着任した学校は当時は純農村。麦も米も見分けがわからない栃木弁がわからない私は外国にきた様だった。

 1961年義母が日本橋の昔住んでいた小さなビルを処分した。そのお金で夫に宇都宮の土地を80坪買ってくれた。では家を建てようといってもやっと仕事復帰したばかり継父のところにお金はない。

 オリンピックに向かって日本は復興の真っただ中。人事院勧告で給料は上がっていった。住宅金融公庫は4回くらい申し込まねば当たらないと聞いて申し込んでその間お金貯めよう……と思ったら1回目で当たってしまった。 小さな家を建てることにし

た。自己資金はトイレ分くらいで。

      

 この年初めて中学生の1年生の担任になる。自分のクラスを持てた。うれしかった。大変だけど楽しかった。

      

      

1962年夏家が建って引っ越した宇都宮鶴田町。そしてここが私の

故郷になる。

    

    45年も住んだ。

      

   

 子供たちもその保護者もみんな素朴で楽しい学校だった。こまかいことで悩みはあってもそれは覚えていない、子供たちと学び、遊び自分のことはあまり考えないうちに7年過ぎた、

 さすがに周囲で自分のお子さんは?といわれるようになって気づいた。そして不妊

治療に行こうという時になって妊娠した。

 7年目の子供という事になる。うれしかった。

 1963年2月雪の日わずかな段差で滑った、それだけのことなのだろうが出血が止まらず流産した。

         

     

        私も女です

 

  --神は女が 子を産むように 創りたもうたーー

 

  私はわすれることができない

  一度は私のものになるはずだった

  生命(いのち)の重みを

  激しい痛みが去ったあとの

  心を包んだ闇の深さを

  私の中に

  はじめて宿った小さな生命が

  私の意志とはかかわりなく

  消えて行ったあの日を

  たとえ一握りの生命でも

  握りつぶすには大きすぎると

  私は思いたかった

 

  同じ日 同じ部屋で

  あなたはあなたの明確な意志で

  あなたの血の通った

  小さな生命を捨てた

  私には

  枕もとで見守る夫がいたけれど

  ピンクのマニュキアをした指で

  病院の重い布団の襟を握りしめて

  ひっそりと痛みに耐えていた

  あなたの心も傷ついていると

  私は知っていたのに

  あなたに注いだ私の瞳の冷たさを

  どうしてもあなたのしたことを許せない私を

  どうぞ 責めないでほしい

 

  ーー神は女が 子を産むように創りたもうた


  それでも

  私も女です

 

 それは深い悲しみだったけれど現実はそんなに落ち込んでいられない。だから詩を読んでくださった方もそんなに深刻に受け止めないでいただきたい。

 

 それから2年余り不妊治療に取り組むが、教師は毎日多くの生徒を目の前にしていなければならず、放り出してはおけない。授業を変更したり、交換したり。流産した後も卒業生持っていたから大変だったので、治療に通う方が疲れた。夫は定時制勤務の時だったので本当によく協力してくれたけれど、注射や、薬でガタガタになっていく私にこういった。「僕はあなたに子供を産んでもらうために結婚したんじゃない。もう無理はやめて二人で暮らそう。」って。

    

 それから私たちの暮らしは元に戻った。部活のない日曜日はドライブを楽しんだり。卒業生や在校生が遊びにきたり、時には泊まり込みで来るものさえあって賑やか。そのために少しずつ建て増しが必要になったほどだった。子供のいない寂しさなんて感じなくなってきていた。農村の学校から同じ市の中心へ、そして宇都宮の自衛隊の街へと勤務先は変わり再び7年がたってしまう。