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えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

阿波の能役者「斎藤十郎兵衛」、ここで出して来たかあ森下先生! 

写楽は斎藤十郎兵衛だというのは歴史学上では間違いないと決着してるんだそうですが(みなさん盛んに言っておられますけど)、それじゃ面白くも何ともない、って私、ずっと言って参りましたが。
それにしても、斎藤十郎兵衛という人物は、阿波に墓もあって、少なくとも実在したことは間違いないわけだから、どっかで名前くらいだしといたほうが良かろう、とは思ってたんですけど。
なるほどお?って感じですわ。

 ところで、嶋田久作さん演じる柴野栗山(りつざん)って、このドラマで始めて知ったけど、どんな人物なんだって調べて見たら、阿波蜂須賀家のお抱えの儒学者だ、っていう。
ははあ、この人が斎藤十郎兵衛の出現に噛む?わけかな、とは予想してたんですが。 
伏線が、実に緻密に出来ていました。
蔦重と定信が、最後には「組む」だろうとも思ってたけど。最後までお互い喧嘩腰で、マウント取り合ってたのには笑いました。 
将軍様が父親の抹殺に一役買うってのも、まさかの展開とはいえ、なるほどそういう道筋で来たか、と納得できるものでした。
 ただのモブキャラだと思ってた清水さんが大活躍?したのも、なんか嬉しい。 
お鈴廊下、「大奥」で作ったセットを、折角だからって最後近くになって使いましたかね。
 ほとんど「必殺!」みたいで、やたら面白うございました、今

なるほどお?って感じですわ。


このご時世に、熊の話を気楽にするのは憚られますが。歴史の話題ということで、お許し下さい。

熊本には、熊はいないそうですが。

では、なぜ熊本という地名なのか?

「隈」というのは、川が湾曲している地形のことを指します。

 川が湾曲した内側の土地だから「隈本」、三方を川に囲まれているのだから、これを天然の堀にすれば、築城に有利な土地ですよね。
それを加藤清正が、熊本という文字に改めたというのは、記録があって確かな話です。

 なんで熊なんてケダモノの名前が、戦国武将の城の名前に相応しいんだ、とか思いますか? むしろ、勇猛な動物の名前を付けるのは、戦国武将らしいって思いませんか?

 日本はアニミズムの国ですから、特に「野生動物のパワー」には尊敬の念が強く、人の名前にも、地名にも、多く使われています。

 そもそも、加藤清正自身が「虎之助」ですしね。

 お隣の「鹿児島」も、もとは「籠島」でした(湾の真ん中に桜島がある、まさにカゴの中のような地形ですよね)。

それを「鹿児島」に改めてます。

鹿の児(子)ってバンビかよ、とか言ってはいけません。鹿ってメチャクチャ強いんですよ。

早稲田大学のアメフトチームは「ビッグベアーズ」というニックネームです。もちろん、創設者の大隈重信先生に因んでいます。大隈先生も佐賀の出身なので、もとは九州人の名字ですね。

ちなみにライバルの慶応は「ユニコーンズ」、日大は「フェニックス」、スカシやがって、と思ってましたが。なるべく強そうな動物の名前をいただこう、と各校競っているわけです。


 突然、江戸時代はじめの話をしますが。

「宇都宮釣天井事件」(徳川秀忠暗殺未遂?疑惑)の事件の黒幕と言われるのが、徳川家康の長女で、「どうする家康」で當間あみサンが演じていた「熊姫」です。

 女の子の、しかも大名のお姫様の名前に、熊ってどうなのよ、と思うのは、たぶん現代人の発想なんですしょう。熊って動物は、生命力の象徴なんです。


わあ、ヒョロ君だあ!

「グニャ富」を演じた坂口涼太郎さん、今回のMVPじゃなかろうか、ってほど、見事な出来!

だってさ、写楽の絵って、役者の顔を面白おかしくディフォルメしたもんでしょ、その写楽の有名な絵に、逆に役者の方から似せに行って、あーホントにソックリだあ、って。

 坂口涼太郎さん、撮影の後で「私、《国宝》の前で、女形やっちゃった」と後で気づいて身の毛がよだった?って言ってるそうですが。いやいや、胸熱ではないか!?

ヒョロ君、というのは、映画「ちはやふる」で坂口涼太郎さんが演じていた役で、カルタのライバル高の選手だ。

最後の運命戦で、太一の渾身のフェイントに引っかかって、お手つきで負けて、嗚咽した場面が、あの映画の最高の瞬間?でした。私すっかり、ヒョロ君ファン目線で観てました。

こんときも原作漫画からの再現力の高さで絶賛されてたしねえ。

 最近は「らめ活」(諦めると、人生楽になる、という、みうらじゅん師匠の教えをもとにした、活動?)を提唱してます。ダンスもピアノもできて本も書ける才人ですわ。




映美くららサンの大崎、先々週の時点で「あー、フラグ立っちゃったな」と思ったけど、やっぱり、でしたね。 

毒饅頭を、自らの懐から取り出し、大崎の口に押し付ける一橋治済。
いままで「傀儡師(人形遣い)」として、他人を操るだけで決して自分の手を汚さなかった男が、ついに!
これは、貴重な瞬間ですよ。そのとき歴史が動いた、とも、言えます。
つまり「巨悪、確定!」です。これもフラグ、と言っていいんじゃないですか。
「べらぼう」あとたった2回、純粋に(史実ではなく)ドラマのセオリーで言えば、この一橋治済に、何の報いもなく最終回終わらせる訳にはいかないでしょう、どうしても。
しかし、史実では一橋治済が失脚したとか、早死にしたとか、そういう話は一切ない。
どうする、NHK?
そこで、今回最後に現れた謎の人物、「治済のような男」です。
思い出すんですけどね、あれは確か、竹中直人さんの「秀吉」だったかな。
西村屋さん、じゃなく西村雅彦さん(当時)の演じる家康が、本能寺の変のあと伊賀越えで逃げるぞ、ってときに、必死の形相で飯を食ってるんですよ。凄い情けない顔して。
なんだ、と思ったら、目の前の人物に向かって「もう、食えましぇ〜ん」って泣くんです。
すると、その目の前の人物が「食え!もっと太れ!」と冷静な(冷酷な)声で言うんだ、これも西村雅彦さん!
つまり本物の家康はこっちで、飯を食わされていたのは「影武者」だった、てオチ。
あの男、伊賀のどこかで落武者狩りに遭って☓んだかも知れないなあ。
そういえば当時「影武者徳川家康」が、ベストセラーだったんですよね。
と、いうわけで。
あの「治済のような男」、これまでも市中をウロウロしている姿が何度か映されていました。
生田斗真さんが演じているのは間違いないわけだけど。なんか雰囲気が全然違った。
つまり、我々は「治済がお忍びで出てきてる」と思い込まされていたけど。実は「そっくりな別人」でした〜、というオチは、アリなんですよ。NHK的には「アリ」なんです。
べらぼうでも既に、大文字屋市兵衛の「そっくりな二代目」を同じ伊藤淳史さんが演じてます、もう、これって「伏線」じゃないすか?
同じ生田斗真さんが演じていても、「一橋治済のような男」は、別人かも知れないんです。
なんのために、そんな?
もちろん、ドラマ「べらぼう」として、悪の巨魁・治済に、何らかの鉄槌を下すための「駒」です。
史実の一橋治済は、権力を振るって長生きします。この史実は動かせない、ならばドラマの中だけでも、治済に鉄槌をくだすことは、できないか?そのために、この「なぞのそっくりさん」が使われる、もとい活躍することになる、ような気がします。…スリカエ?さて、どうでしょうかね?


「歌舞伎絶対続魂 幕を閉めるな」 

 三谷幸喜作脚本。

 なるほど、これは見事に、歌舞伎版に翻案したなあ、と感動してます、私は。 

昔の東京サンシャインシティボーイズ「幕を開けるな」から、どんだけ変わってるかと思ってたんだけど。

 

類似ネタは、だるまさん弁当が鼓と枕に変わってた他は、ほとんど新規のアイデアだ。

「萬マクベス」が「義経千本桜」に変わったんだから、そりゃそうか。 

 歌舞伎座の公演は終わったので、ネタバレで書きますけど。 

前作で西村雅彦さん(当時)が演じていた「舞台監督」が、この歌舞伎版では「座付作家」松本幸四郎先生です。

前作では最後まで舞台裏のドラマだったのが、今回は歌舞伎座の回り舞台のおかげで、義経千本桜の表舞台が見られるのが胸熱。

この舞台で、いちばん感動的だった(ぐっときた)のが、松本幸四郎先生演じる座付作家が、ついに舞台に出た場面です。

縁側の「穴」から狐忠信が転がり出る瞬間、もう凄い拍手でしたね。 

もう30年以上前に観た「ショー・マスト・ゴーオン 幕を下ろすな」では、西村雅彦さん演じる「舞台監督」はプロフェッショナルな裏方だった。

 今度の舞台の座付作家は、かつて役者だった経験があり、だから普段の台詞にも、女形だった昔のクセが時々出てくる。


アクシデントが次々に起こり、舞台に出るはずが無かった人物が次々に舞台に出ていき、最後に座付作家が、主役の狐忠信で舞台に出る羽目になる。

何十年ぶりかの表舞台、その瞬間の拍手が物語っていたけど、心の底ではいつかまた役者に、という主人公の思いが、このとき叶ったってこと、なんだよね、多分。 

フィナーレの「ポップスター」が、なんか聞いてて泣けてきましたよ、私は。
というわけで、すごくいいものを観た。

 

「果てしなきスカーレット」 

細田守監督、開幕早々、というより開幕前から、とんでもない酷評の嵐ですが。 

俺としては、観ないでアレコレ言う訳にいかないじゃないですか。 

だって、「ハムレット」だって言うんだよ?

シェイクスピアだって。 

ハムレットなんて、俺もう、映画演劇漫画小説、何十種類見たかわからんからね(たぶん、百は下らない、て自信あるよ)。 

自分が出演した舞台も、2回ある。ソサエティで、ポローニアスを演じまして、ハムレットに殺されました。

天栃ではクローディアスをやって、やっぱりハムレットに殺されました。はい。 

翻案モノも、随分見た。ライオンキングも、あー、見たな、娘が、小学校の学芸会でやったやつ(幼いときのラナをやってて、世の中弱肉強食でしょ、みたいな歌を歌ってたなあ)。

 ハムレットの話を始めたら、一晩二晩では終わらんくらいの人間ですから。

細田守監督がどんなものか、取り敢えず観ないと、批判も出来ないでしょ。 


観ましたよ、とにかく。 

 なるほど。 

正直に言います、言われるほど、観ててつまらなくはない、映画としてはね。アニメーションは結構凄いし、芦田愛菜はやっぱ、偉いと思う。 

その上で、言いますけどね。 

ハムレットの翻案モノとしては、いかん。
いかん上にも、いかん!
細田守さん、ハムレット全然分かってないでしょ?てゆうか知らないでしょ?

ちょっと許せないレベルで、勘違いしてる、てゆうか浅い! 

ハムレットの登場人物の名前を、まんま使ってるのに、全部薄っぺらい悪役にされちゃっていて。 

少なくとも、もとポローニアス、もとクローディアス、としてはね、これは酷い、勝手に名前だけ使うなよ!と言いたい。こんな薄っぺらい悪人じゃないぞ。 

いや、寧ろ、「ここは違う、ここは酷い」とツッコミながら観てたから、全く飽きずに観られました。
そういう楽しみ方は、アリでしょう。


 ハムレットとして、どう間違ってるか、の話は、始めるときりがないので、もしかしたら別に書きます。 

 ひとつだけ、書いておきます。 

「スカーレット王女」がハムレット王子のモジリ?なら(スカー、てのは傷って意味だ、と誰かが言ってた)、場違いに未来からやってきた「聖(ヒジリ)」(岡田将生)てのは?

 「寺に行け」って言われてるシーンがあるから、オフィーリアだって言う人もいるけど。
いや、こいつはホレーショでしょ。

「未来から来た聖職者」。名前はオラティオ(切支丹用語でオラショ)、祈祷から来ている。

それは、それてして。

オフィーリアがいないんなら、ポローニアスにもレアティーズにも、存在する意義がそもそもないじゃん。


 あと、細田監督によると、スカーレットのイメージモデルは、むしろエリザベス一世(シェイクスピアの時代のイングランド女王)なんだそうで。

 ああ、なるほどね。
だから「16世紀」って言っちゃったのね? 

でも、ハムレットはシェイクスピアから見て「大昔」の物語なんだよ。デーン人の襲来、って世界史でやってたでしょ。ウィリアム征服王より昔の話として書いてるんです。
そこからして、勘違いです。





午前10時の映画祭「アマデウス」4Kレストア版。

うあ、映画館でやってるのかよ!

これは俺が観ないでどうするんだ、てもんで。

いやあ、改めて、面白いなあ、これ。

人生観がでんぐり返るような経験って、なかなかないよ。これは、そういう物語なんだ。

改めて観ても、全然古くない、これCGとか全然ない時代に、この絵を作ってるのは、なんか神業だな、ミロス・フォアマン監督。

学生のとき、ピーター・シェファー作の舞台(松本幸四郎(当時)がサリエリ)を観て、わりとすぐに映画になったのを観て、すっかり「すべての凡庸なる者の守護者」に救われて?きたもので。

この歳になって改めて観ると、余計にツボる。何者にもなれなかった、神の恩寵を受けなかった者としてはね。

改めて観ると、サリエリもウォルフィ(モーツァルト)もすごくいいんだけど。コンスタンツが、超絶可愛いなあ!この女優さん他にどっか出てる?いま検索してみたけど、エリザベス・ベッリジさん、これ以外にはあまり大作には出てないみたい。

ちなみにモーツァルトやったトム・ハルスさんを検索して出てきた写真が、ちょっとショックだ。

サリエリのエイブラハムさんは、そのあと「薔薇の名前」に出てたのは見たけど・・・へえ、グランドブタペストホテルにも出てたんだ。

三代将軍家光の弟・忠長は、両親に甘やかされて育ち、一時期、跡継ぎ差し替えかとまで言われたので、ほんとはオレが将軍になれたはずだった、と傲慢な振る舞いが多くなった。

そういう筋立ては、話としては面白いんですが。

忠長本人の性格問題よ云々りも、「秀忠側近グループの陰謀」に忠長が担がれてしまった、という構造で観たほうが、よりクリアになります。

政権移譲に伴い権力を喪うことを怖れた土井利勝たちのグループが、忠長を擁立することで権力維持を図った、秀忠も忠長もそれに乗せられた、という筋書きです。

よく語られる俗説では、竹千代(家光)が乳母の春日局に懐いて、両親を嫌うようになったため、春日局を嫌っていた母親の江与が、乳母をつけずに自分の乳で育てた国松(忠長)を跡継ぎにしたいと強く望み、江与に頭が上がらない秀忠もそれに同調し、竹千代を廃嫡しようとした、という話になってますが。

これは、大部分が「嘘」と言えるものの、いや、全く根も葉もない話でもない、かも知れません。

秀忠、江与の夫婦が、春日局と反目していた、というのは、ありうる話です。

それは勿論、斎藤福が明智光秀の家臣の娘だから、なんていう馬鹿馬鹿しい筋違いの理由では、ありません。

斎藤福(のちの春日局)は、公家の三条西家で養育された、文学的教養に満ちた女性であり、家康が、孫の家光を「立派な将軍」にするために、わざわざ京都でスカウトし、秀忠の頭越しに江戸に送り込んだ「大御所お墨付きの、教育のプロフッショナル」です。

秀忠夫妻にしてみれば、駿府の家康から「管理官」を送りこまれたようなもの、といっていいでしょう。

「春日局が家光を溺愛するのに懲りて、江与は次男が誕生すると乳母をつけずに、自分で育てた」というのは、嘘です。当時の高貴の女性が「育児のプロ」である乳母をつけずに、自分の乳で育てるなんてことは有り得ません。 

忠長にもちゃんと乳母がいました。朝倉局、土井利勝の妹です(彼女の夫は越前朝倉氏の一族の旗本です、つまり「昔は敵だった名家」の生き残り、という意味では、斎藤福と同じです、家康は、こういう復活人事が大好きなんです)。 

土井大炊頭利勝は「秀忠の側近No1」というべき存在です。いっぽう、春日局(斎藤福)は駿府の大御所・家康が寄越した小うるさい管理官です。 

秀忠は、表向き家康に従順ですが、内心はその口出しを煙たがっていたフシもあり、なんとか実権を自分で握りたいものだと思っていました。

もちろん利勝は、その急先鋒の推進役です。 

「父・家康の命令どおり長男を跡継ぎにするのではなく、自分の判断でデキのいい次男を跡継ぎにしたいものだ」と秀忠が考えても無理はないところです。

しかし、これは家康にしてみれば、将軍家の存亡に関わる不祥事になりかねない愚行です。

長幼の序を乱して、有能とか聡明とかいう客観性のない理由で跡継ぎを変えるなんて、絶対にしてはならないことです。

それは親の依怙贔屓以外の何物でもない、かならず家臣団が2つに割れてお家騒動を始める、そうして衰退した戦国大名家を、家康はいくらでも観てきているんです。

 将軍家みずから長幼の序を乱したりすれば、全国の大名が真似をして、跡目争い、お家騒動が頻発することになるでしょう。

そして内乱が起こり、日本が崩壊する。これは、家康がせっかく作り上げた幕藩体制の危機なんです、いやいや決して大袈裟ではなく。

そういう馬鹿なことを秀忠が万が一にも仕出かさないように監視するために、斎藤福は駿府から江戸に派遣されてきているんです。 

秀忠がおかしなことを考えているなら、とにかく家康に報告して対策を取らねばなりません。斎藤福はこの任務のためにいます。

結果として、秀忠は父の命令どおり長男を跡継ぎにし、次男は犠牲にされます。

土井利勝も、そ知らぬ顔をして将軍・家光に忠勤を励みます。忠長はのちに腹を切る羽目になります。 

ちなみに土井利勝は「家康・秀忠・家光の三代にわたって政治の中心にあった大物」ということになっていますが。大御所秀忠が死去したあとは、名誉職の大老に退いています。

やはり「秀忠派の巨魁」は家光には煙たい存在で、従って事実上の引退を余儀なくされたということでしょう。

「家光と忠長の跡目争い」というのは、「駿府の大御所派と、江戸の秀忠派の代理戦争」という側面があった、と言えます。

 斎藤福が、家康側の監督官として動くのは当たり前のことです。もちろん、江戸の秀忠派官僚たちからすれば、「あの女、何様だ」と、苦々しいことこの上なかったであろうことは、想像に難くないですが。

「家康派対秀忠派」と簡単に書きましたけど、むしろ「将来の家光側近グループ」が大御所家康を味方につけて勝利した、とも読めます。

この件は、かつての松平信康事件と、たいへん良く似た構図です。家臣団の暗闘に「担がれてしまった若君」が、結果として家の維持のために粛清される。そこで、家臣団の分裂という大きな恥部を隠蔽するため、若君本人の性格、粗暴さ、みたいな話に原因を矮小化して語られてしまう。

こういうことは、常にあることです。

ところで。

豊臣政権は、なぜ、秀吉が死んだ途端に瓦解したのか、といえば、秀吉一人のカリスマ性に頼った政権だったからです。

豊臣は、秀吉という超優秀なドライバーのためにチューンされた高性能マシンだった。

秀吉が死んだあと、別のドライバーには扱えず、クラッシュしてしまったのは必然です。家康は、それを良く見ていました。

自分がこれから作る政権は、操縦席に誰が座っていても、自動運転で、そこそこのスピードで、事故も故障も起こさず走るものでなければならない。

だから、自分の後を嗣ぐ将軍は、余計なことは何もしなくてもいいような仕組みを作ってから死んでいったんです。ここが、家康の凄いところです。

国家の指導者が有能な人格者であれば、いい国になる。これを「哲人国家論」といい、理想家・プラトンの思想です。

選挙とか多数決とかによらず、何でも分かってる「哲人」が独裁するのが、良い政治体制である。

しかし、現実にこの思想で長期の安定を築いた国家があったか。残念ながら否です。

なんでかっていえば、「哲人」指導者が出現するかどうかはある意味、ラッキー、アンラッキーの世界だからです。

哲人の息子が哲人であるとは限らない、いや、その可能性は極めて低いからです。

それに対して「民主主義」というのは、とにかくそこそこ有能な人材を、選挙なりなんなりのシステムで選び、政治運営を任せるけど、世襲はさせない、というシステムです。選挙なんてのは衆愚のモトですから、本当に人格者が選ばれることなんか期待できません。

でも、とにかく、そこそこな人間が持ち回りで政治をするほうが、独裁者の支配よりよっぽどマシである、ということです。

駄目な時はすぐ取り替えられる、からです。

このシステムを部分的・限定的にでもに実現したのは、北条でも足利でも織田でも豊臣でもなく、実は徳川であった、と私は考えています。

「余は生まれながらの将軍である」と宣言した三代将軍家光は、有効な政策を次々に実施した名君のように言われるけど、実際には政治は家来に任せきりの無能な将軍だった、性格にも、かなり難がある人物だった、という説もあります。

あくまで説ですけど、それはかなり当たっている可能性が高いでしょう。

江戸幕府の将軍には絶対権力があったかといえば、それは違うんです。幕府の政治は全部、そこそこ優秀な家来どもが、持ち回りでやる。将軍は老中の上げてきた決定事項を、原則としてそのまま承認する。だから、室町幕府のように、代々の将軍が有能か無能か、みたいな不確定要素で、日本の政治がよくなったり悪くなったりはしない。

これが、家康が作り上げた、江戸幕府を安定して長続きさせる秘訣なんです。

だから将軍は、子供でも、病気でも、無能でも、一向に構わないんです。

「余は生まれながらの将軍だ」というのは、要するに「自分が将軍であるのは、能力とか何とかが理由ではない、最初から天の意志で決まっていたことなんだ、だからオマエたちのうちでオレより能力があると思ってるヤツがいても、将軍にはなれないよ。もう能力で勝ったヤツが天下を取るって時代じゃないんだよ」って意味です。

つまり、「オレ無能だけど、何か?」って言ってるも同然なんです。

将軍には能力は要らない、優秀な家来どもがよきにはからってるから平気だぜ、という意味の宣言だと解釈したほうがいいです。

もちろん、家光が自分で考えたわけじゃないでしょう。誰か有能なスピーチライター(それこそ知恵伊豆あたり)が草案を書いてるに決まってます。家光、まさか「オレは無能だ宣言」を堂々をやらされた、とは思いもしなかったでしょうけど。

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家光が将軍である期間(治世)において、幕府が行った政治的成果は、みんな家光の手柄ということになります。教科書にもそう書かれます。

歴史というのは「そういうルールになっている」のです。家来たちもそのつもりで仕事してるので、余計なお世話です。

ということで、家光は鎖国しました。参勤交代を制度化しました。多くの外様大名を取り潰しました。本当は全部、そこそこ優秀な幕閣(家来ども)がやった仕事ですが、家光が「よきにはからえ」と言った瞬間に、それは「家光の仕事」になります。

「よきにはからえ」というのは無能な馬鹿殿の決まり文句のように思われがちですけど。実のところ、名君というのは「有能な家来たちの仕事を邪魔しないひと」のことなんです。中途半端に有能で意欲的な殿様というのは、むしろ危ないんです

映画「遠い山なみの光」の、ティーチインつき上映があり、石川慶監督と、吉田羊さんが生で観られる、ということで。
これは行くでしょ!ということで、キノシネマ新宿に行ってきました。

カズオ・イシグロ原作、この人の小説は「深い」だけじゃなく、謎解きとどんでん返しがあって「めっぽう面白い」のです。その映画化ですから、映像ならではの工夫というかトリックが満載で。

いっぺん観た映画ですけど、もういっぺん最初から観ないと気が済まなくなります、たぶん。

長崎からイングランドの田舎に移住した主人公「悦子」が、ジャーナリスト志望の娘(日英ハーフ)に、自分の越し方を語る、という構成。長崎で何があったのか、なぜ「移民」になったのか、の物語は、まあまあ壮絶なのだが。この思い出話はどこまで正確なのか、肝心なところで嘘をついている、というか記憶を再構成してるようで、「なんか、不自然だぞ、辻褄合ってないぞ」と思いながら観ていると‥、という、「考察系ドラマ」みたいなところがありますんで、これは何度観てもいいです。

ティーチイン、ということは、観客の質問に答えるイベントなので、ここはと思って真っ先に手を挙げたら、吉田羊さんに「では、そこのカズオイシグロさんみたいな雰囲気の方」と、指して貰いました(笑)。


(以下、多少、映画のネタバレします。)

「長崎に原爆が落ちた、というのは日本人なら所与のことですが、イギリスはじめ海外では、ナガサキと言われただけではピンと来ないかも知れません。キノコ曇の映像を入れるとか、焼跡を見せるとか、外国人にも分かりやすくしようとは考えませんでしたか。主人公の悦子さんは実は被曝しているのでは、というのは物語の終盤に出てくる重要な要素ですし」みたいなことを質問しまして。
監督によると、いわゆる原爆映画にはしたくない、中心テーマは親子関係と、故郷を捨てる(失う)ということで、被曝もそれを描く一要素に過ぎない、終戦から7年ほど経った長崎はかなり復興していて、人々は前を向いている。
被曝者といっても爆心地からの距離などで、症状が出る出ないは様々で。
吉田羊さんの父上も、申請すれば被曝者手帳を貰える立場だったのだけれど、申請しなかった、自分でも「被曝者」とは名乗りたくなかったし、呼ばれたくもなかったのだろう、だからこの悦子の気持ちはよく分かる、という、うあ、すごく貴重な話を伺いました。
吉田羊さん、とにかくかっこよかった。
日本神話を題材にした映画って、どんなもんがある?

1959年の「日本誕生」は、三船敏郎と司葉子主演、わりと正統派の日本神話映画?ですけど。

1994年の「ヤマトタケル」という東宝映画、これが傑作というか、面白いですね。ほとんどゴジラとかキンギグキドラとかのノウハウで作ってる「特撮怪獣映画」です。主演が高島政宏と沢口靖子、といえば、なんとなくテイスト分かりますよね。子供からお年寄りまで楽しめる?愉快な冒険活劇でした。メカ?も出ます。

あ、ひとつ忘れてた。

1963年の東映アニメに「わんぱく王子の大蛇退治」ていうのがありますが。この主人公がスサノオで、大蛇てのはヤマタノオロチなんですよ。子供向けの冒険活劇ですけど、イザナギ、イザナミ、アマテラスやツクヨミもちゃんと出てきて、紛れもなく日本神話の話です。これ、初期東映アニメの隠れた傑作と言われてます。

どれも、U-NEXTで見放題で見れます。


あと、
市川猿之助のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」を映画化した「シネマ歌舞伎」版が、何年かごとに再映されますので(東銀座の歌舞伎座の近くの東劇とかで)、やってたら見逃さないでください。