1958年 夏休みバイト先のお父さんから大蔵省の貿易年表校正のバイトをいただいた。もう一人枠があるが同級生にいないかなといわれその話をしたとき、丁度夏のバイトがまだ決まっていなかったM君が名乗り出た。それが夫である。
その部屋は学生ばかり20人くらい、毎日上がってくる年表のゲラを原稿と照らし合わせて校正する仕事が一月あまり続く。
もともとグループの一人だからたまに夜家庭教師がない日、丁度東京タワーが建築中の傍の家によって麻雀に盛り上がる男性陣の傍で女性陣はおしゃべりしたり、そんな毎日だった。
2年の時ここから始まった計画で秋田の花輪から十和田湖を経由し青森から群馬の猿ヶ京2泊ずつ、車中泊2泊の大貧乏旅行したことある。宿は半額でごはん食べ放題。なのに二の膳付きだったっけ。2軒とも私を育ててくれた祖母の親戚だった。
いつからだろう?気が付いたら秋の妙義山の紅葉を見に行ったり、二人だけで行動するようになったのは?でも私は前のことがあるからなんとなく友達でいたい気も
していた。
あれは春の休み彼がゴルフの打ちっぱなしの練習場でバイトした時、夕暮れの多摩川の河原で「もし時間がたってどうしてもお互いが必要だという気持ちになったら結婚しよう。」って約束した。
1959年 4年になった。教育実習は私は東京。彼は出身校の長野。たった2週間なのに毎日手紙を書いた。それでもまだ結婚という言葉は出なかった。
学校祭の休み彼に誘われて伊那の家に行った小さな農家の納屋の2階の部屋で蚤に食われながら一晩泊めてもらった。さらさらと葉を落とす落葉松林を黙って歩いた。
採用試験は私は東京と埼玉に受かったが埼玉で採用が決まった。東京はコネがないとだめだといわれた。彼は栃木に採用された。
1960年4月。私は埼玉県飯能市で1年、小学校教師をした。子供たちは可愛かった。休み時間も周りから離れなかったから別れるときは女の子はみんな泣いてくれた。
1年たっても気持ちが変わらない様なら…、でも半年後に彼は我が家にきて両親に結婚させてくれと申し込んでくれた。
私の苗字を名乗ってくれることになったが採用試験は出版社なども受かっていた私の方が強いからと私が栃木に行くことに決まった。
1960年3月29日、継父の会社の紹介で大きな料亭で古風な結婚式を挙げた。本当は友達いっぱいの会費制でやりたかった、忙しくて計画するの暇もないし継父のたっての願いだったから。
伊豆山温泉で一泊して、次はもう宇都宮のアパートに行った。一畳分の台所があるだけの小さな8畳間のアパートだった。そうしてママゴトみたいな若い夫婦の生活はスタートした。知り合ってからはもう5年たっていた。


