殿のまつりごとを代行する者」というのが、本来の執権の意味です。あくまで家来の代表者であり、御家人が合議制で物事を決めるときの座長、というくらいの意味です。


 初代「執権」は北条時政ですが、彼は「将軍実朝の祖父であり後見人である」という立場から、御家人代表になったのであり、あくまで「家来」だから、こういう名前になったのです。文字面から「ああ、これで北条氏が独裁権力を握った、ということね」と現代風に解釈するのは、ちょっと間違いです。

 鎌倉幕府を運営する関東武士たちは、あくまで「自分たちは、京都から派遣されてきた将軍の、家来をやっております」という看板を、表向きだけですけど、掲げ続けた、つまりそれが「執権政治」ということなんです。

だから、北条氏は自分が将軍になってはいけなし、そもそもなれないんです。


そのうち鎌倉幕府は、京都から子供の親王(天皇の息子)を貰ってきて将軍に立て、大人になって自分の意志を持ち出すと京都に送り返して、また新しい親王を貰う、っていう、後世から見ると「なにやってんだ」ってことをするようになりますけど。「征夷大将軍」というのが、もともとは京都から派遣された期限つきの遠征将軍である、ということから見れば、このほうが当たりまえ、といえます。幕府の「看板」は京都生まれのほうがいいし、新しいほうがいいんです。


承久の乱に勝ったんだから、もう遠慮なんかする必要はないだろう、看板かけ変えりゃいいじゃん、って思うかも知れませんが、そういう傲慢なことをすると必ず内外から反発を食います。日本では、たいていそうなります。せっかく上手く行っていた組織を無用にがたつかせることはありません。

京都からきた将軍なんて、単なる象徴だから、もう要らないといえば要らない、でも、なくさないんです。このへんが「日本人の知恵」とでもいうところで、「われわれは独立する~! 京都の朝廷とは縁を切って、武士による武士のための武士の政治をする~!」みたいなキッパリとした宣言をしたりは、しないんです、絶対に。

そういう「曖昧な存在のしかた」のほうが、なにかと上手くいくのです。

どうして? というと、それが「日本人のやり方」だから、です。


ちなみに。北条は平氏だから将軍にはなれない、って言うひとも、まだ相変わらずいますけど。

源氏だ平氏だは、関係ないですよ。

鎌倉幕府がこのあと京都から連れてきた将軍は藤原氏と皇族です。このひとたちは皆、頼朝の同母妹「竹御前」の子孫です(女系ですけど)。つまり、将軍は「都の貴種で、頼朝の縁続き」でなきゃいけない。関東武士とは人種が違う人じゃなきゃ駄目なんです。源氏だろうと平氏だろうと、関東地生えの武士は、征夷大将軍にはなれないんです。

あなたもスタンプをGETしよう

諱(いみな)というのは、生まれたときではなく、元服のときにつけます。

坂本龍馬の諱は、はじめ直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)です。

いつ、どういう事情で変えたのか、調べてみても出てきませんでした。

一般論として、武士の諱は結構、変わります。将軍や大名なら「この時期に、こういう理由で変えた」というのが分かりますが、普通の武士の場合はなかなか(ほとんど)分かりません。

諱といのは本名であって神聖なものである、といいながら、そんなもんです。下級武士にとっては諱なんか滅多に使う機会がないからです。

諱を使うのは、天皇から位を貰うとき、公文書に署名するとき、そんくらいしかありません。龍馬は自分が直柔という名前だと人に話したこともないだろうし、へたすると本人だって普段は忘れてるかも知れません。その程度です。

有名な話として、西郷吉之助の諱はホントは隆永です。下級武士であった薩摩藩士時代には、ずーっと吉之助どんとしか呼ばれておらず、友人知人の誰も、彼が隆永だとは知らなかった。明治維新で偉くなったので、位階がつくことになった。それで書類作成のとき「西郷の名前は何だっけ」というとき、誰かが「確か、隆盛だ」と言ったんで、それが登録されてしまった、ところが実は大間違いで、隆盛は父親の諱だった。しかし西郷は大人物なので。笑って「よかよか、おいは今日から西郷隆盛でごわす」で済ませてしまった、という話です。

普通の武士にとって、諱ってのは、その程度なんです。言ってみれば元服のときに作る礼服みたいなもんで、滅多に着ることもない(へたしたら一生着る機会もない)わけです。

坂本龍馬も、明治維新のあとまで生き残れば「坂本直柔」の名前で位階を貰ったかも知れません。ただ、後藤象二郎とか江藤新平とか、「いまさら諱なんて」といって通称のほうを本名にした者も多いので、龍馬もそうしたかも知れません。

なお、どんなとき諱を変えるか、って話は、長くなりますので簡単に。

諱ってのは、家ごとに共通な名前を一文字、烏帽子親(元服の世話をしてくれる人)に一文字、つけてもらうってのが普通です。家来のでも格が高いヤツは殿様から一文字もらえます(その殿様が国持大名なら、将軍から一文字もらえるわけです)。

なので、出世したとき、より高位の人から一文字もらえることになったとき、養子に行ったとき、目上の人とカブったとき、戦国武将なら主従関係や同盟関係が変わったとき、なんとなくその文字が縁起悪いとなったとき、不幸があって心気一転したいとき、とか、わりと人生で何度も諱を変えてる人物は多いです。

あなたもスタンプをGETしよう