終戦直後、継父は預かっていた学徒動員の女学生たちを無事に親もとへ帰すために奮戦していた。アメリカの兵隊が入ってきたら何をされるかわからない…それが一般の常識だったようだ。もちろん幼かった私には何を意味するものか分からなかったがとにかく疎開先の家のお姉さんは1週間もしないうちに貨物列車を乗り継いで真っ黒になって帰ってきて、涙ながらの終戦とそのあとの混乱を話してくれたが、継父の努力には感謝してくれていたから、私たちへの風当たりは強くならなかった。
驚いたことに空襲さえ一度しかなかった田舎の村の道を2台のジープがやってきたのは終戦から1週間くらい経った頃だった(そうだ)。ジープには先頭にアメリカのGIが二人。後ろには多分オーストラリア兵が二人のっていたような気がする。夏の盛りだから涼しい縁先近くで食事をしていたのだが気づくと残っていたのは母と私だけだった。近づいたGIが「〇×▲ワラ?」と私には聞こえた。母は戦前外国の人も集まるパーティーに参加していたから彼らをけだものとは思っていたかったのだろう。「ワラ?」と言い返した。彼は水を飲む手真似をした。母はご丁寧に「ウオーターね」と発音の訂正までして、食卓に置いてあった薬缶からコップに水を汲みお盆に載せてさし出した。4人は交代に2杯ずつ水を飲み、手まねで水筒を指さした母にうなづいて水筒に水を満たしてもらった。
彼が差しだしたのはハーシーの板チョコだった。母はにこやかに「サンキュー。」と言って受け取り、彼らはまたジープで去っていった。それだけの出来事だった。
どこかに隠れていた家族が5人出てきておじさんおばさんは「毒だといけないから食うな。」といったが、母は包装をはがしてチョコレートをひとかけ私にくれ自分も口に入れた。世の中にこんな美味しいものがあるなんて思わなかった。私たちが死なないことを確認してそこにいた皆も食べた。なんといっていたかは覚えていないが等分に分けて感動して食べたことは確かだった。
東京では子供たちがGIに「Give me chocolate .
Give me chewing gum.」と施しを受けるために群がっていた。それが敗戦の現実だった。


