継父は営業マンとしては優秀だったが経理に無頓着過ぎる欠点があり営業所の部下の使い込みに責任を取り、一応決着をつけて退職、つてがあって建材販売の会社を興した。またすぐ今度は紹介された経理担当者に持ち逃げされた。残ったのは借財のみ。わずかな母名義の預金で高校卒業までは何とかしのげたが大学受験はあきらめなければならない状態。

 でも私は大学に行きたかった。

 実父の母親である祖母に相談すると伯父に話してくれ、快く受験料を出してくれ、さらに受かったら1年分の必要なお金は貸してくれるという約束までしてくれた。

 大学受験の間際になって継父は不在地主でもうあまり残っていない田舎の土地の処分などのためと母を借金取りから守るためもあって姿を消した。

 それがS31年である。母と私は社宅を出て一間のアパートに移った。

 伯父に紹介された中学受験のお嬢さんの家庭教師が私の最初の仕事であった。

 それで評判がよくもう一人男の子を紹介されどちらも裕福なお宅であったため待遇は抜群、いい収入となった。

 さらに土日は学徒援護会でアルバイトを捜し様々なことをやった。選挙の鶯嬢、バーゲンセールの臨時店員、電話局の清掃と設計図の線引き、怪しげな雑誌に怪しげな栞を挟む仕事etc.。

 1年目、奨学金は前年の所得が多かったためまだ取れない。稼ぐしかない。2年からは受けた。

 母は紹介されて3日仕事に出たが「私には無理。」とお断りしてしまったから、私のわずかな稼ぎで母と二人の食費もほとんど賄った。母は謡曲のお友達の家で皮手袋を縫いに集まる方たちとおしゃべりしがらの内職をして、銭湯代になったっけ。

 池袋に、西武、東武、三越とデパートができ、戦後の復興は進んでいた。

 けれど東京多摩の砂川町で起こった米軍飛行場拡張の反対運動は安保闘争へとつながっていき、学生運動も盛んになった。

         

 デモに参加する人たちの情熱をまぶしく眺める私はノンポリ・ノンセクト。それしか立場の置きようもなかった。

         

 巷には太陽族と呼ばれる人たちがあふれていたが、石原慎太郎の「太陽の季節」に登場するような金持ちのボンボンのことで、今の若者よりはずっと地味だった気もするが湘南の海岸で群れる彼らとも私は無縁だった。

        

 

           あの日わたしは 

 

     無機質な化粧板のテーブルに

     失った恋に泣く友

     漂ってくるカレーの匂いに

     かみあわない切なさ

 

     階上から聞こえる

     麻雀杯かきまわす音

     拾いだす言葉どれもむなしく

     ガラガラとまじりあう

 

     安食堂の苦いだけの珈琲さえ

     私の財布には重たいのに

     遊びのような恋の終わりに何を言えばいいの

 

     学生の町の夕暮れ

     失う恋もないわたし

     茫然とデモの旗過ぎるのを見ていた

 

               若き日の私のソネットから

           

    

 

      

 私の幸はどこにあるのかわからなかったけれど。

 

 そしてやややけっぱちでも私の応援歌になったのがこれ。

    

        

 何時もはドリス・ディーの英語版で歌っていたけれど。

 

 幸い3年の半ばに父が復活、家も会社のお世話で団地の連舗住宅に入り、交通費だけは出してくれるようになった。少しずつ貯めたお金帰しに行くと「卒業祝いにとっておきなさいって。」言ってくれた。皆に助けられて無事私は大学を卒業できたのだった。