4時半まじかになっても公園では子供たちが遊んでいます。
昨日英会話では椅子の間をあけてマスクだけで授業しました。久しぶりです。
子供たちもマスクはしていましたが顎までずれている子もいました。
埼玉県今日の感染者数1923人そう憂くないとも家にけれど、なんだかもう慣れっこになってきた気がします。
これは昔書いた記事の焼き直しです。
自分史になるかならないか、こういうのって難しい。
私が今住んでいるところはいったり来たりもあったが、とにかく生まれてから14回目の引っ越しで落ち着いたところだ。
1937年6月芦屋で生まれた。東京育ち同士が結婚してなぜそこにいたか今となっては知っているものもない。
芦屋の小さな家で父母は暮らしていた。母には一人女中が実家からついてきていたという。1938年1月ごろらしい。半年くらい前に結核がわかって入院していた実父が肺炎を起こし亡くなった。私にうつるといけないと病院に 来させず会わずじまいだったという。
唯一残る実父と私。
晩年の十年余りを我が家で過ごした叔母から聞い話。
父の実家東京の山伏町に移り、22歳の寡婦である母は実家にもどる。
後継ぎの伯父に10年近く子供ができなかったので私は祖母に育てられることになる。
1939年世界大戦がはじまる。12月8日、真珠湾攻撃。戦勝を祈って寒い庭で皇居に向かって柏手を打った。
母がいつ再婚したかは定かではない時々会いに来てくれていた。
1943年伯父に子供が生まれることになり、隠居所のある都立大学の家に引っ越した。母は何度か流産してどうしても子供が欲しい継父の申し出で私が母のいる 田園調布に移り幼稚園へ。
1944年継父が軍需工場の工場長となり横浜綱島の社宅にうつる。
田園調布の家には家政婦さんがいて家のことを取り仕切っていた。
食事の世話だけでなくお風呂も一緒に入ってくれて疎開した時以外彼女が引退して家に帰るまで9年間私を育ててくれ1945年4月疎開。岩手県湯田温泉へ疎開・
8月終戦。11月 綱島に戻る。
1947年ミッションスクールへ編入・同じ小・中・高を卒業することになる。
東京 神戸
1948年 軍需工場はなくなったので父はガラス会社の工場長となり横浜鶴見の社宅にうつる。
小学校6年までにすでに7回もあちこちしている。
1952年の夏まで私はここから電車を乗り継いでミッションスクールへ通った。
同時に近くの洋裁学校の和室で母がお茶の手ほどきを始めたので、そこに来る先生に日本舞踊を習い始めた。これはあっていてすごく楽しかった。
夏に継父が大阪支所長として転勤、しばらく叔母の家から学校に通った。
1953年 兵庫県芦屋の社宅に移り住み、同じような神戸のミッションスクールの高等部に入学した。ここで1年半こちらでも間を開けずに踊りの先生は見つけられたし。高等部に同時に入って友が近くにいたし、従兄たちは甲子園目指して休みのたび押し掛けてくるし、寂しくはなかった。
継父の部下の使い込みが発覚し、急きょ東京の本社で事後処理・
1955年1月東中野の社宅に引き上げた。ここからまた元のミッションスクールに戻った。
父は責任を取って退職。それでも1年以上この社宅はお情けで住まわせてもらっていたが、何かわからないが会社のお金をだまし取られ倒産借金取りに追い回されることになる。
1956年4月大学へ。もちろんやめようと思ったがせっかく勉強してきたから受けて見たかった。受験料さえない。卒業させてくれたのがやっとだった 伯父に借金。受かったと聞いたら伯父がさらに入学金と1年分の学費を払ってくれた。その上、
中学受験生で大変だけれどと割のいい家庭教師先まで紹介してくれた。おいしい夕食付きだし。最高だった。
1956年4月。継父一時姿隠す。母と私は中野のアパート一間へ隠れ住む。収入は私のバイトと母の内職。(革手袋の手縫い、お風呂代くらいにはなった。)あとは母の着物の売り食い。
母、お仕事世話されていったけど、「私にはできないわ。」と3日でやめたつわもの。
でもお昼抜きの貧乏でもなんかこの時代充実していて懐かしい。




